新当主
その日の営業を終えた後、夜には江戸勤務の奉公人が日本橋店に集まった。
嘉兵衛と別れの挨拶をする為だ。それもこれも、嘉兵衛の人徳のなせるわざだった。
「皆、今までありがとうな。これからは、お前らが山形屋を引っ張って行ってくれ」
嘉兵衛も涙声で一人一人に挨拶をして回った。いつもは厳めしい顔つきの嘉兵衛だが、この日ばかりは眉をハの字に曲げていちいち鼻をすすっている。茂七などはその様子を存分にからかっていた。
「嘉兵衛さんは別家して江戸に店を構えるんですか?」
「ああ、既に新橋の方でちょうどいい空き屋を見繕っている。時々お前らを監視しに来てやるから、有難く思えよ」
途端に茂七がげんなりした顔をすると、嘉兵衛は声を上げて笑った。別家となって店を構える場合は山形屋から商品を仕入れる事になるので、日本橋店へ顔を出す機会も少なくない。
退役とは言え、嘉兵衛との縁が切れるわけでは無かった。
奉公人一堂に見送られながら嘉兵衛が帰宅した後、甚四郎と茂七は小伝馬町へ繰り出した。向かったのはいつもの『とと屋』だ。
あいにくと言うべきか店は混雑しており、おしまもみちも忙しく立ち働いている。男二人のわびしい酒盛りだった。必然、話題は仕事のことが中心になる。
「次の支配人は善吉さんですかねぇ」
「ああ、実績から言って間違いなくそうなるだろうな」
茂七が力強く断言する。甚四郎にも異存は無かった。
「ところで、旦那様が嘉兵衛さんの退役登と共に家督を退くって噂があるのは知ってるか?」
「ええ、去年江戸に来られた時は宗十郎さんを伴って来ておられましたし、そろそろかなとは思います」
突然話題が変わって面食らいつつ、甚四郎は茂七の言葉を肯定する。
だが、当の茂七は途端に顔を歪めた。
「宗十郎さんなぁ。俺はどうもあの人苦手だわ。妙に棘があるっつうか、人を見下す所があるっつうか……」
「わかります。まあ、山形屋の若旦那なんですから、人からヨイショされるのが当たり前で来てるでしょうしね」
「ご当代の利助様は下の者を可愛がって下さるし、俺たちも精一杯務めようって気になるんだがなぁ」
「まあ、八幡と江戸じゃ遠いですから、主人が変わったと言ってもこっちにはそんなに影響ないんじゃないですか?」
「……そうだといいがな」
甚四郎は務めて何でもない事のように振舞っていたが、内心では茂七以上に憂鬱な気分だった。
――宗十郎さんかぁ……
未だにしっくりこない所は残っていた。去年に江戸に来た時も嘉兵衛や善吉らと話し合う姿を良く見かけたが、甚四郎達には挨拶だけでほとんど相手にされることはなかった。
別にだからどうという事はないのだが、気さくに声を掛けてくれた利助とはやはり親しみやすさに差がある。
山形屋の当主は代々利助を名乗り、隠居したら仁右衛門または甚五郎を名乗るのが習わしだ。当代の利助も隠居すれば名乗りを変え、宗十郎が八代目利助を襲名するのだろう。
噂通り嘉兵衛の退役から二か月後、八幡の本店から代替わりを知らせる文が届いた。
当代の利助が隠居して仁右衛門と名乗りを変え、宗十郎が利助を襲名するとのことだ。合わせて新当主が盆前に江戸各店へ視察に来るという。江戸各店の営業成績もその時に報告を受けるとのことだった。
季節はあっという間に過ぎ、甚四郎達も善吉の元で忙しい日々を過ごしていた。
やがて夏も盛りを過ぎ、蚊帳商いもひと段落した頃、宗十郎改め八代目利助が江戸へやって来る日になった。
「話にならんな。お前ら半年間何やっとったんや」
営業報告書を放り投げ、利助は切れ長の目で場の全員を見回した。新たな江戸支配人の善吉を始め、江戸奉公人のうち手代以上の者を全員集めた営業報告会の場だ。
今までは嘉兵衛が本店に出向いて報告していた為、甚四郎はこうした場に座るのは初めてだった。甚四郎だけでなく、この場の全員が初めてだ。
そして、訳も分からぬままに利助の罵声を聞くはめになった。
「こんな成績では今後の江戸支店の運営は覚束んぞ。運上・冥加はますます厳しさを増し、十組問屋の会費もあおりを受けて値上がりしとる。
八幡から江戸に店を開いている商家も、昔は十四軒あったのが今はウチを含めてたったの五軒や。
……もうちょっと危機感持たんかい!」
語尾に怒鳴り声が混じり、甚四郎も思わずビクッと震えた。
「しかし、畳表の販路は順調に開拓できていますし、弓の売上も伸びてますが……」
善吉が江戸店を代表して抗弁するが、利助はため息を一つ吐くと善吉を睨みつけた。
「努力が足りん、と言うてるんや。まだまだ出来るはずや。この程度の売上が精一杯と言うのなら、これ以上江戸支店を出してる意味がない。運賃と上納金で経費倒れになるのが関の山やぞ」
「……」
利助に厳しく言われ、善吉もそれ以上の言葉を失う。 努力が足りないと言われれば、それ以上何も言えない。
しばらく全員の顔を黙って見回していた利助だが、一つ息を吐くと腰を浮かせた。
「暮にも顔を出す。次はもうちょっとマシな報告書を出してくるように。わかったな!」
そう言うや、利助は店を後にした。
しばらく誰も口を利かず、放心したようにその場に座り込んでいたが、やがて善吉が解散を告げると全員がノロノロと動き出した。
誰が言うともなく甚四郎・茂七・伊助の三人は小伝馬町の『とと屋』へと向かった。
「なんっっっやアレは!」
思わず江州弁に戻って茂七が散々に文句を言う。腹に据えかねるという言葉がぴったりな激昂ぶりだ。
「ご先代様の威光を笠に着て、言いたい放題やないか! そんだけ言うなら自分でやってみいっちゅうねん!」
甚四郎も言葉が無かった。確かに以前と比べて売上の伸び率は鈍化しているが、世間では不景気な話題ばかりで廃業を余儀なくされる商家も少なくない。そんな中で、それなりに健闘しているという自負はあった。
だが……。
「江戸滞在に宿代使って経費倒れやなんて、よう言えたモンやな! 伊助! お前もそう思わんか!」
「ええ、ご先代様は私らと一緒に寝起きされてましたしね」
「ハン! 例え一緒に寝起きする言うてもこっちがお断りやけどな!」
伊助と茂七があれやこれやと利助を批判する。甚四郎も愉快ではなかったが、経費倒れという言葉が妙に引っかかっていた。
「ですけど、危機感を持てというのはその通りかもしれません。周りが景気のいい話題がないなら余計に、今後船賃やらは上がって来るでしょうし、運び賃が掛かるなら江戸店を畳んで八幡だけで問屋をやった方が、少なくとも江戸での冥加金は減らせます」
甚四郎は利助の言葉を思い出していた。言い方はともかく、焦る気持ちはわからなくもないと思う。
だが、そんな甚四郎の態度が茂七の怒りに油を注いだ。
「甚四郎! お前は当代の味方か? あんなヤツの肩持って、出世させてもらおう言う肚なんか!」
「そんな事は言ってませんよ。ただ、言い方はともかく言うてる事は間違ってはいないんじゃないかと言ってるんです」
「フン! そないに尻尾振りたいなら、今から宿まで追いかけてあの野郎のケツでも舐めて来いや!」
「茂七さん、ちょっと飲み過ぎですよ」
「やかましい!」
言いながら茂七がグビグビと酒を飲む。役付手代として、管理職として、茂七は茂七で言い知れぬ苦労を重ねている。そんなものを評価しようともしない利助の態度が許せないのだろう。
結局グダグダに酔いつぶれてしまった茂七を見て、おしまがため息を吐いた。
「珍しいね。茂七っちゃんがこんなに酔いつぶれるなんて。いつもはもっと綺麗に飲むでしょ?」
「はあ、ちょっと仕事で嫌な事がありまして」
「ちょっと?」
「いや、かなり……」
もう一度おしまがため息を吐く。今度は少し労りの籠った眼差しだ。
「まあ、ちょっと休ませてあげるから、気が付いたら連れて帰ってあげて」
「いえ、迷惑になるといけないんで、背負って帰ります」
「そう。まあ、これに懲りずに、また来てね」
店のオヤジに丁重に詫びて茂七を伊助に背負わせ、甚四郎が足元を照らしながら山形屋に向かった。
酒のせいか、妙に蒸し暑い夜だと感じた。




