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 遠くに見える伊吹山や比良山系はまだ雪化粧に包まれていたが、八幡町では日差しに暖かさが増しており、吹く風には梅の香りが漂い出していた。

 多恵は二十四歳になり、少女の面影もすっかり消えて色香を放つほどの女性になっている。『いい加減嫁入り先を世話せねばならん』という仁右衛門の言葉で、行儀見習いとして当主利助夫妻と隠居仁右衛門夫妻の身の回りの世話を申し付けられていた。下女働きこなしつつ、奥方の着物の着付を手伝ったり外出先に同行したりと。以前よりも忙しい日々を送っている。

 それでも、ひび割れたギヤマンの(かんざし)を見ると心が和み、甚四郎の帰りを今か今かと待つ心に変わりはなかった。


 良い報せもあった。


 来月の二番登の後、甚四郎が番頭格として八幡町の本店に戻って来るという。番頭格ならば住み込みではなく通勤が許され、妻を持つことも許さる。


 ――やっと迎えに来てくれるんかな


 そう思うと、春の訪れを告げる左義長の日が待ち遠しかった。


 甚四郎が江戸に発ってから八幡町でも色々とあった。

 領主様が朽木家から尾州家に変わったと言っても多恵のような下女の暮らしにはあまり関係は無い。だが、山形屋の方はそうもいかない。御用金なども新たに申し付けられる事が増えたと大番頭の利右衛門がこぼしているのを小耳に挟んだこともある。

 何か自分に出来る事があればとは思うが、女の身で出来る事など思いつくものでもなく、ただただ大恩ある山形屋が無事に続いていく事を祈るばかりだった。


「多恵さん。旦那様と大旦那様がお話してはるから、お茶出してあげて」


 利助の妻のかつが厨に顔を出して告げた。かつは八日市で染め物問屋を営む高野屋久右衛門の娘で、多恵よりも四歳下の二十歳だった。この婚姻で高野屋は山形屋の援助を受けられることになり、業績を盛り返している。

 その為か、かつは山形屋の奉公人に柔らかく接している。だが、多恵に対してだけは何故か当たりが少し強かった。


「はい。奥様」


 多恵が返事を返すと、かつはまた私室に引っ込んで行った。

 夫婦仲は悪くないと聞くが、かつは商家の奥方らしく使用人を使う事に慣れており、自分で家事仕事をこなすことは無かった。と言っても、する気になれば家事も出来るはずだ。商家の娘ならば、幼い時には下女に混じって立ち働いている事の方が多い。


「相変わらずアゴでこき使わはるなぁ。自分で淹れてあげたらいいのに」


 きぬがやれやれという顔でかつの去った方に視線を向ける。


「きぬさん、いいんですよ。これも私の仕事ですから」

「そう……」


 多恵はかつの当たりが優しくないのも仕方がないと思った。仁右衛門からは血が繋がっていないのに実の娘同様に扱われ、小姑でもなく、単なる下女でもない多恵は、かつにとっては鬱陶しい存在なのだろう。


 一つため息を吐くと、お茶を淹れて店主の私室に向かった。襖の前に膝を着くと、中から話声が聞こえる。

 会話の邪魔をしてはいけないので、小声で声をかけようと息を吸い込んだ時に『甚四郎には…』と聞こえて思わず耳をそばだてた。


『ちょっとは我慢させ…』

『お代官様からは…』

『役に立ってもらう時が…』


 断片的に聞こえる単語だけでは何を話しているのかわからない。意を決して多恵は声を掛けた。


「失礼します。お茶をお持ちしました」


 そう言って襖を開くと、難しい顔をしていた仁右衛門と利助が会話を止めて多恵の方に視線を送った。


「多恵か。ちょうどええ。ちょっと話があるさけ、座ってくれるか」


 利助に言われて、多恵は不審な顔をしながら二人の正面に正座する。

 仁右衛門は少し悩んだ顔をしたが、利助が目配せするとおもむろに口を開いた。


「実はな……」



 甚四郎は二番登で江戸から八幡町へ戻って来た。町はすっかり雪も解け、春らしい陽気に足取りも弾むようだ。何よりも、登が明けたら番頭格に昇格となる。

 二番登で番頭格は異例の抜擢であり、先を越された茂七がやや不服そうな顔で送り出してくれた。


「俺より偉そうにしてたらシバくからな」


 そう言って久々に頭を小突かれた。


 ――七年も待たせたな


 甚四郎は何よりもそれを思った。番頭格であれば、希望すれば通勤と妻帯が許される。ようやく約束を果たせると思うと、足取りがさらに軽くなった。


 山形屋に着くと、当主の利助は江戸と名古屋に用事があるとかで不在だった。一月前に出かけたからもうすぐ帰って来るだろうとのことだが、登の挨拶は隠居の仁右衛門にするようにと指示があった。


「大旦那様。今までお世話になりました」

「うむ。すまんな、利助が留守にしておって」

「いえ、私はだいぶん嫌われているようですから」


 甚四郎が自嘲気味に笑う。対する仁右衛門も複雑な顔をしていた。

 本店勤務となれば、今後は毎日のように利助と顔を合わせることになる。だが、多恵の為なら何があっても我慢しようと覚悟を固めていた。


「町は今年も左義長の準備に忙しいですね」

「ああ、尾州様のご知行になってからも、祭りは変わらず実施しとるし、今年はお代官様も見物しに来られるからな」


 尾張家の代官は八幡町に常駐はせず、年に四度名古屋から出張していた。八幡町だけでなく、飛び地の各知行地を回る必要がある為だ。


「今年はどうする?その……里へは」

「京の兄が父の位牌と母を引き取っております。父にも手を合わせたいですし、京に参ります」

「そうか」


 少し渋みを含んだ仁右衛門の顔が気になったが、隠居とはいえ主人に話を催促するわけにもいかず、何となくもやもやした気持ちのまま仁右衛門の前を下がった。

 甚四郎は仁右衛門の前を下がると、利右衛門や庄兵衛、きぬの所にも挨拶に行った。だが、厨に多恵の姿は無かった。


「きぬさん。多恵ちゃんは?」

「ああ、ここ一月ほど南津田村の別宅の方に行ってはるよ。左義長の時にはこっちに戻って来るって大旦那様が言うてはった」


 南津田村は山形屋西川家の出身地で、隠居夫妻が住む別宅があった。

 行儀見習いとして仁右衛門夫妻の世話も行っているとは聞いていたので、その関係だろうか。

 すぐに会えなかったのが残念だったが、左義長まではあと三日だ。甚四郎は気を取り直して、懐かしい人達に挨拶をして回った。

 しかし、左義長の初日になっても多恵の姿は見えなかった。


 いつまで経っても多恵の姿が見えないので、甚四郎は祭り見物もそこそこに日牟禮(ひむれ)八幡宮の(むく)の木の根元に座った。きっとここに居れば会えると確信に近い物があった。


 次第に日が傾き、風が冷たさを帯びて来る。山車を担ぐ若衆の声が段々と近くなってきていた。


 ――もうすぐ奉火が始まるんかな?


 そう思い、町の方に顔を巡らせると、遠くに多恵らしき人影が見えた。

 夕暮れで顔が判別し辛く、また多恵にしては派手な色の小袖だったので、甚四郎は自信が持てずに近付いてくる人影を見つめていた。だが、目の前まで来たのは、果たして多恵だった。


「多恵ちゃん。久しぶり」

「うん……」


 喜色満面の甚四郎に対して多恵は浮かない顔をしている。何かあったのかと不審に思って改めて多恵の姿を見た。長船(おさふね)に結った髷は色香を感じさせ、着ている小袖も紅花染めを基調とした鮮やかな物だ。

 どうも多恵の印象とは違うな、と甚四郎は不審に思った。唯一、ひび割れたギヤマンの簪だけが懐かしい多恵であると主張しているように見えた。

 俯いていた多恵が、意を決したように顔を上げる。


「甚ちゃん。あんな……ウチな……ウチ、お代官様のお妾さんになる」

「……え?」


 甚四郎は太い棒で後頭部を殴られたような衝撃を受けた。

 最初は何を言われているのか理解できなかった。頭が理解することを拒絶していた。


「え……、だって、俺ようやく迎えに……」

「宗十郎さんに……旦那様に言われたの。ウチがお代官様にお仕えすれば、山形屋への御用金を減免してもらえるって。そうしないと山形屋は潰されるって」

「そんな……」

「今山形屋は尾州様からの御用金に苦しんでる。ウチがお仕えする事で山形屋を……ウチを拾ってくれた大旦那様を助けられるのなら、ウチは平気」


 そう言うと多恵は笑った。その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「それに、ほら。お代官様のお側女になれば、こんな綺麗な着物も着させてもらえるし、もう家事仕事に追われることも無くなるし……」

「……」

「だから、ウチは平気。だけど、約束は破っちゃう事になるから、謝ろうと思って」


 甚四郎は何も言えずに黙り込んでいる。多恵の言葉が一向に頭の中に染みて来ない。何か言わねばと思うのだが、一切の言葉を忘れてしまったようになってしまった。


 じっと黙り込む甚四郎の視線から逃げるように、多恵は少し早口になってまくしたてる。


「待ってるって約束したのに、破ってしまってごめんなさい。ウチの事は忘れて、甚ちゃ……甚四郎さんは、相応しい人と一緒になってください」


 そう言って頭を下げると、多恵の足元にポタポタと雫が落ちた。甚四郎は尚も言葉を忘れたように佇んでいる。


「さよならっ」


 そのまま甚四郎の顔を見ずに振り返った多恵は、背を向けて行ってしまった。


「多恵ちゃん!」


 走り去る多恵の背中を見た瞬間、甚四郎は呪縛が解けたように声を発した。慌てて手を伸ばしたが、既にその背中ははるか遠くに感じられた。

 追いかけようと一歩踏み出した所で兄の甚一の言葉が脳裏に聞こえてくる。


 ――武士に逆らってはならん


 今追いかけて強引に連れ戻したとして、一体何になるのだろう。山形屋が潰れる事になれば、一番苦しむのは多恵自身だ。自分達二人だけのことならば多恵を連れて駆け落ちでも何でもできようが、店を人質に取られてしまえばもはや武士に逆らうことは不可能に思える。


 自分には多恵も店も守れないという現実が、甚四郎の肩に重くのしかかって無意識に膝を着いた。

 為す術無く多恵の背中を見送る甚四郎の後ろから、奉火の始まりを告げる声が響く。勢いよく炎を上げる山車に顔を向けながら、甚四郎は半ば放心状態で左義長の火をじっと見つめた。


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