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多恵(2)

 

 ――甚ちゃん。悲しそうな顔してた


 多恵はとぼとぼと歩きながら、別れ際の甚四郎の顔を思い浮かべていた。覚悟を決めて会いに行ったはずだった。だが、実際に会うと決心が鈍りかけた。


 ――これでいいの。ウチは平気


 甚四郎に言った言葉をもう一度心の中で唱えた。

 滲んだ涙を振り払うように正神町の尾州家代官屋敷に向かうと、代官屋敷の門前で仁右衛門が待ち構えていた。


 仁右衛門と共に代官屋敷のくぐり戸を抜け、奥の部屋へと向かう。屋敷の奥では祭りの賑わいに気を良くした尾州家代官の馬場丈右衛門が見慣れぬ女達と楽しそうに酒を飲んでいたが、仁右衛門と多恵が入室するとそれらの女を下がらせた。


「おお、よう来た、よう来た。待っておったぞ」


 好色そうにだらしなく垂れ下がった目尻に寒気を覚えながら、多恵は言われるままに隣に座って酒を注いだ。


「以前に町でそなたを見かけてな。今日ようやく会えることになった。いや、間近で見てますます惚れたぞ。ささ、そなたも飲むが良い」


 勧められるままに一口飲む。正直、お酒を美味しいと感じたことはない。酒の匂いが口中に充満して気持ち悪かったが、一口だけ飲み込むとすぐに杯を返した。


 代官の合図で仁右衛門が下がると、一人置き去りにされた心細さが急速に広がっていく。だが、ここまで来て逃げるわけにはいかなかった。


 ――これでご恩返しが出来るなら


 その想い一つだった。どうせ遊女屋に売られていた身だ。この身一つなどは惜しくもない

 多恵は覚悟を決めると、甚四郎の事を頭から追い出した。思い出すと逃げ出したくなりそうで怖かった。


 しばらくの間、相変わらず馬場丈右衛門に酌を続け、何度も飲むように勧められては一口飲んで杯を返すことを繰り返した。もう一刻(二時間)は同じやり取りを繰り返し、下らない話を聞かされ続けている。多恵も少々ウンザリしていた。


 するなら、早くして欲しかった。目を瞑っていれば終わると聞いた。これから一生目を瞑り続けてゆくのなら、せめてその時間が早く終わって欲しい。それだけが今の多恵の願いだった。


 そう思いながら一つため息を吐いた時、丈右衛門の視線がふと多恵の髪に向いた。


「んん? そなたの(かんざし)は壊れておるな。そんなもの捨てよ捨てよ。ワシが新しい物を買ってやろう」


 そう言うと、丈右衛門はギヤマンの(かんざし)を髪から引っこ抜いて部屋の端に投げ捨てた。


「あっ!」


 思わず多恵は(かんざし)を追いかけ、拾い上げると胸元に握った。


 一筋の涙が頬を伝った。

 見えてしまったら、もう駄目だった。思い出すまいとしていたのに、思い出してしまった。


 ――泣いたら、アカン


 駄目だと思っても次から次に涙が伝い落ちる。こんな姿を丈右衛門に見せてはいけないと思いながらも多恵は涙を止める事ができなかった。

 きっと丈右衛門は不機嫌な顔をしているだろうと思ったが、予想に反して丈右衛門は少し嬉しそうな目をしている。しかし、その目には残忍そうな光もあり、多恵は知らずのうちに恐怖心を覚えた。


「フン。大方前の男からの贈り物といったところか」


 そう言って丈右衛門が近づくと、多恵の顎を持ち上げ視線を合わせてくる。丈右衛門を恐れる心を強引に抑え込み、負けるもんかと真っすぐに視線を返した。


「ふふ。気の強い娘だ。そういうのを屈服させるのも楽しみだな。忘れるなよ。そなたはもうワシの()()だ」


 そう言うと丈右衛門が強引に小袖の肩をはだけさせた。


 とうとう来たかと思って多恵は目を瞑って身を固くした。

 その瞬間、遠くから足音が聞こえる気がした。もしかしてという思いと、そんなはずはないという思いが交錯する。

 だが、そう思った瞬間に襖がターンと大きな音を立てて開いた。


 多恵が視線を向けると、襖の向こうから利助が切れ長の目で丈右衛門を睨んでいた。

 疑問を抱く暇も無く後ろからもう一つ人影が出てくる。甚四郎だった。


 ――なんでここに


 喜びと羞恥に駆られて、多恵は思わず袖で顔を隠した。着飾って別の男に酌をしている姿を、甚四郎にだけは見られたくなかった。


「お代官様ですな。お初にお目に掛かる。山形屋の当主、利助と申します」


 抑揚を抑えた利助の声が響く。しかし、次の利助の言葉に場の空気が凍り付いた。


「ところで、()()()に一体何をしておられたのですかな?」


 ――え?


 聞こえた声に混乱して顔を上げると、甚四郎とまともに目が合った。甚四郎は真剣な顔でゆっくりと首を横に振る。何も言うなということだろうか。


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