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幸運

 

 急病人騒ぎの翌日。甚四郎が欠伸を噛み殺しながら店に座っていると、丁稚の伊助が声を掛けて来た。


「甚四郎さん。お客さんですが……」

「俺に?」

「はい、中村甚四郎さんを。と」


 蚊帳の商いは主に上半期に集中するから、夏も終わりに近づいたこの頃にはすでに売上が下り坂に入る。この時期に売れるとすれば破れてしまって急ぎで必要という場合だが、そんなお客がわざわざ自分を指名してくれるだろうかと甚四郎は不審に思った。

 だが、ご指名を頂いたのなら接客につかないわけにはいかない。


 甚四郎は営業用の笑顔を作ってお客の所に出向いた。


 ――おや?


 店先に来て甚四郎は再び不審に思った。

 上がり(かまち)に座っているのが、蚊帳を買いに来た客には見えない若い娘だったからだ。


 無論、若い娘が買いに来ることも無くはないが、蚊帳は庶民にとってはそこそこ値の張る買物だし、生活用品でもある。普通は男が買いに来るか、さもなくば家計を預かる年増の奥方が買いに来ることが圧倒的に多い。若い娘が自分の髪飾りを買いに行くのとは訳が違うのだ。


 身なりを見ると、ますます蚊帳を買いに来る客としては似つかわしくない印象を受ける。昔ながらの島田髷に桔梗をかたどった小さな花簪(はなかんざし)を一本だけ挿し、控えめな印象が育ちの良さを醸し出している。鮮やかなクチナシ色の小袖には鹿の子絞りの模様が入っており、目に眩しいほどだ。


 父親にでも使いを頼まれたのだろうか。だが、それならばわざわざ手代を指名する理由が無い。

 とつおいつ思案しながら、甚四郎は娘の手前の畳に膝を付いた。


「いらっしゃいませ。私が手代の甚四郎でございますが……」

「ああ、貴方が中村様ですか? 昨晩は祖父が大変お世話になりました」


 そういうと娘が立ち上がって頭を下げた。

 娘はヘソの辺りに両手を添え、きっちりと腰を折っている。美しい立ち姿だなとぼおっと考えていると、不意に昨夜の事が思い出された。


「昨晩……。では、あの御老人の…?」

「孫の春と申します。おかげさまで大事には至らず、今は自宅に戻って静養しております」

「そうですか。それはようございました」


 ニコニコと対応しながら、甚四郎は心の中で落胆した。


 ――お客じゃなかったか


 そうと分かれば、有難くお礼の言葉だけ受け取って切り上げるかと思案していると、娘の口から意外な言葉が出た。


「あの……もしよろしければ我が家へお招きさせていただけませんか?」

「へっ?」


 愛想笑いも忘れ、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。甚四郎のその反応に、春が少し顔を曇らせた。


「やはりご迷惑でしょうか。祖父も直接会ってお礼が言いたいと申しておりまして……」

「いや、その……実は少々不始末を仕出かしてしまい、今は外出禁止を申し渡されていまして……」

「かまわんぞ」


 いつの間に居たのか、後ろから嘉兵衛が声を掛けてくる。


「事情は昨夜聞いたからな。折角のお心遣いを無下にするのも何だ。特例として許可するから行ってこい」


 困惑顔の甚四郎の横で、春がぱあっと明るい顔になる。対照的に甚四郎は不審な顔を嘉兵衛に向けていたが、ともあれ嘉兵衛が行けというのだから断る理由はない。


「では、お言葉に甘えさせて頂きます」


 老人の家は大きなお屋敷だった。

 間口が十間ほどもあり、武家屋敷と見まがうばかりの立派な門構えがまず視界に入る。塀は高く作られていて、上には忍び返しが設けられており、中を覗けない造りになっていた。奥行きもかなりの深さであろうことは想像に難くない。


 甚四郎が春の先導でくぐり戸をくぐると、門構えに負けず劣らず立派な玄関が目に入った。甚四郎の後ろから入って来た護衛の中間がくぐり戸を閉めると、甚四郎はなにやら異世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。


 ――大きなお屋敷だなぁ


 八幡町でもここまで立派な屋敷は見たことがない。ざっかけない庶民の居酒屋とこのような立派なお屋敷が同居する江戸という町の懐の深さに、甚四郎はただただ感嘆するばかりだった。


 玄関を上がって奥に進むと、やがて老人が布団に身を横たえている一室に通された。


「おお、昨晩は申し訳ありませんでしたな。昨日の今日ゆえ、このような姿で失礼いたします。おかげ様で自宅に戻ることが出来ました。ありがとうございます」


 横になったままの非礼を詫びると、老人は目だけで一礼した。


「いえ、私は何もしてはおりませぬ。医者の先生が対応して下さったからこそでございますよ」

「いやいや、あのまま倒れておれば、今頃は仏様の許に参る事になっておったやもしれませぬ。お手前が肩を貸して下さったからこそです」


 そう言って老人は重ねて礼を言った。


 老人は、黒木屋五兵衛と名乗った。


「黒木屋さん……では、本両替仲間の……」

「ええ。今は息子に店を譲り、ご覧の通り孫とのんびり過ごす隠居の爺でございます」


 そう言うと、後ろでニコニコと春が微笑む。老人の素性を聞いて春の育ちの良さそうな出で立ちにも納得がいった。

 本両替仲間とは、金貨と銀貨を交換する両替商達による独占組織で、巨大な資本力と信用力を持つ大商人だ。なまなかな商人では、当主はおろか番頭格に会う事すら難しいほどの大物だ。本来ならば、甚四郎のような一介の手代が口を聞ける相手では無い。


「何にせよ、大事に至らずにようございました」

「甚四郎殿のおかげですよ。ところで、医者の先生から伺ったのですが、何でも山形屋さんで奉公なさっておられるとか」

「はい。今年の春に手代に昇格いたしました。自分の事もまだまだ満足に出来ぬ半人前です」


 甚四郎は苦笑いをしながら頭を掻いた。胸を張って自慢できるものではないが、だからと言って見栄を張っても始まらない。


「ふむ。これも何かの御縁だ。私共は本業の両替とは別に貸家も何軒か持っております。

 山形屋さんと言えば畳表を扱っておられたはず。よろしければ今後私の貸家の畳替えをお願いしたいのですが」

「本当ですか!」


 思わず歓声を上げてしまった後で、はっと口をふさいだ。助けたのは下心があっての事ではないが、もしかして卑しい目をしてはいなかったかと心配になった。

 五兵衛は別段気にした様子もなく、穏やかに笑っている。


 ――これはとんでもない商談が舞い込んできた。


 甚四郎の胸は期せずして高鳴った。


 五兵衛に無理をさせてはいけないので、甚四郎は早々に屋敷を辞した。詳細は後日使いを出すから、その者から聞き取って欲しいとのことだった。


「本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いしますね」


 そう言って見送りに来た春が再び頭を下げる。


「いえ、こちらこそ、気を使っていただき申し訳なく思っております」

「うふふ。甚四郎さんって本当に欲の無いお方なんですね。我が家に来られる商人の方は、どなたもギラギラとした目をしてらして、正直ちょっと苦手というか……。その点、甚四郎さんは穏やかで真っすぐな目をしておられて、とても素敵だと思いますわ」


 十六歳のうら若いお嬢様に素敵と言われて甚四郎も悪い気はしなかった。だが、一皮むけば甚四郎とて欲はあるし、最初から商談をするつもりなら自分もギラついた目をしていた事だろうと思う。

 全てはただ幸運なだけだ。


「また是非いらしてください」


 そう言って春はニッコリとほほ笑んだ。


 黒木邸を辞した甚四郎は、微笑む春の姿を思い出しながら夢見心地で歩いていた。可憐という言葉がぴったりだと思う。まさに深窓の令嬢というやつだろう。

 若干鼻の下を伸ばしながら歩いていると、途中で下駄の鼻緒が切れた。修理するために俯いて足元に手をやる。と、不意に胸元からお守りが地面に落ちた。


 ――いかんな


 お守りを見てはっとした。江戸へは遊びに来ているんじゃない。『怠けたらあかんよ』という多恵の声が聞こえた気がした。

 浮ついた心を引き締めるように自分の頬を両手で叩くと、お守りを拾って大切に仕舞いこむ。立ち上がった時には、いつもの甚四郎に戻っていた。


 店に戻って嘉兵衛に報告すると、嘉兵衛は帳場の中で相好を崩した。


「ほお。何かの商売にはつながると思ったが、とんだ大物がかかったものだな」

「ええ?じゃあ、嘉兵衛さんは予想していたのですか?」

「もちろんだ。商人に礼を言いたいと言って招くという事は、必然的にそうなる」


 ――見通したうえで許可をくれたのか


 今更ながら、嘉兵衛の経験値に感嘆するばかりだった。もっとも、初めからそうと知って行っていれば、また結果は違っただろうと思う。春の言う通り、ギラついた目をした商人など五兵衛は見飽きているはずだ。

 あえて何も知らせずに行かせた嘉兵衛の慧眼にも驚くばかりだった。


「その使いの方が来たら俺を呼べ。あくまで甚四郎のお客だが、粗相の無いように俺が裏から手配を教える。しっかりこなせばお前の評価にしてやるから、励めよ」

「はい!ありがとうございます!」

「だが、それ以外は外出禁止だ。ケジメはしっかりと付けてもらう」

「………はい」


 こんな時こそ酒が飲みたいと思ったが、言われる通り我慢した。

 何より、全てが上手く行ってから飲む酒の方が旨いだろうと思いなおした。


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