嫌な男
酔いつぶれた茂七を担いで駿河町を歩いていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「なんやお前ら、呑気に酒飲んでたんか」
振り返ると、提灯の薄明りの中に憮然とした顔の利助が居た。甚四郎も伊助も思わず息を飲む。
利助はそんな二人の様子には構わず、情けなく酔いつぶれた茂七を見据えている。
「仕事もまともに出来てへんのに遊ぶことだけはいっちょ前か。お前らに出す割り銀もどこぞから湧いて出てくるわけやないぞ」
――そんなモン、元は俺らが必死に稼いだカネやんけ
さすがに甚四郎にも怒りが湧いて来た。茂七が意識を失ってたのは幸いだったと思う。もし起きていたら殴りかかっていたかもしれない。
隣では伊助がハラハラしながら利助と甚四郎を交互に見ていた。
「宗十郎さん。いえ、旦那様。今のはさすがに言い過ぎちゃいますか?」
「何が言い過ぎや。事実やないか」
利助がせせら笑う。甚四郎は思わず拳を握りしめていた。爪が手の平の肉に食い込む感触がある。怒りの為か、不思議と痛くは無かった。
「ええ機会やから言うとくぞ、甚四郎。俺はお前が昔から嫌いやったんや。仕事もロクに覚えてないくせに女とイチャつくことばっか覚えやがって。俺はお前みたいなヤツが一番嫌いや」
「奇遇ですな。私もたった今旦那様が嫌いになりました」
甚四郎は真正面から利助の視線を受け止めた。利助の視線がジトリとまとわりつき、知らず知らずに汗が頬を伝う。まるで蛇のような目だと感じた。
しばらく視線を交わした後、利助がフッと視線を外した。
「まあ、ええ。お前が使い物にならんヤツならクビにすればいいだけの話や。今日のところは見逃したる。せいぜい、励め」
そう言い捨てると、利助が背中を向けて歩き出した。いつの間にか甚四郎の拳には血が滲んでいた。
――アレを、旦那様と呼ばなアカンのか……
無意識に胸のお守りを触る。甚四郎は退役まで勤め上げて山形屋の暖簾を分けてもらうつもりでいた。多恵を待たせている。ただそれだけが今の甚四郎の拠り所だ。
だが、主人がこの様子では無事に勤めきれるか自信が無くなってきた。
「甚四郎さん。大丈夫ですか?」
伊助が気づかわしげに甚四郎を見上げた。
「ああ、すまんな。妙な所を見せた」
「いえ、あれはないですよ。甚四郎さんは誰よりも頑張ってるのに……」
ふっと甚四郎の顔が緩んだ。利助のことは嫌いだが、こうして慕ってくれる伊助や後輩たちを見捨てて辞めるのも気が引ける。今の自分は、多恵だけが拠り所では無いのだと思った。
「善吉さんがどれだけやれるかだな……」
実績は確かだが、善吉には嘉兵衛のような力強さは感じない。先々に暗雲が立ち込める思いだった。
翌日、再び江戸奉公人が日本橋店に集められた。この日は利助は居なかったが、代わりに支配人の善吉が厳しい顔で口を開いた。
「今年の冬から、しばらく割り銀の支給は停止とする。支給分は全部本店で預かるから、引き出したい者は使い道を添えて私まで申し出るように」
「なんですって!」
「支配人!どういうことですか!」
あちこちから声が上がる。甚四郎も絶句していた。昨日の今日のことで、まさかという思いがあった。
「旦那様からの指示ですか?」
甚四郎が尋ねると、善吉は何も言わず俯くだけだった。それを見て甚四郎は全てを理解した。
「旦那様は、今どこに?」
「今朝すでに江戸を発たれた。今頃は箱根の手前だろう」
再び甚四郎は拳を握った。昨日の傷口が熱かったが、それ以上に情けなさで泣けてくる。
自分の力を誇示するためにそこまでするのか。奉公人の年二回の楽しみまで奪って、一体何がしたいのだろう。子供が自分の力を誇示するために弱い者をいじめているだけにしか見えない。
奉公人を何だと思っているのか。
「皆、聞いてくれ!」
突然、善吉が常からは想像も付かないような大声を張り上げた。
全員が驚いて口を閉ざす。皆、善吉の大声にただただ驚いていた。
「旦那様は、皆の楽しみを奪いたいわけじゃない。ただ、今江戸店の奉公人に仕事よりも遊びに夢中になる者が増えているのも事実だ。
旦那様はそれを憂慮して、もう一度仕事に目を向けさせたいとお考えだ。決して皆の事を軽んじているわけではない。
旦那様の期待に応えて、今一度江戸の業績を伸ばせるように頑張ろう!」
「善吉さんは旦那様の事を信じているんですか?」
茂七がこちらも大声で善吉に問いかける。それはこの場の全員が共有する思いだった。
全員の視線を受けて善吉は青い顔で生唾を飲み込んだが、それでも力強く頷いた。
「もちろんだ。私は旦那様を信じている。もしも旦那様が信じられないというのなら、私を信じて付いて来てくれ」
「……」
沈黙が場を支配する。やがて善吉の代わりに京橋店を任された伊兵衛が立ち上がった。顔も体もゴツゴツとした伊兵衛は、立ち上がると迫力がある。
「支配人にここまで言わせて、それでも応えないやつは今すぐ店を去ろう。俺は善吉さんを信じる。お前らはどうする?」
「そりゃあ、俺らも……」
「善吉さんがそう言うなら……」
一座からボツボツとバツの悪そうな声が上がった。
皆、それぞれに山形屋という店を愛しているのだ。利助のことは嫌っているが、山形屋を辞めたいと思っているわけでは無いことが充分に伝わった。
「正直、旦那様のことは信じられません! ですが、善吉さんの事を信じて付いて行こうと思います!」
甚四郎は立ち上がって大声で宣言した。それに連れられるように、一人また一人と立ち上がる。気が付けば場の全員が立ち上がっていた。
「そうだな! 次の暮れの報告会ではアイツをぎゃふんと言わせてやろう!」
「おう! もう一回全部の顧客を回り直してやる」
「俺らも江戸の町に根を張って仕事してるんだ! あんなヤツに好き放題言わせてたまるか!」
「やってやるぞ!」
「おう!」
一種異様な盛り上がりを見せつつ、全員が闘志を燃やしている。甚四郎が江戸に出て来てから、こんな光景は見たことが無い。
知らず知らずのうちに甚四郎も熱に浮かされたように夢中になって気勢を上げていた。
――アイツはこれを狙っていたのか?
一瞬脳裏をよぎったが、まさかなと思って首を振る。利助がそこまで狙っていたとは思えない。だが、新たな目標が出来た事で奉公人の気持ちが一つになったのは確かだ。今や場の全員がたった一つの思いを共有していた。
――利助に、ぎゃふんと言わせてやる。
盆が明けると、山形屋江戸支店は猛烈に動き出した。
「弓を買いに来た武士には必ず畳の話題を出せ。作事方には土産を持って挨拶に回る事。蚊帳売り担当の者は畳を入れて二年経つ長屋を一軒づつ丹念に回れ」
茂七は配下の手代にテキパキと指示を出し、茂七自身も出不精を返上して外回りを強化した。
役付手代になってからは店内での指示出しや後輩手代の面倒ばかり見ていた茂七だが、ここに来てようやく尻に火が付いたようだ。
茂七だけでなく、今までほどほどに仕事をして早めに切り上げようという気分が漂っていた手代達も顔つきが変わった。ここらでいいかと切り上げる雰囲気が無くなり、もう一軒もう一軒と貪欲に顧客回りに精を出すようになった。