三ツ割銀
手代勤務も三カ月が経ち、ようやく手代としての接客に慣れて来た頃、甚四郎は先輩の茂七が同じく先輩手代の平太と共にそわそわと落ち着かない日々を過ごしていることに気付いた。
「随分そわそわして、何かあったんですか?」
「何ってお前……あ、そうか。甚四郎は初めてだったな」
「何がです?」
「割り銀だよ割り銀。つってもわからねぇか」
茂七はもどかしそうにしているが、甚四郎は『割り銀』と言われても何のことかさっぱり分からなかった。
「山形屋は半期ごとに嘉兵衛さんが江戸各店の成績を本店まで出向いて旦那様に報告しているのは知ってるよな?」
「はい、それは。何度か留守にされてましたし」
山形屋では、江戸支店の営業成績を半期ごとに報告させ、本店で一括して帳簿を整備していた。いわゆる決算書に当たる物だ。
「それで、半期ごとの儲けの三分の一を俺ら奉公人に分けて下さるんだよ」
「ええ? でも俺は一度も貰ったことはありませんけど……」
「手代以上の者がもらえるんだ。丁稚の内は出ないんだよ」
そう聞いて甚四郎も思わず前のめりになる。給銀は二の次などと格好をつけてみても、やはりカネを貰えるのは嬉しい物だ。
「お前も今年から貰えると思うぞ。割り銀が出たらいっちょ遊びに行くかと話してたところなんだ」
「へえ……」
山形屋では奉公人の勤労意欲を高めるために三ツ割銀という賞与の制度を導入していた。通常の給銀は店に積立になるが、三ツ割銀はそのまま現金支給なので、茂七のような遊びにも手を抜かないタイプにはありがたい収入源となる。それを目当てに仕事に精を出すのなら、店としては狙い通りと言えるだろう。
「他人事みたいな顔してんなよ。割り銀が出たらお前も連れて行ってやるから」
「いや、俺はいいですよ」
今まで外で遊ぶという習慣が無かった甚四郎は、茂七と平太にそう言われても乗る気になれなかった。だが、茂七と平太は顔を見合わせてニヤリと笑う。あまり良くないことを企んでいる時の顔だ。
「遠慮すんなよ甚四郎。いいからちょっとくらい付き合えって」
「でも、酒飲むんでしょう? 酒はちょっと苦手で……」
「別家を目指すなら酒くらい飲めなくてどうするよ。お客様を茶屋でもてなすときに『酒は飲めません』とでも言う気か?」
平太が訳知り顔で攻め込んでくる。妙に説得力があって断りにくい雰囲気があった。
「……じゃあ、せっかくなんで一度だけ」
「はっはっは。一度行けば、何度でも行きたくなるさ」
平太の口ぶりからは何やらいかがわしい響きが見え隠れする。甚四郎は無意識に胸のお守りを握っていた。とはいえ、甚四郎も男なので決してそういうことに興味が無いわけではない。
好奇心と罪悪感の狭間で、甚四郎の心は波間に揺れる小舟の如く翻弄されていた。
それから一月後、留守にしていた嘉兵衛が本店から戻り、店員たちに割り銀が配られた。
「無駄遣いはするなよ」
「酒を飲みすぎるなよ」
「女にばかり使っててはいかんぞ」
手代以上の者一人一人に一言添えながら、嘉兵衛が順番に配っていく。そしていよいよ甚四郎の番が回って来た。
「甚四郎は初めてだな。遊ぶなとは言わんが、ほどほどにな」
「へい。ありがとうございます」
懐紙の中の硬い感触を手で確かめながら、甚四郎は大切に懐に仕舞った。
やはり日々の仕事の成果を分けてもらえるというのは嬉しいものだ。茂七ではないが、その為に仕事に精を出そうという気持ちにもなる。
宿舎に戻ると銘々が羽根を伸ばしに出かけた。家庭持ちの番頭格は宿舎住まいではなく自宅があり、妻子も居る身なのでそそくさと家に戻るが、独身手代達は上機嫌で夜の江戸に繰り出していった。
「よし、じゃあ行くか」
いざ出陣といった風情で茂七と平太に肩を掴まれて連行される。甚四郎は少し及び腰になったが、それでも覚悟を決めて自分の足で茂七達について行った。
店を出る時、薄明りの中でまだ嘉兵衛が難しい顔をして帳場に座っているのが見えた。
――まだ仕事してるのか
夜遅くまで仕事を続ける嘉兵衛の姿を見ると、甚四郎は自分達が遊びに行くのが申し訳ないような気になった。
やはり遊びに行くのはやめようかと思いながら帳場の方に顔を向けていると、茂七から声が掛かる。
「どこ見てるんだよ?」
「いや、帳場にまだ明かりがあったんで……。嘉兵衛さんまだ仕事してるのかなって」
「ああ、嘉兵衛さんが見てるのは引札(広告チラシ)だろう。ああ見えて芝居が好きで、割り銀が出るといつも見に行く演目をああやって吟味してるから」
ズルっと甚四郎の足から力が抜ける。
それぞれに賞与の使い道を考えるのも、年に二回の楽しみだった。