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商人の義

 

 甚四郎・利助・多恵の三人は、馬場丈右衛門の書付を受け取ると代官所を後にした。

 同心達は何があったのかと訝ったが、もともと馬場の狂った遊興は同心たちの間でも密かに知られており、眉を顰める向きも少なくない。

 『あなた方はお役目に忠実だったとご家老様に申し上げておきましょう』という利助の言葉と、手に握らされた小判によって完全に骨抜きとなっていた。


 三人が山形屋に戻ると、仁右衛門直々の出迎えを受けた。深夜にも関わらず、寝ずに待っていたようだ。


「おお、多恵。済まんかったな。辛い目に遭わせた」

「いえ、事情は聞きました。驚きましたけど、お役に立てたのなら良かったです」


 多恵は少し元気が無かったが、甚四郎と繋いだ手を離そうとはしなかった。利助の部屋に通されると、仁右衛門手ずから茶を淹れてくれた。

 甚四郎も多恵も恐縮したが、今日だけはと仁右衛門が譲らなかった。三人で茶を飲んで一息つくと、おもむろに利助が口を開いた。


「さて父上、この度の商談の首尾ですが…」


 仁右衛門も居住まいを正して利助に向き合う。今夜の結末いかんによっては、山形屋は尾張藩から取り潰しの命を受ける恐れもある。

 だが、多恵も一緒に帰って来たことで仁右衛門も楽観的な顔をしていた。


「満額回答を頂きました」


 利助がニヤリと笑いながら書付を差し出す。


「おお、でかした。これで馬場の首根っ子は抑えたな」

「ええ、今後とも()()()()()()()ができるでしょう」

「うむうむ。八幡町が存続するためにはある程度の負担はやむを得ん。だが、これで必要以上の無茶は言わんだろう」

「左様ですな」


 二人で朗らかに笑う。内容を知らなければ、まるで晩飯のおかずでも話し合っているかのような気楽な雰囲気だった。

 笑いを収めた後、利助が多恵に向き直るとゆっくりと頭を下げた。


「多恵には辛い目を見させて済まんかった」

「いいえ……でも、本当に驚きました。大旦那様だけがお代官様に対応されていたのも、最初からこのためだったんですね」

「ああ。最初から多恵に事情を話せば、あそこまで綺麗に騙すことは出来んと思って黙っとった。多恵をだしにすることを父上は渋ったんやけどな……俺が押し切った。全部俺の責任や」


 もう一度、利助が頭を下げる。多恵は思わず恐縮してしまった。


「もう大丈夫です。最後は助けて頂きましたし、こちらこそありがとうございました」


 そう言って多恵も頭を下げる。だが、頭を上げた多恵は、真剣な顔で仁右衛門に向き直った。


「ですが、大旦那様が身寄りのない私を引き取って下さったのは、最初からこのためだったのでしょうか?

 私は、何かの時に利用できる存在として飼われていたのでしょうか」


 多恵の問いは自らの存在意義をかけた問いだった。今まで仁右衛門には感謝の念を持ち続けてきた。だが、当の仁右衛門は、多恵のことをただの道具と見ていたのだろうかと疑問を持ってしまったのだ。

 多恵の真剣な眼差しに、一瞬場が静まり返る。仁右衛門はひとつ咳ばらいをすると、遠い目になっておもむろに話を始めた。


「実は、私には娘が居てな。宗十郎の二歳下で、生きていれば今の多恵と同じ年やった」


 唐突に始まった昔話に多恵も甚四郎も一瞬困惑した。だが、仁右衛門はそれに構わず話を続けた。


「知っての通り、我ら八幡の商人は、功成り名遂げれば町の運営に尽力するのがしきたりや。そして、一朝飢饉などが起きれば蔵を開いて『お救い』を出し、難渋している者を救う事を徳としている」


 近江商人に限らず、大坂や伊勢などの豪商は飢饉の時には積極的にお救い米を出すのが習わしだった。京の大丸、大坂の鴻池屋、伊勢の越後屋。

 いずれも一廉の商人達が、危難の際には自らが買い求めた米を貧者に振る舞うことで餓死者を減らす努力をした。


「それは、ただ単に人道によって行っているのとは違う。商人は物を作る者や物を買って使う者、そうした人々が居て初めて成り立つもんや。

 人無くして商人は存在できん。当たり前の事やけどな」


 甚四郎は、仁右衛門はまさに自分に向かってこのことを語り掛けているのだと思った。

 甚四郎が商人を目指しているのは、極論を言えば自分と多恵のためだ。仁右衛門はそんな甚四郎に対し、本当の商人とはどういうものかを教えようとしてくれているのだろう。


「人々が死ねば、その分だけ我らの商いも細って行かざるを得ん。常日頃利を得るのも、いざという時に世の中を救うための蓄えをしているに過ぎん。

 人々を救うというのは、商人の本分でもある。それこそが商人の『義』というものや」


 仁右衛門の言葉は、先ほどの利助の言葉にも一種通じるものだ。利助は山形屋とかかわりを持って生きる人々の事を教えてくれたが、単に山形屋と取引しているかどうかだけでなく、人々が居てこそ初めて商機が生まれるということを仁右衛門は言っている。


 甚四郎は器の違いを見せつけられる思いだった。


「しかし、私の娘は飢饉の折り、流行り病に罹ってな……。

 私は人々を救うという商人の本分も、困った者を助けるという人の道も忘れ、ただただ娘のためだけに金を使った。

 方々から医者や薬を買い集め、なんとか娘を助けたいとそれだけを念じた。私が商人の義を忘れたことで、周辺の村では土地を捨てて逃げ出す者、飢え死にする者も出て来た。多恵のように女中奉公へ出される子供も増えた。しかし、それでも私は娘の為だけに金を使った。

 ……結局、娘は飢饉の翌年に亡くなった」


 そこまで言うと、仁右衛門は一息ついた。往時を思い出しているのか、その目は僅かに光っている。


「……(ばち)が当たったんやと思った。義を忘れ、自分の家族だけを救おうとした事の罰が……」

「そんな……」


 耐えかねて、多恵が首を横に振る。家族を助けたいというのは当然の欲求のはずだ。

 だが、仁右衛門は厳しい顔を崩さなかった。

 今度は甚四郎に顔を向ける。


「金とは、その使い道で福も(わざわい)も招くもんや。故にこそ、我ら八幡の商人は金をどう使うかという事に心を砕く。無駄遣いをするなと常々口を酸っぱくして言うのはその為や」

「はい」


 甚四郎は一つ一つの言葉を噛みしめるように聞いた。今まで仁右衛門が生きてきた歳月が、そのまま言葉に乗っているように感じる。


「娘を亡くしてしばらく後、たまたま石部宿に立ち寄った折に、泣きながら洗濯をする多恵を見かけた。顔は違うが、姿かたちが娘によく似とった。茶屋の主人から多恵の境遇を聞き、娘を救えなかったせめてもの償いとして身を請け出したんや。

 多恵だけやなく何人かの子を請け出したが、多恵だけは親元に帰してやることが出来んかった。多恵を山形屋で引き取ったのは、帰らせてやる家が無かったからというだけやった。


 ……そやけど、面倒を見るうちに多恵が健やかに成長していくのが嬉しゅうてなぁ。

 娘の身代わりにするようで申し訳ないとは思ったが、多恵を無事に嫁に送り出してやることが最後の罪滅ぼしになると、そう考えるようになった」

「大旦那様……」

「済まんかったな。そんな大事な娘にこんな真似までさせて」


 そう言って仁右衛門は改めて頭を下げた。


「いいえ、返しきれないほどのご恩を頂いたと思っています。この身一つでお役に立てたのなら、嬉しく思います」


 多恵の顔が晴れていくのを甚四郎は感じた。自分がただ利用されるために飼われていたわけでは無いと納得できたのだろう。


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