規則
一月の休暇はあっという間に過ぎ、江戸に戻った甚四郎は月代を落として元服した。
「長らくお休みをいただきましてありがとうございます。また今日からよろしくお願いします」
「ほう、馬子にも衣装とは良く言ったものだ」
そう言って嘉兵衛がカッカッカッと笑った。甚四郎は髷を小銀杏に改め、頂いたお仕着せ代を使って木綿の小袖を新調していた。
帯は本家で頂いた帯を締め、前掛けもエプロンのような胸掛けから腰掛けに変わっている。
「早速だが、今日から手代として働いてもらう。まずは店内の接客だ。山形屋の商品はもう頭に入っているだろうから、それをお客様にお勧めしていけ」
「へい!」
甚四郎はまず蚊帳の担当となった。
先述のように山形屋では蚊帳・畳表・弓を扱っているが、畳表は一度に商う数が多く値が張るので、新人にはいささか荷が重い。弓は主な客層が武士なので、これも粗相が無いように経験を積んだ手代や番頭に任された。
その為、新たに手代となった者は、まず蚊帳売りから始めるのが常だった。
店内に“蚊帳のお客様です”という伊助の声が響くと、嘉兵衛は早速甚四郎に接客役を申しつけた。
客は威勢の良さそうな三十がらみの男だ。
「いらっしゃいませ」
「蚊帳をもらいたいんだがね」
客が上がり框に尻を半分載せ、懐から煙管を取り出した。横から伊助がすかさず煙草盆を用意する。この辺りはさすがに手慣れたものだ。
甚四郎はまずお客の様子をそれとなく観察した。お客は大工だろうか。ねじり鉢巻きに法被を纏い、ざっかけない口調をしているが、手に持った煙管は総銀製の艶やかな色合いで、煙管入れも漆塗りに螺鈿細工を施した凝った造りだった。それなりの収入があるのだろうと察した。
「ありがとうございます。寸法はどう仕立てましょうか?」
「いやあ、それがさ。ウチのガキが昨夜蚊帳を破っちまいやがってね。風呂敷をかぶるわけにもいかねぇしな」
「では、明日にはお渡しせねばなりませんね」
「おう、そうそう」
そう言って客と笑い合った。この頃の川柳に『風呂敷を かぶった明日に 蚊帳を出し』というものがあった。蚊帳を質入れし、風呂敷を蚊帳代わりにかぶって我慢しようとするが、蚊の攻撃に耐えきれず翌日には無理算段して質屋から出してくるという洒落だ。
甚四郎の返しは洒落と粋を愛する江戸っ子の眼鏡に適ったようだ。
「では、お仕立ては奥行きが一間二尺、幅が八尺で、高さも八尺ですね。明日には仕立上げておきます。急ぎになりますので、少々お代は高くなりますが……」
「なに、かまいやしねぇよ。代金は前払いでいいかい?」
――えらく景気がいいな
現金販売どころか月末までツケておいてくれと言って来る客の方が多いご時世だ。前払いで、というのは珍しい。
甚四郎は改めてお客の様子を観察したが、特に不審な所はないように思う。掛売で焦げ付きを作ると大問題だが、先に頂く分には問題ないはずだと判断した。
一拍の思考の後、甚四郎はニコリと笑った。
「ええ、ありがとうございます。お代は一分になります」
「あいよ。それじゃ、これで頼まあ」
そう言うとお客は一分金貨を財布から取り出した。庶民の使う通貨はもっぱら銭が多く、金貨などはそうそう庶民の手には入らない。財布から何気なく一分金を取り出すあたり、やはり景気の良いお客のようだと改めて思った。
甚四郎がそんなことを考えている間に、お客は金を置くとさっさと行ってしまった。
「あ、お客様! 預かり証を……」
慌てて店先まで追いかけるが、既にお客は日本橋の雑踏の中に紛れてしまっていた。仕方がないので事の次第を嘉兵衛に報告すると、嘉兵衛は目を剥いて怒りだした。
「何をやっとる!先にお代を頂くなどもっての外だ!店先売は現金販売、行商売は掛売がウチの決まり事だ!」
想定外の嘉兵衛の怒りに、甚四郎は思わず目をパチクリさせて固まった。確かに店の規則から外れているが、問題があるとは思えない。
だが、続く嘉兵衛の言葉にぶん殴られたような衝撃を受けた。
「良いか。我ら近江の商人は江戸ではことのほか嫌われておる。カネだけ払って品物を貰えなかったなどと噂が立てば、一体どれほどの風評になるか……」
――しまった!
甚四郎は旅の途中で利助から聞かされた話を思い出していた。それは、何代か前の当主の時に、近江の蚊帳売りは天井の無い不良品を売りつけるだの、近江の商人は泥棒商人といった風評が江戸を駆け回ったということだった。
その風評を打ち消すため、当時の奉公人達は並々ならぬ努力を払い続けたという。それでも、今に至るも完全に風評を打ち消すには至っていない。先代達の努力を自分が無にするかもしれないと思うと、甚四郎の膝は思わず震えた。
嘉兵衛は一つため息を吐くと、今度は落ち着いた声で甚四郎に話しかけた。
「仕方ない。お預かりした代金は店勘定とは別で帳場で預かっておく。お前は注文を請けた蚊帳をすぐに仕立てに出せ」
「はい!」
甚四郎は急いで動き出した。店の評判を自分が落とすなどあってはならない不始末だ。
慌てて裏の蔵に向かうと、蔵から蚊帳生地を引っ張り出して仕立て屋に持って走る。仕立てそのものは急いでもらえばその日の夕刻には仕上がる。出来上がったばかりの蚊帳を受け取って、再び嘉兵衛の前に座った。
「申し訳ありませんでした」
甚四郎は飛んで来る算盤の痛みに備えたが、いつまで経っても算盤は降って来ない。代わりに嘉兵衛の太いため息が聞こえた。
「店の決まりにはすべてにおいて理由がある。例え良い取引だと思っても、決まりに外れる場合は必ず番頭格の者に相談しろ。お前はまだまだ半人前だ。外回りを任されるようになって初めて一人前だという事を忘れるな」
「あの……どつかないんですか?」
「どついてほしいのか?」
ブルブルと顔を横に振る。
「丁稚の小僧とは違うということだ。もう体で覚えさせるような年でもなかろう。その分、責任は重いと思えよ」
早く一人前になりたいと念じていたが、いざ一人前として扱われるようになると逆に責任の大きさに肩が重くなる。
甚四郎は初日からやってしまったと落ち込むばかりだった。
「甚四郎。ちと付き合え」
甚四郎が宿舎で落ち込んでいると、茂七がそう声を掛けてくれた。
店を出た茂七は、甚四郎の方を振り返りもせずにぐいぐいと先へ歩いて行く。甚四郎は何も分からないままとりあえず速足で茂七の後をついていった。
「茂七さん。一体どこへ?」
「なに、湯屋にでも行こうと思ってな」
カラコロと下駄の音を響かせながら夜の日本橋を歩く。元気付けようとしてくれているのだろう。甚四郎は茂七の心遣いに涙が出そうになった。
湯屋に着くと、甚四郎はゆっくりと湯に体を馴染ませた。
こうしてのんびり湯に浸かっていると、何故か嫌な事を忘れられるような気がした。隣では茂七が上半身を浴槽から出し、さっきから気楽な調子で軽口を叩いている。
「お前なんかまだマシだよ。自慢じゃないが、俺なんか売掛を焦がしたのは一回や二回じゃきかないもんな」
「そうは言いますが、もし明日あのお客さんが来てくれなかったら、ウチは泥棒と言われかねません」
「ははは。大げさに考えすぎなんだよ。嘉兵衛さんもまさか本当にお客が取りに来ないなんて思ってないさ。まあ、江戸っ子はせっかちなのが多いからな。カネを持ってるうちに払う物は払ってしまえって考える人も居る。きっと明日にはケロっと顔を出すさ」
――そうでなければ困る
もし明日お客が来なければ、江戸中を探し回ってでも品物を届ける覚悟だった。そんな甚四郎の様子を見て、茂七が苦笑する。
「ほれ、そんな深刻な顔してちゃ、来る福も逃げちまうぞ。どうだ? いっちょ二階に上がって覗窓から覗くか?」
江戸時代の湯屋の男湯には二階座敷があり、別料金で休憩できた。二階座敷では囲碁や将棋が楽しまれたが、女湯を覗ける覗窓もあった。
女の方も覗かれる事は承知しており、その分入浴料が安く設定されているなど、女の方に有利な側面もあった。
また、混浴も当たり前に行われている。現代に比べて性的なおおらかさがあった。
だが、甚四郎は茂七の提案には乗らなかった。
「いや、そういうのはちょっと……」
「はっはっは。相変わらず多恵ちゃん一筋か」
からかわれると妙に恥ずかしさが込み上げて来る。元服したとはいえ、まだ十八歳の初心な男だ。一方の茂七は、江戸での遊びにも慣れたものだった。
翌日には昨日のお客を見つけた甚四郎が、鼻息も荒く注文の蚊帳を押し付けるように渡す一幕があった。その大袈裟な行動には茂七も嘉兵衛も苦笑するしかなかった。