蚊帳行商
「失礼します。今日も長屋の内を回らせてもらいますね」
甚四郎が菅笠の前を少し上げて顔を見せながら、紹介してもらった大家に一言断りを入れる。この頃にはもう何度も五兵衛の長屋に足を運び、大家とも顔なじみになっていた。
「これは山形屋さん。毎日精が出ますなぁ」
「いえいえ。店子の皆さんに顔を覚えてもらいたい一心ですよ」
「ご苦労様です。ああ、終わりがけに少し顔を出してもらってもよろしいですか?」
「わかりました。帰りにまた寄らせてもらいます」
甚四郎は五兵衛の長屋を何度も丹念に回った。服装は蚊帳売り行商の出で立ちだ。
蚊帳行商は雇夫と手代が二人一組で回る。
手代は背に負った風呂敷に算盤や売掛帳面などを入れて持ち歩き、途中で声が掛かったらその場で商談に入る。持参した八尺四方の一般サイズでよければその場で渡し、部屋の寸法に合わせて仕立ててほしいという場合には寸法を控えて戻り、後日そのお客の所へ届ける。
雇夫は紙張の籠に八尺四方に仕立てた蚊帳を数反入れ、それを天秤の前後にぶら下げて担いで歩いた。手代は小袖姿だが雇夫には常に新しい半纏を着せ、手代・雇夫共に菅笠をかぶるのが蚊帳売りの定番だ。
特に雇夫は美声の者を選び、さらに数日発声練習をさせてから行商に行かせた。
「萌黄のカヤァァーーーーー」
と一息で長く唱え、ひと声唱える間に半町(約五十メートル)も歩くと言われた。そうした長い売り声が蚊帳売りの特徴だった。
「萌黄のカヤァーーーーーーー」
この日も雇夫の太く男らしい美声が長屋内に響く。
甚四郎の相方の雇夫は仁兵衛という三十がらみの熟練雇夫で、もう十年は山形屋で勤務しているという。仁兵衛は行商一本で食っているらしく、冬は汁粉や甘酒を売り歩き、春先から初秋までの蚊帳の時期は山形屋に雇われている。
汁粉や甘酒などは年中売り歩くものだったが、夏場はやはり蚊帳売りの方が儲かるそうだ。
「萌黄のカヤァーーーーーー」
「蚊帳売りさーーん」
一軒の長屋から四十頃のおかみさんが走り出て来た。宣伝は仁兵衛の役目だが、お客が出てくれば甚四郎の出番だ。
「はい!毎度ありがとうございます」
菅笠を外してニッと笑うと、相手も愛想よく家の中に招き入れてくれた。
「ちょうどよかったわ。夕べ蚊帳を破いちゃってどうしようかと思って……。一反売ってくださる?」
「へい!毎度どうも。八尺四方の物でよければすぐにお渡しできますが」
「じゃあ、それでお願い。一晩中蚊遣火に燻されずに済んで助かったわ」
「ははは。まだまだ蚊が煩い季節ですからね。お代は銭か銀かどちらがいいです?」
「うちの人は銭稼ぎだから銭でお願い」
「へい。では、銭一貫文になります。お代は今月の晦日(末日)に集金に伺いますね」
そう言って甚四郎は持参した帳面を取り出して記帳する。帳面に控えると、次は端紙に書きつけた明細をお客に渡した。
「仁兵衛さん。八尺の奴を一反お願いします」
表で待つ仁兵衛に声を掛けると、担いでいた荷から一反取り出して中へ持って入ってきた。
「毎度どうも」
「あら、アンタ甘酒売りさんじゃなかった?」
おかみさんが仁兵衛の顔を見て驚いたように声を掛ける。
「ええ、夏場は蚊帳売りをやっとります」
「あらあら。アンタの甘酒美味しいから、また冬場には回ってきてね」
「どうもありがとうございます」
おかみさんがカラカラと笑うと、仁兵衛もニッっと笑って萌黄色の束を渡した。仁兵衛は行商人らしく真っ黒に日焼けしており、笑うと歯だけが白く浮いているように見えた。
この時期ならば一日に一反売れるか売れないかだが、このおかみさんのように緊急で必要になる場合には行商はとても重宝された。
自分から商品を買い上げてくれたお客が喜んでくれるのは、商人冥利に尽きる瞬間だ。
―――商いとは、いいモンだな
自分の汗で喜んでくれる人がいると思えば、流れ落ちる汗も何ほどの事もない。先代の近江商人達が額に汗して働いた気持ちが、少しわかる気がした。
萌黄の蚊帳は山形屋二代目の西川甚五郎が考案した蚊帳で、それ以前の蚊帳は茶色く野暮ったい色合いだったそうだが、甚五郎が売り出して以降、蚊帳は萌黄色に染めるのが常識になったという。世の中の価値観を塗り変えてしまうほどの工夫に、甚四郎は商売の持つ力を感じずにはいられなかった。
帰りがけ、言われていた通りに大家の所に寄ると、店内には売れ残りの野菜類が並んでいた。この長屋の大家は八百屋を主な生業にしている。
「ごめんください。山形屋ですが、お話通り寄らせてもらいました」
「はいはい。ああ、済みませんなぁ。お手間をかけて」
大家がニコニコしながら居間から店先に顔を出す。
「実は、今月末で退去の家が三軒あります。ここの長屋も表を替える時期に来てますので、まずはその三軒の表替えをお願いしたいと思いまして」
「ありがとうございます。間取りは一軒あたり六畳敷でしたね」
「ええ、六畳敷五坪のお部屋です。次の入居が来月末なので、一月の間には終わらせてもらいたいんですが」
「かしこまりました。表は青莚でよろしいですか?」
「それでお願いします」
甚四郎は注文の内容を手元の帳面に書付けた。戻って嘉兵衛に聞きながら畳職人に注文を出さねばならない。
職人は指定の日に畳を引き取りに来て、山形屋の卸す表に張り替え、再び指定の期日に畳を納品する。畳敷きは現場での細かな調整が必要であり、素人が簡単にできる仕事ではない。その為、表替えなどの施工は専門の畳職人に回すのが普通だった。
山形屋では表張りと畳敷きを専門とする職人を抱えていたが、同郷の大文字屋は畳表の取り扱いが特に多い店であり、抱えている職人の数も山形屋より多い。その為、忙しい時は職人の手配を大文字屋に依頼することもある。商売とは単純に売り手と買い手だけで完結するものではなく、そこに様々な職人や問屋が介在して一つの注文に応えていくものだ。
月末になると集金に回った。
集金の際には甚四郎一人で回り、つり銭も持参しているためスリや強盗に怯えながら回ることになる。
その点、茂七や平太は集金も手慣れたもので、集金袋を風呂敷の奥深くに隠して奪われないように気を付けていた。
様々な仕事をこなしていく甚四郎には、もう少年の面影はない。立派に一人前の仕事を任されているという自信と誇りで、顔つきまでもが変わってきていた。