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商談

 

 甚四郎は、今目の前で起こっている出来事に全神経を集中していた。

 代官屋敷に来る途中で事情は全て聞いたから、これから利助が決着させようとしている着地点は知っている。その着地点を知っているからこそ、利助の交渉術にただただ驚かされた。


 交渉の下準備、話の運び方、仕掛け、語り口、どれを取っても自分の数段上を行っている。

 主導権を握るとはこういう事かと、目から鱗が落ちる思いだった。


 代官の執務室に場を移し、利助と馬場の『商談』が再開される。甚四郎は利助に言われるままに後ろに控えて座った。


「困ったことになりましたな。まさかお代官様が御用金を盾に町人の妾を強引に我が物にしようなどと……。

 ご公儀に知られれば、尾張公の面目は丸潰れとなりますなぁ」


 ニコリともせずに利助が馬場を見据える。爬虫類を思わせるいつもの冷たい目だ。


「い、いや、ワシはあの娘がそなたの妾だとは知らずに……そうだ! その方の父も何も言わなかったではないか!」

「父は私が江戸から戻るまで待って欲しいと何度も願い出ていたはずですが?」

「そ、それは……」


 馬場は反論出来なかった。全て事実だったからだ。

 この機会を逃すとさらに三カ月待つことになると、問答無用で差し出させたのは馬場自身だ。まさかそんな事情だったとは知る由も無かった。


「かくなる上は、この度申し付けられている御用金五千両には応じる事は出来かねます。 まずは尾張様のお裁きを頂き、その上で改めて御用金のお話を承りたく存ずる」

「そ、それは困る! ご家老様からは米切手の支払い分、三千両を一刻も早く確保せねばならぬと厳命が……」


 言いさして馬場がはっと口を覆う。利助の顔はさらに禍々しく歪んだ。


「ほう。()()()? おかしな話ですなぁ。父からは五千両を差し出すか、四千両と多恵を差し出すか二つに一つと迫られたと聞きましたが?」


 初耳のように装っているが、無論これも利助は裏を取ってきている。江戸からの帰りに名古屋に寄ったのはそのためだ。


「か……勘弁してくれ。この通りだ」


 堪らずに馬場が頭を下げた。しかし、着地点はここではない。ここで決着させるわけにはいかない。甚四郎がそう思うと同時に利助から追撃が入った。


「勘弁……と言われましても、お裁きを下すのは私ではなく尾張様でしょう。手前ごときが一体何をどう勘弁すれば良いのか」


 本気で困ったような顔を作って利助が頭を振る。巧いものだと思った。尾張様と聞いてたちまち馬場の顔が真っ青に変わる。

 仮にお裁きとなって不正に私財を蓄えようとした事実が藩に知れれば、ただでは済まない。加えて、多恵の件も明るみに出る。

 普通にいって切腹。最高に上手くいっても領外追放。もはや家庭にも藩にも馬場の居場所は無くなる。表沙汰になれば、馬場は破滅するしかない。

 その事に考えが至った頃合いを見計らい、利助が打って変わってにこやかな笑顔を作った。


「ま、そうですな。私が口を噤めば、事は丸く収まりますな」

「さ、左様でござる」

「では、そのように取り計らってもようございます」

「ま、真ですか?」


 恐らく馬場も利助に頭が上がらなくなることは分かっているだろう。だが、身の破滅を逃れるには兎にも角にも利助に口を噤んでもらうしかない。

 未だ夏の暑さには遠い夜だが、馬場の額にはじっとりと汗が浮き出ていた。


「まあ、本音を言えば、手前もお代官様との関係がこじれるのは本意ではありませぬ」

「そ、そう言って頂けると……」

「ただし、ではこれにてという訳には参りませぬ。今夜のお話を書面に書き起こして頂きたい」

「し、しかし……」


 馬場がか細い声で抵抗を試みる。だが、利助はここが勝負所と一段低い声で告げた。


「書けぬということは、お代官様はこの場さえ切り抜ければ後はうやむやにしてしまおうという腹とお見受けする。

 それではお互いに信を置くことはできませんな。この次はお白州でお会い致すことにしましょう」


 そう言って利助が腰を浮かせると、ついに馬場が恥も外聞も捨てて泣きついた。まるで利助の足に取りすがるかのようだ。


「ま、待ってくれ!」


 利助は無言で馬場を見つめていた。この先は、余計な口を利かぬ方が馬場を追い詰めることができると踏んでいるのだろう。


「……か、書く。書かせて下され。どうかお願い申す」


 半泣きになって哀れを乞う馬場を利助が冷たい目で見下ろした。甚四郎の目にも、もはや勝敗は明らかだ。

 馬場は利助に促されてに筆を取った。一言一句を利助の指図に従いながら、書状を書き進めていく。甚四郎はその様子を戦慄と共に見ていた。


 ――何とも恐ろしい


 甚四郎は、これが利助の本気の『商談』かと空恐ろしくなった。兄に絶対に逆らうなと釘を刺され、為す術無く不条理を押し付けて来る存在だった武士が、今や目の前で涙ながらに『自分の醜聞と不正の証拠』の文書を書き出し、抵抗も出来ずに判を付き、利助に手渡している。


 これで、馬場丈右衛門は今後一切利助に逆らえない。


 おまけに、最後に利助が添えた一言は丈右衛門の気力を根こそぎ奪う威力を持っていた。


「確かに、書面はお預かり致します。では、御用金三千両、我が山形屋が責任を持ってご用意いたしましょう。お代官様にはどうかお心を安らかにお持ち下され」


 そう告げる利助は、まるで子供をあやす父親のような慈愛に満ちた笑顔を見せた。

 馬場はがっくりとうなだれる。利助に従えば無事に勤めを果たすことができ、利助に逆らえば一瞬で破滅してしまう。


 自業自得とはいえ、少しだけ馬場が気の毒に思えた。


 ――これが、商人の戦い方か……


 甚四郎は代官すらも翻弄して飲み込む利助の器量に、初めて尊敬の念を抱いた。

 方法としてはとても褒められた物では無い。いわば利助は丈右衛門を嵌めたわけだ。だが、鮮やかに嵌めるその手腕には感嘆せざるを得ない。


 山形屋に関わる人達の生活を守るためにという志の元、目的の為には身内のはずの多恵や甚四郎すらも騙して大芝居を打つ汚さを併せ持っている。


 多恵が利用された怒りも忘れるほどに、利助の手腕に感動すら覚えていた。

 書面のやり取りが終わると、利助は甚四郎と多恵を伴って代官屋敷を後にした。残された馬場は、すっかり酔いも醒めて青い顔で虚空を見つめるだけだった。


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