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父の背中

 

 祭りの余韻も消え、八幡町にいつもの日常が訪れた翌日。甚四郎は八幡堀から船頭に頼み込んで貨物用の丸子船に乗せてもらい、湖上の人となっていた。

 丸子船を選んだのは途中の宿泊を減らすのが目的だ。旅人用の船に乗るには草津宿から矢橋(やばせ)の渡しまで行く必要があり、一日余計に消費してしまう。


 もちろん、旅客用の船ではないので揺れも大きく、水しぶきも飛んできて快適な船旅といったものではない。それでも、舳先(へさき)に目を向けると湖水の向こうに見える比良山系が近づき、懐かしい故郷を思い出さずにはいられなかった。


 大津に着いた後、そこから西近江路を北へ向かう。湖東地域に比べてこの辺りは山と湖の距離が近いが、その狭い平地に所狭しと家と田畑が続いていた。道行く田んぼでは田の水張りに向けて百姓が田起こしにかかっている。左義長を終えた湖国には、春の気配が濃厚に漂ってきていた。


 峠の辺りに差し掛かると山の方から(うぐいす)の鳴く声が聞こえた。もっとも、鶯が『ホーホケキョ』という見事な歌声を披露するのは卯月の頃まで待たねばならず、今聞こえるのは若鳥が練習している『ゲッゲッ』という貧相な鳴き声だけだ。

 その声を聞くと、甚四郎はなにやら可笑しさが込み上げてきた。


 ――俺と同じや


 早く一人前になりたいと懸命に修行している鶯が、まるで自分の事のように感じられた。甚四郎自身もまだまだ半人前だから、貧相に鳴く鶯の気持ちが良くわかる。そして、早く一人前になりたいという切実な気持ちも。


 峠を超えると急に視界が開ける。七年前に出たっきりの故郷の景色が目の前に広がって、甚四郎の胸一杯に懐かしさがこみ上げた。甚四郎の生まれた辺りは小さな商店や旅籠(はたご)が軒を連ねる小さな宿場町で、甚四郎の生家の中村屋は食料品に加えて生活用品や京の小間物なども扱う、近郷ではそこそこ名の知れた商家だった。


 もっとも、街道をもう一日北に行けば大きな宿場町があり、南に行けば船着き場もある。

 必然、柳町の辺りで足を止める旅人は少ない。その為かどうか、柳町を領する堅崎藩主小舟木家もその懐は寂しいものだという噂だ。


「ただいま」

「おかえり、甚四郎。まあまあ、大きゅうなって…」


 母が待ち構えていたように店先に出て来る。山形屋から事前に文で報せてくれていたので、母は甚四郎が間もなく帰って来るだろうと首を長くして待っていた。


「母上もお健やかなご様子にて、何よりでございます」

「あれまあ、そんな他人行儀な事言うて」


 わざとおどけて慇懃(いんぎん)に挨拶すると、母も笑いながら迎えてくれた。店から帳場に入ると、故郷を出る際に最後に見た時と変わらぬ姿で父が座っていた。


「ただいま戻りました」

「ん。山形屋さんでは勉強させてもらってるか?」

「はい。毎日が学ぶことばかりです」

「そうか。まあ、気張って励め」


 そう言うと、ようやく父も相好を崩した。

 心なしか、父親が一回り小さくなったような気がする。頭も白い物が目立つようになった。幼い時はあれほど恐ろしかった父だったが、今では穏やかに笑っていた。


 夜になると母が嬉しそうに近況を知らせてくれた。夕食の膳には母が腕によりをかけたご馳走が並んでいる。芋がらの煮物にレンコンの酢の物、小鮎の甘露煮。どれもこれも甚四郎が好きだった物ばかりだ。


「甚一はもうすぐお年季明けで戻って来るて。再来年には店を継ぐ言うてたわ。勘治も大坂の枡屋さんで役付(やくつき)手代を任せてもろてる言うてるし、皆それぞれに立派になって行ってうれしいわ」

「姉ちゃんは?そういや見当たらんけど」

「ああ、去年に大溝の甲屋(かぶとや)さんとこの三男さんが貰ってくれはったんよ」


 ――そうか


 実家に戻るとつい十歳の頃の感覚になってしまうが、甚四郎の姉ももう二十歳になっているはずだ。

 姉のすえとは三歳差で、兄二人とは年が離れているので甚四郎は姉と一緒に過ごした時間が一番長かった。長男の甚一と遊んだ記憶はほとんどない。甚四郎が物心ついた時には、甚一はすでに京へ奉公に出ていた。


 父の甚左衛門は家の中では寡黙な性格(たち)で、甚四郎とは碌に言葉を交わさなかった。それでも甚四郎が土産に買って来た煙管(きせる)を手放そうとはしないので、おそらく喜んでくれているのだろうと思った。


「お前ももう元服せなあかんな。いつまでも月代(さかやき)が黒いと落ち着かんやろう」


 今まで黙って煙草をふかしていた父が突然話し出したので、甚四郎は驚いた。甚左衛門の言う通り、甚四郎はまだ角大使(つのたいし)という子供の髪型をしている。

 だが、せめて実家に居る間は子供の頃に戻った気分で居たかった。


「お()ん。せっかくやけど、月代は江戸に戻って落とすわ。お仕着せの小袖も江戸で買わなあかんし」

「そうか……」


 そう言った父の顔は、心なしか寂しそうに見えた。


 それから十日ほど、甚四郎は実家の稼業を手伝った。

 ある日、父が二本差しに武士の装束で小舟木家の陣屋に行くと言って出て行った。幼い時にはそれほど印象に残っていなかったが、父も利助と同じく町人姿と武士姿を使い分けていたのだとその時になって初めて知った。

 下男を供に連れて家を出る父の妙に誇らしそうな背中が、いつまでも印象に残っていた。


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