外回り
黒木屋五兵衛の屋敷を訪れてから三日後、日本橋店に五兵衛の使いと名乗る来客があった。先日春の護衛を務めていた中間者だ。
藍染の着流しに両刀を差した楽な出で立ちだったが、髭剃り跡も青く小ぎれいな身なりを整えており、町行く浪人者とは明らかに収入が違うと見えた。
中間者は多くが百姓の出で、腰に帯びるのは脇差一本というのが普通だ。両刀を差しているからには士分なのだろうが、商家の中間として働いているのは何とも不思議な物だ。甚四郎は父や利助の武士姿を思い出し、武士と町人という身分の曖昧さを奇妙に思った。
中間の男は、佐久間祥介と名乗った。
「先日はお招きいただきありがとうございました。五兵衛様や春様にもよろしくお伝えください」
「ご丁寧に痛み入る。五兵衛殿らにはそのように申し伝えておきましょう。
ところで、今日は五兵衛殿から、甚四郎殿を所有している貸家の大家に紹介してほしいと頼まれましてな。よろしければ今からひとまわりご紹介していきたいのだが……」
そう言うと祥介は軽く店内を見回した。
盛りは過ぎたとはいえ、さすがに日本橋一丁目の一番地で営業する山形屋であり、店内にはそれなりに客の姿がある。忙しければ出直そうかという気遣いなのだろう。
――へぇ。
お武家様とは言え、これほど腰の低い方もおられるのかと驚いた。甚四郎は改めて人を外見で判断するなという茂七や嘉兵衛の言葉を思い出した。人柄を見るという商人の大原則を、甚四郎もようやく意識するようになってきていた。
「上役に一度話を通して参りますので、しばしお待ちいただけますでしょうか」
そう言って丁寧に頭を下げると、伊助にお茶出しを頼んで帳場まで向かった。
「嘉兵衛さん。先日の黒木屋さんのお使いの方ですが、これから貸家の大家に紹介して回りたいと来て下さっているんですが……」
「わかった。すぐに支度する」
そう言うと嘉兵衛は、次席番頭の弥助を呼んで帳場を代わった。
甚四郎は前掛けを外し、小袖姿になって祥介の所へ向かう。もちろん嘉兵衛も一緒だ。嘉兵衛は小袖に加えて羽織を羽織っていた。羽織が許されるのは、番頭格以上の者だけだ。
「お待たせいたしました。何分ひよっこなものですので、上役と共に回らせて頂きたいと思いますが……」
「ええ、もちろん構いませんよ」
そう言うと祥介は出された茶を一気に飲み干した。
「ご馳走になりました。では、参りましょう」
祥介の案内で連れられた先は墨田川を渡った先の本所の辺りで、庶民の長屋が数多く軒を連ねている場所だった。茂七や平太も時々回っていると聞く。日本橋からは小伝馬町や噂の両国を抜けた先にあり、特に両国の活気には驚かされた。
昼日中にも関わらず焼イカや蒸し饅頭を売る屋台があり、旨そうな匂いについつい目移りしてしまう。夜は夜とて、昼は昼の賑わいがあり、ただ見ているだけでも楽しめた。日本橋の雑踏とはまた違い、人々の生きている下町という風情は甚四郎にも好ましいものだった。
やがて両国橋を渡り、本所の町並みに入った所で佐久間が足を止めた。
「こちらの表店五軒分が五兵衛殿の貸家です」
「こ、これ、全部ですか?」
思わず驚きの声を上げる。その様子を見て佐久間が可笑しそうに笑った。
「ええ、最初に見た者は皆驚きます」
隣の嘉兵衛も言葉が出ない。大きな商談になるとは予想していたようだが、どうやら現実は予想のはるか上を行っていたらしい。
表店の後ろには二十軒ほどの長屋が連なっており、それらの大家は表店の商店主が兼業している。つまり、五兵衛の所有地は総軒数で百軒近くもあり、百世帯を超える店子を抱えているという事だ。
利助も貸家を持ってはいるが、五兵衛ほどの規模はない。しかも、家主が畳を敷くということはそれぞれの長屋がそれなりの家賃のする良い物件という事だ。貧乏長屋では物件は板敷で、畳が入用ならば店子が自分で買うのが常だ。
五兵衛の資産規模の一端を垣間見て、甚四郎は改めて釣り上げた魚の大きさに驚くばかりだった。
「ごめんよ。今いいかい?」
気軽な調子で言葉をかけながら、佐久間が一軒の表店に入る。
「これは佐久間様。地主様から何かお達しで?」
「うむ。実は畳の表替えだが、御縁あって次からこちらの山形屋さんへ注文を回して欲しいんだが、かまわないか?」
「ええ、それはもう。家主様の御指図でしたら私らに否も応もありませんや」
大家からの返答を聞くと、佐久間が目で甚四郎に合図する。
「山形屋の手代で甚四郎と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
「私は甚四郎の上役の嘉兵衛でございます。粗相の無いように努めますので、今後ともご贔屓にお願いいたします」
二人で大家に頭を下げると、大家の側も恐縮して頭を下げた。お互いに頭を下げ合いながら、顔と名前を憶え合う。これから外回りで回ることになるので、見間違いのないようしっかりと顔を合わせた。
それぞれの大家に挨拶を済ませると、昼前に日本橋を出たはずなのに戻った頃には既に夕日が傾いていた。
「本日はありがとうございました」
「いえいえ、今後ともよろしくお願い申す。何かあれば某に取り次いでいただいても結構ですので」
そう言って立ち去る佐久間を見送った後、店内では緊急の会議が開かれた。今日紹介してもらった長屋の数々を、どのように料理していくかという事だ。
「まず、ちと早いが明日から甚四郎は外回りに配置換えとする。甚四郎は今日紹介してもらった大家さん達に茂七、平太、長兵衛、弥助の顔を繋いでくれ。あれほどの規模では、とても一人で捌くのは無理だ。半人前だからではないぞ。たとえ俺でも一人では無理だ」
「はい」
「わかりました」
甚四郎以下名前を呼ばれた者が次々に返事を返す。
「弥兵衛は畳表の仕入れを至急本店に手配しろ。琉球表を多めにな」
「かしこまりました」
畳表にも等級があり、最上級品は備後表とされていた。かの織田信長が足利義昭の為に二条御所を新築した際、畳は備後表にせよと信長直々に指示したほどだ。
近江も畳表の産地だが、近江八幡近郷で産する近江表は上の中とされた。
備後表や近江表は大名屋敷や江戸城、富裕商の自宅や吉原の高級妓楼などに使われる。色合いも黄色に近い黄金色で、イグサも細長くキメがこまかい。
それに対して、庶民向けのものは琉球表や青莚と呼ばれる深緑色の畳表が使われた。琉球表とは言ってもその産地は現在の熊本県や大分県周辺で、現在でもこの辺りは畳イグサの一大産地となっている。
「それと、甚四郎の外出禁止は撤回だ。もうそういう事を言っている場合じゃ無くなった。ただし、門限破りは二度とするなよ」
「わかりました」
「甚四郎の大手柄だな。他所に食いつかせないように、徹底的にウチで営業を掛けるぞ!」
「おう!」
店内は俄かに活気に包まれた。
長屋にはそこで生活する人がいるし、その人達は夏には蚊帳を必要とするだろう。畳表だけの商売で終わらせる気などさらさらなかった。その為には、長屋の人達にも顔を見知ってもらう必要がある。何しろ家主や大家の推挙を得て回るのだから、信用は折り紙付きだ。
翌日から甚四郎は先輩手代達と共に各大家に挨拶し、長屋内に行商を掛けて回ることになった。




