父の無念
「兄さん!一体急にどうしたんや!何があったんや!」
実家に戻った甚四郎は、長男の甚一に噛みつくように話を切り出した。甚一の隣では母がすっかり老け込んでやつれている。
甚一は目の前で唾を飛ばす甚四郎を押しのけ、冷静な声音で諭した。
「勘治も今こっちに戻ってきてるところや。兄弟揃ってから話すから、お前はちょっと待っとけ」
「そやけど、俺が三年前に会った時にはまだ親父は元気にしとって……」
「ええから待っとけ! ウダウダ言う前に親父に挨拶して来んかい!」
兄から一喝され、甚四郎は渋々ながら仏壇の前に座った。懐かしい父の顔はそこにはなく、戒名の刻まれた位牌だけが甚四郎を見下ろしている。
不思議と涙は出なかった。
『一体何故?』という想いだけが今でも甚四郎を支配していた。
翌日に次兄の勘治が大坂から戻ると、兄弟三人での話し合いが始まった。
「まず、最初にお前ら二人に言うておく。中村屋は今日を限りに店じまいする」
「え!?」
「なんでや?」
甚四郎と勘治が同時に驚きの声を上げる。
だが、次に続く甚一の一言で二人とも言葉を失った。
「……親父は、お殿様に嵌められたんや」
甚四郎には長兄の言っている意味が分からなかった。あれほど誇らしそうに陣屋に出入りしていた父に一体何があったのか……。
甚四郎の顔にはただただ疑問だけがある。だが、次兄の勘治は何か思い当たることがあるらしく、神妙な顔をしていた。
甚一は二人の反応を見比べながら続けた。
「親父が堅崎藩の御用を務めてたのはお前ら二人も知ってるな?」
「知ってる。陣屋にも裃姿で出入りしとったし……」
「知っての通り、御用金は藩主様へお貸しするお金や。問題はその貸金の額でな。
今現在、はっきり言ってウチの帳簿はアテになってへん。貸金として返されるはずになっとるカネがすでに三千両も寝たままになってるんや。
親父は俺に継がせる前に、その貸し借りを綺麗にしておいてやろうと思ったんやろうな。藩に強硬に返済を求め、今年中に返済の目途が付かなければご公儀に訴えるとまで言ったそうや」
「ご公儀に……でも、借りた金は返すのが筋やろう? ご公儀も親父に理があると言うはずちゃうんか?」
「道理で言えば、甚四郎の言う通りや。そやけど、堅崎藩は親父に御用を務めさせる代わりに苗字帯刀を許し、二人扶持を与え、武士と同等に扱ってきた。それもこれも、こういう時の為やったんやろな」
甚四郎は甚一の言葉を反芻しながら、話の続きを待った。
甚一は一つ呼吸を整えると、重々しく口を開いた。
「親父がご公儀に訴えると言った瞬間、主家を訴えるとは不届千万、闕所(領外追放)の上、財産を没収するとのお沙汰が下った」
――汚い
思わず甚四郎は拳を握った。
財産を没収するということは、父が貸していた貸金も没収されるということだ。つまり、堅崎藩は借金を堂々と踏み倒したのだ。藩としては商家が一軒潰れたところで痛くもかゆくもなく、借金が帳消しになるのなら儲けものくらいにしか思っていないのだろう。
いや、甚一の言う通り、その為にこそ苗字帯刀を許したのかもしれない。裃姿で誇らしく登城する父の背中を思い出し、甚四郎は腹の底から怒りが湧いた。
「親父は、泣きながら俺に詫びて逝きよった。そんなもん、どうでもええと言うたんやけどな……」
長兄の声が次第に震えて来る。次兄も涙を流して聞いていた。だが、甚四郎は不思議と泣けなかった。悲しみよりも怒りの方が上回っていた。
「この上は、三代続いた中村屋もおしまいや。幸い、俺は京の旦那さんに事情を話して店を出させてもらえることになった。
お袋も俺が京に引き取るつもりや。これ以上堅崎藩で商いをするつもりはない。お前らも、今の奉公先でそれぞれに気張れ」
言いたいことを言いきった甚一は、鼻をすすって涙を拭いた。
長男として、己がしっかりしなければいけない。そんな態度だった。
だが、甚四郎は尚も甚一に食ってかかった。
「兄さん! そんなんで終わりにするんか? 親父の仇も取れんで、悔しくないんか!」
だが、甚一は甚四郎の言葉を一言の元に切り捨てた。
「親父はそれを望んでない。俺らは武士とは違う。仇を討つよりも、残された者がしっかりと生きていくことを親父は望んでいるはずや」
甚一に否定され、甚四郎は悔しさに俯いた。そんな甚四郎に対し、甚一は一転して優しい声で諭した。
「ええか甚四郎。気持ちは分かるが、武士に逆らってはならん。武士が本気で潰しに来たら、商人は為す術なく潰される。武士と事を構えるということは、死ぬことを覚悟するということや。
……親父の遺言やと思って、胆に銘じろ」
甚一の言葉を聞いても甚四郎は納得がいかなかった。そんな不条理があってたまるかと思った。
だが、そんな甚四郎を置き去りにするように兄二人が遺品の整理を始めた為、甚四郎もやむなく手伝った。
三代続いただけあって蔵の中には雑多な物が多く残っていたので、遺品整理には数日かかった。
「甚四郎。これ……」
蔵の整理を終えて処分する物を裏庭に運んでいると、不意に母が煙管を差し出した。甚四郎が初登で買って来た、銀黒の煙管だ。
「お父さん、喜んではってなぁ……ずっと手放そうとせえへんたんよ。返すようで悪いけど、形見としてもらってやって」
そう言うと母は目頭を押さえながら俯いた。涙に暮れる母から鈍い光を放つ煙管を受け取ると、甚四郎は父の愛用していた煙草入れや煙管袋と一緒に懐に仕舞った。
夜になると裏庭で火を起こした。炎の中で、様々な紙片や木片が焼かれている。店の帳簿や売掛台帳、仕入れの注文書など、もう中村屋には必要無くなったものだ。
パチパチと火の粉を上げながら燃える紙や木片を見ながら、甚四郎は左義長の火を思い出していた。
――どんどの火はいつもキレイや。そやのに妙に物悲しいのは、この火が消えたら何もかもが終わってしまうからなんかな……
父も、中村屋を守ろうと精一杯戦ったと思う。兄に継がせるため、命懸けで武士と戦った。そして、負けた。
町人と武士の境目は曖昧で、しかしやはり町人と武士とは違うのだということを痛切に思った。こんな横紙破りをする商人など、甚四郎は見た事も聞いた事も無い。
失意の中で死んだであろう父の無念を思うと、やりきれない気持ちで一杯だった。




