子供のように
実家の店じまいを済ませると、兄二人はそれぞれ京・大坂へと引き上げて行った。甚四郎も事の次第を報告するため、懐かしい八幡町の本店へと出向いた。秋も深まって風が冷たさを帯び、遠くの山々が燃えているように色づいている。
しかし、今の甚四郎にはそれを美しいと思う気持ちにはなれなかった。
利助に事情を話すと、利助は父との思い出を語ってくれた。
「ウチも中村屋さんとは古い付き合いや。お前の事も、甚左衛門さんからくれぐれもよろしくと文を貰ってた。何よりも自分が御用金で苦しんでるはずやのに、文に書いてあるのはお前の事だけでな……。
援助してほしいとは一言一句も無かった」
甚四郎は利助の思い出話をどこか上の空で聞いていた。
恐らく父を褒めてくれているのだろうということは分かったが、それ以上の感慨は無かった。
「お前の親父さんは、立派な人やったぞ」
「はい……ありがとうございます」
甚四郎の様子に、利助も難しい顔をする。
こういう時、どう慰めてやればいいかは誰にも分からない。おそらく本人にも……。
利助もどう声を掛けてやるべきか迷っている様子だった。
「元気を出せというのも今は無理かもしれんが、まあ、そう落ち込むな。今日は本店に泊まって、明日江戸に戻ったらええ」
「はい……」
抜け殻のような顔で利助の部屋を辞した甚四郎は、無性に一人になりたくて日牟禮八幡宮へと向かった。いつもの椋の木の根元に座り、焦点の合わない目でぼおっと地面を見据える。
辺りに人影はなく、先ほどまで境内の掃き掃除をしながら甚四郎を不審そうに見ていた神主も今は奥に引っ込んでいた。
既に夕日は真っ赤になって西の山に隠れ始め、辺りでは家路を急ぐ人を囃し立てるようにカラスが鳴いている。間の抜けたカラスの鳴き声が、妙に心に迫ってきた。
甚四郎はふと思いついて懐から銀黒の煙管を取り出すと、煙草を詰めて火を付けた。一息で煙を吸うと、思わずむせて咳き込んでしまった。煙が目に染みて涙が出て来た。
そんな甚四郎の前に、いつの間にか多恵が立っていた。
「……何してるん?」
「ゴホッゴホッ…… 多恵ちゃん」
「遅いから迎えに来たんやけど……」
なおも咳き込みながら、甚四郎は手元の煙管に視線を落とした。
「一回煙草いうもんを吸ってみようかと思って……。親父はずっと煙管を手放さんかったし、そんなに美味いもんなんやろうかなって」
多恵は甚四郎の目を真っすぐに見て来る。その目には甚四郎を心から労わるような色があった。
「……おいしい?」
「いや。……なんでこんなモン親父は吸ってたんやろうなぁ。息苦しいしむせるし、美味くも何ともない。
……なんで、親父はこんなモンを……」
不意に帳場で相好を崩す父の顔が浮かんできた。幼いころから不機嫌そうな顔ばかり見てきたはずなのに、思い出すのは笑っている父の顔だった。
涙が一筋頬を伝う。
煙草の煙が目に染みて痛かった。
「俺、何も知らんかった。親父がどんな苦労をしてるのかも、兄貴がそれをどんな思いで支えてたのかも……。
江戸でちょっと上手くいって、調子に乗ってた。俺には何でもできると思い込んでた。
世間の事も、親父の事も、何も知ろうとせんかった」
そこまで言って、甚四郎は卒然と理解した。
――ああ、そうか。
それを認めたくなかったのだ。自分が無知で馬鹿な子供であることを自覚したくなかった。だから、世の中の不条理に怒る事で誤魔化そうとした。
父は不条理に飲み込まれながらも、それを責め恨む言葉は一言一句吐かなかった。ただ、店を保てなかった事を悔やみながら逝った。兄二人もそんな父を不憫に思いこそすれ、決して世の中を恨むような事は言わなかった。
自分だけが、父の死を悲しめなかった。怒ることで全てを世の中のせいにして、父の苦労を知ろうともしなかった自分への言い訳にした。
自分一人だけが、ただのわがままな子供だった。そう思ってしまうと、もう涙が止まらなかった。
「もっともっと、親父と話をしとけばよかったんや」
元服した姿を見たがっていた父の寂しそうな顔が浮かんでくる。何故自分は父を煙たがってしまったのか。父が望むようにしてあげれば良かったのだ。
もっと父が喜ぶ姿を見たかったと痛切に思った。
煙管の先からは、吸い込まれることの無い煙がゆっくりとたなびいている。甚四郎は煙管を手に持ったまま、しばらく声を上げて泣いた。
ひとしきり泣いた後、甚四郎は涙を拭うと顔を上げた。
それまでじっと黙って見ていた多恵が、不意に口を開く。
「甚ちゃん。もう商人はやめるの?」
「え?」
「なんとなく、そんな気がしたから……」
そうなのかも知れないなと思った。実家も無くなり、商人を目指す意味があるのかも分からなくなってきた。どうせ武士に利用された挙句に潰されるのなら、何の為に商人を目指すのか。
「ウチは、待ってるよ。約束通り」
多恵はまっすぐ甚四郎の目を見ていた。意志を持った強いまなざしだ。甚四郎を責めるような色はない。ただ、少し悲しそうだった。
「ウチは、いつまでも待ってる」
それだけ言うと、多恵は背中を見せて行ってしまった。甚四郎は多恵の後ろ姿を見ながら、心の中で呟いた。
――負けて、たまるか
江戸に戻った甚四郎は、今までと変わらずに仕事を続けた。お客を回ってよく笑い、真剣に話を聞き、商品を売り込んでいった。だが、今までよりも相手に興味を持って話しを聞くようになった。
そうして三カ月が過ぎ、ついに嘉兵衛が退役する日を迎えた。




