初めての経験
甚四郎が茂七と平太に連れられた先は、日本橋を渡って駿河町の角を曲がり、小伝馬町の旅籠が多く軒を連ねるあたりだった。先輩二人は慣れた様子で一軒の小さな店の暖簾をくぐる。
提灯には『とと屋』という店名が書かれてあった。常連なのだろうか。いつもの店という感じで、迷う素振りが全くなかった。
甚四郎も続けて中に入る。
店はいわゆるざっかけない縄のれんの居酒屋で、おでんなどの煮物や煮魚、小料理と共に酒が飲めるようになっていた。入ってすぐの脇には大きな魚が何匹か梁から下ろした紐で吊るしてあり、客からの注文でさばいているようだった。
時間が遅めなこともあって店内は混雑しており、夏の蒸し暑さと相まって人いきれでムンムンと熱気が漂っている。あちこちで料理を運びながら酌をして回る女中らしき女が歩き回っていて、それが余計に賑わいを演出していた。
「甚四郎。こっちだ」
奥の小部屋を確保した茂七が声を掛ける。
入口すぐの客席には仕切りは無く、十畳ほどの広間に衝立が何枚か隅の方に置かれているだけだ。どうやら客が銘々で自分たちの場所を確保する仕組みのようだ。
甚四郎は物珍しさにキョロキョロしながら三和土を通って小部屋に入る。やがて膳を持った女中がやって来て、空の膳と箸だけを置いていった。
「甚四郎は何か食いたいモンはあるか?」
「いや、平太さんにお任せします」
そう言うと、平太が障子から顔を覗かせて三品程の肴と冷やの酒を注文した。
「初めて来ましたが、賑わってますねぇ」
「ここは旅籠から流れて来る客も多いからな。酒とメシが旨いってんで、いつ来ても大繁盛さ」
――八幡町の西町ともまた違うな
甚四郎は内心ほっとしていた。
八幡町の西町は商家の接待に使われるような茶屋が多く、妓を揚げて弦歌を楽しみながら飲む店が数軒ある。その為か、甚四郎には何やらいかがわしい所という印象があった。
もちろん、八幡町の西町にはこうした庶民の居酒屋などもあるのだが、甚四郎はそこまで深く知らない。こうした夜遊びに関してはまだまだ子供のままだった。
さほど待たせる事もなく蛸と芋の煮物と大きなカレイの煮つけ、貝とネギのぬたなどの肴と酒が運ばれてきた。
「茂七っちゃん。久しぶりー。また新しい子連れてきてくれたの?」
妙に馴れ馴れしい調子で女中が茂七に声を掛ける。
「おう、後輩の甚四郎だ。今年に昇格したばっかで初心だから、可愛がってやってくれな」
「よろしく。ご贔屓にしてくださいね」
女中はそう言ってニコリと笑うと、甚四郎に御酌をしてくれた。戸惑いながら杯を受けると、女中は他の二人にも酌をして回り、三人に注ぎ終わると慌ただしく去って行った。
「んじゃ、おつかれさんということで」
茂七の合図で杯を合わせ、皆で同時に干した。口当たりは涼やかだったが、飲み込むと喉の奥に熱いものが込み上げてきてカッと焼けるような感覚になる。
酒が弱い甚四郎は、酒の香りやのど越しというものが今一つ理解できなかった。
「茂七さん。さっきの女中さんは?」
「ああ、名物娘のおしまちゃんだ。気に入ったか?」
確かにおしまは目尻が垂れて柔らかそうな印象の可愛らしい女性だった。
「いや、ずいぶん馴染んでそうだったから……」
「まあ、なんだかんだでここは良く来るからな。顔なじみにもなっちまうってもんさ。今は混んでるから最初の酌だけだが、もうちょっと早い時間に来ると隣に座ってお酌もしてくれるぞ」
「今より早い時間って、仕事中じゃないですか?」
その先を察した甚四郎がジト目で茂七を見ると、茂七もフイっと目を逸らす。
外回り先や店の外で席を設ける商談では、席上で酒が振舞われることもあり、酒を飲んで店に帰る手代や番頭は珍しくはなかった。だが、茂七が酒の匂いをさせて帰って来る時にはそういう時もあったのか。と、妙に得心がいった。
「まあ、これも大事な顧客開拓ってね」
平太が空々しくフォローするところを見ると、どうやら二人共よく来ているのだろう。
「実際、ここで意気投合して俺から蚊帳を買うって言ってくれるお客さんも居るんだぞ」
―――へぇ。
そういう仕事の取り方があるとは知らなかった。
丁稚時代はひたすら手を抜かずに体を動かすことだけが仕事という認識だったが、一見手を抜いているように見えても仕事をしている場合もあるというのは新鮮な驚きだった。
「まあ、とにかく食べよう。ここの煮魚は旨いんだ。甚四郎も食ってみろよ」
茂七がごまかすように肴をつまみ出す。甚四郎も自分の膳に置かれたカレイの煮物に箸を付けた。
口に入れると身がホロリとほどけ、旨味が口いっぱいに広がる。酒に合わせた甘辛い濃厚な味付けで、淡泊なカレイの身によく味が染みて旨かった。
二口、三口と食べると飯が欲しくなる。
「そこで、酒を飲むんだよ」
言われた通り酒を飲むと、今までわからなかった酒の旨味が口いっぱいに広がった。
濃厚な煮魚の味でこってりとした口の中を酒がさっぱりと洗い流し、また次の一口が食べたくなる。
――なるほど。
酒とはこうやって飲むものなのだと初めて知った。これなら、大人たちが酒を飲みたがる理由も分からなくはない。
「きゅーっときますね。旨いです」
「そうだろう?お前も酒を飲めるようにならんとな」
そういって笑った後、茂七と平太はなにやら真面目腐った顔で話し始めた。甚四郎は黙って聞いている。正確に言えば、口を挟む余地が無かった。
「そういえば、八幡町の領主様が朽木様から尾州様に代わるらしいな」
「嘉兵衛さんがそんな事を言ってましたね。株仲間の印形を届け直さないといけなくなるかもしれんとか……」
「また出費が増えれば俺たちの分け前も減るってか。お武家様の都合で俺たちの懐が寂しくなっちゃあたまらんな」
「まあ、やむを得んでしょう。お届けをせずに仲間株が無効になれば、それこそ商売どころではなくなります。それに、運上に冥加にと、物入りなのは江戸でも変わりませんしね」
「ああ、世知辛い世の中だなぁ」
甚四郎は大人二人の会話に参加することができなかった。そもそも何を言っているのかサッパリ分からない。商人の世界とは、甚四郎が思っていた以上に複雑に出来ているらしいことだけは理解した。
それにしても、先輩二人の物に慣れた会話には驚かされた。今の会話にしても、今までの甚四郎には聞いた事もない話が飛び交っている。
不真面目だと思っていた二人だが、その実甚四郎よりもはるか高い場所で仕事をしていることを思い知らされた。
半刻ほど酒と肴を堪能し、三人とも程よく酔いが回った所で店を出た。
「俺たちはこれから両国へ繰り出すけど、甚四郎はどうする?」
「両国には何があるんですか?」
「俺たちみたいなやもめの楽園てやつさ」
好色そうな眼つきでだらしなく口を緩ませた茂七がニヤニヤと笑う。つまり、両国とはそういう場所だった。
――ここまで来てみて、本当に為になった
心からそう思った。何事も体験してみなければ分からないものだとつくづく思う。こうなれば、最後まで勉強させてもらうのも一人前の商人になる為の修行かもしれない。
多恵に対する罪悪感とこの先に待つ物への好奇心とで、甚四郎の心が再び大きく揺らいでいた。