急病人
結局、甚四郎は二人と別れて帰途に就いた。少々惜しい気もしたが、多恵に嘘を吐くことになるのも心苦しい。何も言わなければ分かりはしないという心の声を押し殺し、ゆっくりとした足取りで日本橋へと向かった。酒で火照った体に夜風が心地よかった。
帰り道、甚四郎は駿河町の角に差し掛かった所で妙な物を見た。提灯の光の先で人らしき影がうずくまっている。
一体こんな夜更けに何事と思いながら声を掛けた。
「もし、どうなされました?」
「うぐぐ。胸が……」
「もし、苦しむのですか?自宅はどちらです?」
「麹町の方の……」
麹町と言えばお城の反対側だ。麹町に住んでいる人が一体何故こんな所にと思いながら、甚四郎は男をつぶさに観察した。
身なりは悪くない。小銀杏を結っているところから、武士ではなく町人なのだろう。年は五十を超えて六十に近くなっていそうだった。頭髪が黒より白が多くなっており、商家の御隠居という風情だ。
「肩につかまって下さい。歩けますか?」
「うっ……」
老人は胸を抑えながら甚四郎の肩につかまり、苦しそうな足取りで共に歩き出した。
一歩ずつゆっくりと歩を進めるが、日本橋の手前に来た所でとうとう歩けなくなって再び老人がうずくまった。甚四郎は確かこの近くに医者の家があったと思い出し、老人の側に提灯を置くと暗闇の中を走った。
やがて一軒の家の前に着くと、ドンドンドンと戸を叩いた。
既に眠っているかもしれないと不安に駆られながら、必死に戸を叩いた。
しばらくすると門内に明かり灯るのが見えた。どうやら家人が出て来てくれたようだ。
「どなたですか?こんな夜更けに」
くぐり戸の内側からくぐもった声がする。若い女の声だ。
夜は物騒なので警戒されているのだろうが、こちらも緊急事態だ。甚四郎はくぐり戸に向かって声を張り上げた。
「急病人です。胸を抑えてうずくまっています。至急先生に診ていただけませんか?」
「そこにおられるのですか?」
「日本橋の手前で動けなくなっています。すぐそこですので、どうか先生にお取次ぎください」
そう言うと、パタパタという音がして光が遠ざかった。
蒸し暑い夜にも関わらず、虫の鳴く声が辺りに響く。もうすぐ秋が来るなと場違いな思いに浸っていると、やがて光が戻って来てくぐり戸が内側から開き、医者らしき老齢の男が顔を出した。
「急病人と聞いたが、どこかね?」
「日本橋の近くです。動けなくなっています」
「わかった。案内してくれ」
そう言うと、医者は提灯を持って甚四郎の後を付いて来た。
医者を連れて老人の元に戻ると、老人は既に意識を失い、うつ伏せになって倒れ込んでいた。医者が素早く脈を取ると、甚四郎に向かって頷く。
「すぐに診療所に運ぼう。お若いの、背負ってくれるか」
「はい」
甚四郎は奇妙な成り行きに戸惑いながら、老人を背に負った。医者が二本の提灯を持って先を歩き、足元を照らしてくれる。
診療所の寝台に老人を寝かすと、燭台に火を入れて医者が老人の目や口を開いて様子を観察した。
「先生。この人は大丈夫でしょうか?」
「気息はしっかりしているが、脈がちと細くなっておる。何やら持病を持っているのだろう。とりあえずはこのまま休ませて様子を見るしかない。心の臓に病を抱えておらねば良いが……」
そう言うと、医者は自分の坊主頭を掻きながら、大きくのけ反ってため息を吐いた。
「あんたの身内かね?」
目だけを甚四郎の方に向けて医者が労わるように聞いた。
「いえ、先ほど小伝馬町から帰る途中に道端にうずくまっていたので……。家は麹町の方だと言っていました」
「そうか。ともあれ、患者が目覚めるのを待つしかない。今夜は私が様子を見るから、あんたはもう帰りなさい」
「よろしくお願いします」
甚四郎が医者に頭を下げて腰を上げると、再び医者から声が掛かった。
「待ちなさい。あんたの名前と住んでいる所を教えてもらっておこう。もしもこのままこの人が目覚めなければ、あんたにも奉行所への届けに手を貸してもらわねばならん」
ああ、そういう事もあり得るかと思い、甚四郎は紙と筆を借りて名前をしたためた。
「中村甚四郎です。住まいは橋を渡った向かい側の山形屋です。住み込みで働いています」
「わかった」
もう一度頭を下げると、甚四郎は今度こそ医者の家を出て山形屋へ足を向けた。
――やれやれ。
しばらくは外出禁止になるかもしれない。門限破りは重大な規則違反だ。
手代になればある程度外出も認められるが、それは規則をきちんと守るという信頼の上で成り立っている。店としても規則を破った者には厳しい態度で臨まなければならない。
予想通り門限破りとなってしまった甚四郎は、罰として一カ月の外出禁止を申し渡された。いつの間に帰ったのか、茂七と平太は要領よく門限までに戻っていたらしい。
しばらく夜遊びはできないが、甚四郎はあまり頓着せずに翌日も仕事についた。確かに楽しい体験だったが、だからと言ってはまり込むようなことは無かった。