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会話術


 甚四郎と善吉は、松平屋敷へ着くと警護の門番に黒木屋五兵衛からの紹介状を持参している旨を伝え、作事方への取次を願った。門を入ってすぐの待合の小部屋で待つと、半刻(三十分)も待つことなく屋敷内へ案内された。

 仮に紹介無しで来ていたらどれだけ待たされたのだろうかと考えると、『黒木屋五兵衛』の名前の威力を改めて思い知らされた。


 室内に入ると、待つほどもなく奥から武士が現れて上座に座る。甚四郎は善吉と息を合わせて平伏した。


「ご拝謁が叶いまして恐悦至極にございます。山形屋の支配人、善吉でございます。こちらは手代の甚四郎にて。以後、お見知りおきをお願いいたします」

「うむ。上田藩作事方組頭を任されておる、川井内記でござる。面を上げられよ」


 そう声を掛けられてから、善吉がゆったりと上体を起こす。甚四郎もそれに倣った。


「ご面会頂きましてありがとうございます。こちらはささやかながら、ご挨拶のお品でございます。手前どもの気持ちとしてご笑納ください」

「これは、気を使わせて相済まぬな。殿への手土産として有難く頂戴いたす」


 川井と名乗った武士が顔を綻ばせてまんじゅうを受け取る。チラリとだが、抜け目なく目録を確認しているあたり、どういう『挨拶』かは阿吽の呼吸で分かっているのだろう。


「して、ご用向きはどのような事かな?」

「は、松平様のお屋敷では畳を二年前に替えたと聞き及びます。今年は夏の日差しも強うございましたので、僭越ながらちと『心配』を致しまして」


 善吉が遠回しに言うと、川井がニヤリと笑った。


「これはこれは、『心配』させてしまったようで心苦しいな。しかし、当藩では今のところ『安心』しておる。とはいえ、年末には『心配』せねばならんかもしれんの」

「左様でございましたか。では、その前にもう一度『ご挨拶』に伺いたく思いますが、ご迷惑ではありませぬか?」

「ふむ。暮の挨拶ならばちと立て込んでおってな。五日ほど早めに来られるが良かろう」

「かしこまりました。お忙しい中お時間を頂きまして申し訳もございませぬ」

「なんのなんの、黒木屋の紹介では無下にも出来ぬからの」


 そう言うと川井は朗らかに笑った。しばし雑談の後、甚次郎と善吉は松平屋敷を辞した。


「あの、先ほどの会話で一体何を……?」

「江戸のお武家様とはあまり直接的な商談はしないのが粋だということだ。夏の日差しを心配していると言ったろ? あれは畳の裏を返す注文が欲しいという意味だ」

「それは何となく……。で、暮れの挨拶というのは?」

「暮になると今まで入っていた商家に発注が出てしまうから、早め、つまり十一月中にもう一度来いという意味だ。そして、次は五十両を包む」


「え?それはどの会話で?」


「五日と言われただろ? 早めというなら五日では遅すぎる。具体的な数を出すという事は、暗にそれぐらいの献上品があれば今後注文を出すのにやぶさかではないという意味で言っているのだろう。

 まあ、手土産のおかげで円滑に事を運べたが、やはり黒木屋さんからの紹介というのが大きい。紹介状が無ければおそらく会ってももらえなかっただろうからね」

「なるほど」


 初めて見聞きする武家との取引に、甚四郎は内心舌を巻いた。

 手土産一つにしても会話にしても、今まで回って来た町人の顧客とは使う頭が違う。相手の言葉の裏を読んで、本音を包んで建前で話しをする事の難しさを実感した。と同時にそれを楽々とこなす善吉の手腕にも感心した。

 おそらく武家屋敷を回る番頭格は、誰も彼もがこのような複雑な会話術を会得しているのだろう。甚四郎にも覚える事はまだたくさんあった。



 十月に入り、山形屋では月に一回の定例会議が開かれていた。

 別段本店から指示があったわけではなく、日本橋店と京橋店の者が自発的に集まり、お互いの一カ月の成果を報告しあう。支配人の善吉はそれらを聞きながら営業が足りないと思われる先にはもう少し粘り強く営業を掛けさせ、踏み倒しの常習者であるという情報がある先は全員で共有し、営業を差し止めるように指示を出していた。


 おかげで、以前は店の責任者同士だけのやり取りだったのが、今では手代の端々に至るまで京橋店の手代の顔や名前はおろか、食べ物の好みまで知っているほどに相互の交流が盛んになった。


「やっぱり京橋店は元々が弓問屋だけあって弓の引きが強い。こちらももっと弓を強化せねばいかんなぁ」


 会議が跳ねた後、茂七の配下の手代が集まっての席上で茂七がボヤいた。蚊帳は夏物の季節商品であり、これからの時期の主力にはなり得ない。その為、日本橋店では主に畳表の営業を仕掛けているが、弓営業の伸びしろの方が圧倒的に多い事は明白だった。


「弓を売るなら、やはり武家屋敷を回らねば駄目でしょうね。本所・深川のあたりはもうすでに十分に開拓出来ていると思いますし」

「そうだな。とすると、武家屋敷に強いのは……」


 茂七が言葉を切って甚四郎を見る。釣られるように全員の視線が甚四郎に集まった。


「そうですね……。持って行きますか? 弓」

「持って行く?」


 茂七が驚いて顔を上げる。


「ええ、私は主に作事方の方々と畳表の商談をしています。その間にご家中に実物を見てもらえば、店で待っているよりも買い手が付きやすいかなと」

「ふむ……」


 茂七がしばし考え込む。蚊帳もそうだが、現物が目の前にあればそれを買い求めるという客は多い。買った以上はすぐに手元にというのは、顧客心理にも適う。


「いいかもしれんな。ちと善吉さんに相談してくる」


 そう言って茂七は帳場まで出向いて行った。

 言うまでもなく弓は武士の基本的な心得であり、『弓取』の言葉通り弓は鉄砲や剣と並んで武士のたしなみであり続けた。

 幕末に至るまで弓は軍役の一環として存在し、大名や旗本は石高に応じて常時弓を揃えておく必要があった。京橋店に来る引き合いは、ほとんどがそういった藩の軍役としての弓の需要だ。


 だが、この時代においても弓を稽古する武士は多いし、個人として購入することも当然ながら禁止されてはいない。そういう家中の需要を掘り起こそうというのが甚四郎の考えだ。

 茂七は帳場で善吉と話し合っていたが、すぐに腰を浮かせて甚四郎達の所へ戻って来た。


「許しを貰って来た。明日から伊助と長兵衛は甚四郎にくっついて弓の出張販売をやれ」

「はい!」


 この甚四郎の作戦は見事に当たり、今まで日本橋店が苦手としていた弓販売が強化された。山形屋では幕府御用弓師を拝命している関係で、品質は折り紙付きの品物を扱っている。一度買えば、あとは修理や部品交換などで必ず山形屋に足を運ぶ事になるはずだ。

 言い換えれば、一旦売ってしまえば弓は畳以上に継続して注文が見込めることになる。


 茂七の組に触発されるように他の組も商売に精を出し、そして一月後の十一月の晦日の会議の日になった。


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