岐路
黒木屋五兵衛との出会いからすでに二年が経ち、甚四郎は外回りの仕事にもすっかり慣れてきていた。季節は既に秋風が吹く頃となり、この年も蚊帳の季節は既に終わりを迎えている。今は大家への御用伺いに加え、新規開拓として五兵衛所有以外の長屋の大家にも営業を掛けている所だ。
真面目に仕事をこなしていれば大家同士で紹介してもらえることもあり、紹介してもらった大家から店子にも紹介してもらうといった好循環で、今や甚四郎は本所周辺でもそこそこ顔が売れていた。
そんなある日、甚四郎が外回りに出ようとした所で茂七に呼び止められた。
「甚四郎。今夜ちょっと付き合えよ」
「ええ、いいですよ。また今日も『とと屋』ですね」
「ああ、多分遅れていくから先に行って待っててくれや」
茂七と酒を飲むのも今や珍しいことではない。甚四郎は気楽な調子で応じ、そのまま外回りに出かけた。
外回りに出ると、一日大家や店子たちとあちこちで雑談をこなしながら需要を探す。いきなり表替えの話になる事は少ないが、畳縁の修理や裏を返す仕事などは小さいながらもコツコツとした注文を積み上げてくれた。
それらを一つ一つ確実にこなしていくことが信用に繋がる。
今では一日をどう過ごすかの宰領も任せてもらえているので、今日は早めに客先回りを切り上げて約束通り『とと屋』に向かった
「いらっしゃ~い。あら!甚ちゃん。今日は一人?」
「いや、茂七さんが後から来るはずなんで。奥、いいかな?」
「はいはい。どうぞ~」
看板娘のおしまともすっかり顔なじみになり、小伝馬町の居酒屋『とと屋』は甚四郎にとっても行きつけの店になっていた。
茂七は遅れて来ると言っていたので、先に酒と肴を注文する。甚四郎は、特に『秋味』と呼ばれた塩鮭がお気に入りだった。
「甚さん、いらっしゃい。今日は早かねぇ」
女中のみちが隣に座ってお酌をしてくれる。みちは九州の出身らしく、独特の言葉遣いをしていた。接客も博多弁だったが、その言葉遣いが可愛らしく、甚四郎は気に入っていた。
「ああ、おみっちゃんの顔が見たくなってね」
「あら、そんな上手な事言って。どこの女子さんにも言ってるんじゃなかとね。もう」
そう言ってみちが甚四郎の尻をつねってくる。甚四郎の方も痛がってはいるが、みちの行動に驚いてはいない。江戸に来て既に三年が経ち、夜遊びにもすっかり慣れたものだった。
しばらくして茂七が入って来ると、部屋にはおしまも加わり賑やかな場になった。
しばらく四人で楽しく飲んでいたが、店が混みだしたことでおしまとみちが他の客の御酌に回る。
男二人になったところで、甚四郎は改めて茂七と向かい合った。
「そういや、茂七さんもあと一年ほどで三番登ですね」
「ああ、そうなるな」
「茂七さんもとうとう番頭さんかぁ。退役登まで行くんでしょう?」
「さて、どうするかな……。俺ももう二十六歳になる。三番で退役して商売替えするってのもアリだなとは思うさ」
「え!? 残らないんですか?」
甚四郎は意外そうな顔をした。
商人の世界も競争は厳しく、退役登りまで務めて暖簾を分けられるのは一握りの者だけだ。だが、甚四郎は茂七が店を辞めるとは露ほども思っていなかった。おどけた所はあるが、商人としての茂七の優秀さは甚四郎が一番良く知っていた。
茂七は酒を飲み干すと、空になった杯に目を落とした。
「いや、まだ迷ってるところだ。平太も辞めちまったし、嘉兵衛さんもあと三カ月ちょっとで別家だしな」
「そうですね……」
甚四郎も少し感傷的になって酒を舐める。
甚四郎の先輩手代の平太は昨年の二番登を機に店を辞め、今は深川で小さな小間物屋を開いていた。上方の小間物を扱う店として多少評判は取っているが、当然ながら山形屋とは商売の規模が全く違う。
数ある奉公人の中でも退役登まで勤め上げる者はほんの一部で、ほとんどの奉公人は途中で独立していくのが常だ。
―――俺もそろそろ……
そんな感慨が浮かんでくる。
別家として生涯山形屋に忠誠を誓うか、途中で退役して自分の力で商売を興すか。商家の奉公人たちはそれぞれに進むべき道を見出さなければならなかった。
「お前は別家だけじゃなくて、黒木屋さんに後援してもらうって手もあるんじゃないか?」
「まあ、考えなくもないですがね」
「道が多いってのはいいことだ。うらやましいぞこの野郎」
「へへへっ」
そう言ってニンマリと笑う。甚四郎は黒木屋五兵衛とは今でも良好な関係を保っていた。月に一度ほどは手土産を持って挨拶に行き、孫娘の春とも言葉を交わしている。独立したいから援助してほしいと言えば、無下にはされないだろうという自信はあった。
甚四郎も既に二十歳を過ぎ、改めて自分の人生を考え始めている。多恵との約束はあるが、江戸で独立して多恵を江戸に呼ぶという選択肢もあるのだ。
気がつけば銚子も空になり、店も随分と賑わい始めている。邪魔にならないよう、甚四郎達は早々に日本橋へ戻った。
茂七と二人で酒の匂いを漂わせながら店に戻ると、帳場から嘉兵衛が甚四郎を呼んでいる声が聞こえた。
何事かと帳場へ行くと、嘉兵衛が深刻そうな顔をして一枚の文を差し出す。
「お前の親父さんがな、病で亡くなったと本店へ連絡があった」
――えっ!?
突然の事に甚四郎は一瞬思考が停止した。三年前に会った時にはそんな気配は全くなかったはずだ。どうして急に、とそればかりが頭の中を駆け巡った。
「一月休みをやるから、一度里へ帰ってこい」
「……はい。ありがとうございます」
呆けたままでとりあえず頭を下げると、裏の井戸水で顔を洗いながら頭を整理した。
――どうして急に……?
もう一度その思考が頭を支配する。帳面の整理などの仕事は残っているが、何も手に付かなかった。何をしても上の空で、とても仕事を続けていられる状態ではない。
見兼ねた茂七が甚四郎の帳面を奪い取り、その日は無理矢理に休まされた。
そして翌日、甚四郎は江戸を出て堅崎の実家へと急いだ。