お茶出しの妙
朝食が終わるといよいよ暖簾を出し、この日の営業を始める。大杉町の一角にある山形屋は、八幡堀沿いに店と蔵を並べ、八幡町の碁盤状の町割りの一番上座の位置を占めていた。通りを見渡すと魚屋町通りが正面に見え、右手に見える新町通りでは扇屋や大文字屋も同じように暖簾を出し始めていた。
「今日はぎょうさんの荷物を船に積んで出荷するさけ、甚四郎は茂七を手伝って荷積をやってくれ」
「へえい」
甚四郎は番頭の利右衛門の指示に従って商品の品出しを手伝いに行った。堀側の裏庭では茂七が明細を片手に商品の数を数えている。
「茂七さん。番頭さんからこっちを手伝えと言われました」
「お、そうか。ほな俺が数えるやつを掘に繋いだ船に乗せて行ってくれるか」
「へえい」
いつもの間延びした返事と共に、甚四郎は早速荷積みを始めた。
茂七は今年十七歳になる。
あばた顔ののっぺりとした顔つきの少年だったが、甚四郎たち年下の丁稚を可愛がってくれたし、理不尽な事は決して言わなかった。もっとも、手抜きをすればすぐにバレてしまい、その時はキツイ拳骨をくらった。丁稚の中には生真面目な茂七を煙たがる者も居たが、甚四郎はそうした茂七の仕事ぶりを好ましく思っていた。
「蚊帳を二百反、畳表が五十枚。数を勘定し終わったやつはこっちに分けとくさかい、こっちにおいてある奴をドンドン運んでいってくれ」
「たくさんありますねぇ」
「それだけ江戸で良く売れてるいうことや。商売繁盛で結構な事やないか」
それもそうだなと単純に納得し、甚四郎はせっせと立ち働いた。
蚊帳十反をひとまとめにして縄で縛り、それを肩に担ぐ。ずっしりと重みが肩にかかり、たちまち汗が噴き出した。周りにはがやがやとお客様と店の手代達の話す声に混じって、夏らしい蝉の声が聞こえてきていた。
「よし。ご苦労さん。あとは番頭さんに送り状をもらって来るから、ちょっと休憩やな」
休憩と聞いた瞬間、甚四郎は盛大に息を吐いてその場にへたりこんだ。
既に体中汗みずくになっている。
「はぁっ、疲れた」
「はははっ。多恵ちゃんに水もらって一休みしとき」
「へい」
茂七に言われた通り、甚四郎は厨に行って多恵を探した。
幸い、多恵は勝手口から一番近い流し台で洗い物の最中だった。
「多恵ちゃん。水一杯おくれ」
「はいはい。あら、ようけ汗かいて」
そう言うと多恵が腰に刺した手ぬぐいを抜いて、汗を拭ってくれた。
「ふぅ。生き返るわ」
多恵は”ふふふ”と笑うと、水瓶からもう一杯水を汲んで差し出してくれた。
「もう飲んだけど?」
「阿呆。それは茂七さんの分や。喉乾いてるはずやから、持って行っておあげ」
ああ、そうかと思い、多恵の気配りに感心する。多恵は甚四郎より二歳年上の十二歳だったが、しっかり者と評判で丁稚や手代から人気が高かった。
多恵から受け取った茶碗には水がなみなみと入っている。こぼさないように慎重に裏庭に持って行くと、ちょうど茂七も出荷が済んで一休みしている所だった。
「茂七さん。水もらってきました」
「お、ありがとう。多恵ちゃんから持たされたんやな」
「わかりますか」
「ああ。甚四郎にはまだこんな気配りは無いやろうしな」
すっかり見破られてしまっていることに一抹の恥ずかしさを覚えたが、笑っている茂七に抗議の声を上げる気にはならなかった。事実なのだから、抗議のしようもない。
やがて茂七が茶碗の水を飲み干すと、休憩は終わりとなった。初夏の陽気は容赦なく甚四郎の頭上に降り注ぎ、汗がひくどころか体中にじっとりとした暑さがこもって来ている。
蝉の声が益々大きくなってきていた。
「昼飯までにはまだ少し時間があるな。ちょうどええから、お茶出しの練習しよか」
「へい」
甚四郎は茂七に付き添われてお茶所へ行った。山形屋には大勢のお客が来るが、お客のランクによってもてなす方法が違った。
お客のランクを表すのには独特の符牒を用いた。最上級の客は天皇家の『菊』と呼び、その次が藤原氏の『藤』、橘氏の『蜜柑』、源氏の『竜胆』、平氏の『揚羽』と続き、一番下が豊臣の『桐』だった。徳川の葵はさすがに大問題になりかねないので遠慮していた。
菊の客には店主自ら接待し、場所も西町の上等の茶屋を使う。主に徳川御三家の使者や京の公家、江戸・大坂の大商人の店主が『菊』に位置した。
藤や蜜柑の客には店主自ら接待することは滅多に無く、ほとんどは店の番頭が対応する。
山形屋には三人の番頭が居て、一番格上の番頭が先ほど甚四郎に指示を出した利右衛門だ。
竜胆以下の客は茶屋ではなく店の座敷で接待する。そして、竜胆と揚羽の客にはお茶とお菓子が振る舞われ、桐の客にはお茶だけという決まりだ。
お茶出しは丁稚の重要な仕事の一つで、万に一つも粗相があってはいけない。その為、お茶出しを務めるのはしっかりと訓練された者に限られた。当然、甚四郎はまだお茶出しをさせてもらったことは無い。
「お湯の熱さはこれくらいや。熱すぎても温すぎてもいかんから、きちんと肌で覚えや」
出されたお湯を軽く口に含む。
夏の熱さ故に随分とぬるく感じるが、これが程よいお茶の温度というものなのだろうか。お茶などろくに飲んだ事のない甚四郎にはよくわからなかった。
「一回自分で熱さを調節してみ」
「へい」
見よう見真似で釜から湯を注ぎ、水を足して調節する。
「アカン。温すぎる。もうちょっと湯の熱さを確認してからやった方がええな」
――難しいもんやな
お茶出しをまともに出来ない者はそれ以上の事を教えてはもらえない。ここが頑張りどころと甚四郎は何度も熱さを確認した。
「うん。これくらいやな。これでお茶を淹れるとちょうどええ熱さになる」
茂七の指導を受けていると先輩丁稚の平太がお茶所へやって来た。
「ちょっとお茶淹れさせてもろてええか?」
「おお、平太か。ちょうどええさけ、甚四郎にお茶淹れさせてやってくれ。おい、甚四郎。一回お茶淹れてみ」
「ええ!?いいんですか?」
「はよやらんか。やらんといつまでもお茶出し出来るようにならんぞ」
「へえぃ…」
先ほどのお湯の熱さを思い出しながら温度を調節し、大きな茶碗に茶葉を入れて湯を注ぎ、しばらく待ってからそれを小ぶりの客用の茶碗に移す
蓋で茶葉が漏れ出るのを抑えながら、丁寧にお茶を注いだ。使う茶葉は日野の茶農家から買い求めた上級品の煎茶で、注ぐと濃い深緑色の液体からふくよかな香りが広がる。香りを逃がさないように茶碗に塗の蓋をかぶせ、茶托に乗せて平太に渡した。
「へえ。ちゃんと出来てるやん」
心配そうに見ていた平太だが、ぎこちなくも正確な手順でお茶を淹れる甚四郎を感心したように見ながら、お茶を受け取って客室へ向かった。
「よし。次は出し方やけど…」
茂七が言いさすと、帳場から番頭さんの“旦那様にお茶を持って行ってくれ”という声が聞こえた。
「ちょうどええ。旦那様にお茶をお出ししてみ」
「ええ!?」
いきなりの事に甚四郎は大げさに驚いた。
店主の利助はあまり怒鳴ったりする性格ではないが、それでも甚四郎にすれば恐ろしい相手と映る。
だが、茂七は容赦なかった。
「阿呆。ええから早うやれ」
「へぇい…」
先ほどの手順に則ってお茶を淹れると、お盆に乗せて奥の店主の私室に向かった。
「すり足で足音を出さんように歩け。本番はお菓子が乗ることもあるから、お盆は左手を底に置いて右手は横で添えるだけや」
――右手は添えるだけ。右手は添えるだけ。
言われたことを心の中で反芻しながら、甚四郎はぎこちなく廊下を進む。まるで体中の関節が無くなってしまったかのような滑稽な所作だった。
「失礼いたします」
茂七が廊下から声を掛けると、中から利助の”入れ”という声がした。
「旦那様。お茶出しの練習として甚四郎にお茶を淹れさせました。所作を見てやって下さいませ」
「ほう。甚四郎がな……ええやろ。見してみ」
利助は相好を崩すと甚四郎の所作をじっくりと見た。
甚四郎は緊張しながら茶托ごと茶碗を文机に運ぶ。カタカタと音を立てながら、それでも大きな失敗はせずに利助の前にお茶を持って行った。
「まだまだぎこちないな。もうちっと流れるように出さなアカンぞ。そうでないとお客様の意識が丁稚の方に向いてしまう。商談の邪魔になってはいかん」
「へい。勉強になります」
「それと、音は出来るだけ立てんようにしろ。音が出るんはあまり品のええもんではない」
「へい」
「明日から毎日、ええと言うまで甚四郎がワシにお茶を出せ。ええな」
「え!?」
突然のことに甚四郎は目の前が暗くなる思いだった。
確かにお茶出しは覚えなければならないが、よりによって利助に毎日お茶出しをするなど緊張でどうにかなってしまいそうだ。
「お前は運がええな。旦那様自ら見て下さるやなんてそうそうない事やぞ。せいぜい褒めてもらえるように精進せいよ」
利助の前を下がると、茂七が笑いながら甚四郎の背を叩いた。有難いとは思いつつも、甚四郎の心はずんと重たくなった。
翌日から甚四郎は毎日利助の居室にお茶を運んだ。利助は時に帳簿を前に難しい顔をしていたが、甚四郎がお茶を出すといつもチラリと目線を向けた。利助曰く、『チラリとも見られなくなったら合格』という事だった。