初登
暦が間もなく三月に入ろうかという頃、江戸から山形屋本店に文が届いた。利助が江戸を発ち、十日ほどで八幡町に戻るという報せだ。
店中が主人の帰りを待ちわびていた。多恵もそわそわと落ち着かない日々が続いた。
もっとも、文には甚四郎を伴って帰ると書かれていたので、多恵が心待ちにしているのは旦那様ではなく甚四郎だろうときぬはからかっていた。
そう言われると、そうなのかもしれないという想いが生まれ、余計に多恵の心は落ち着かないまま数日が経った。
「戻ったぞ」
「おかえりなさいまし」
表で利助の帰着を告げる声と、出迎える利右衛門の太い声が響くのが聞こえた。
多恵はうきうきと浮き立つ心を抑え、表と奥を仕切る板戸の前で利助を出迎える態勢になった。
しばらくして戸が開くと、庄兵衛を先頭に裏方の者が一様に頭を下げた。
「おかえりなさいまし」
「うむ。留守中何事もなかったかな?」
「ええ、ご覧のように皆息災でございます」
「そうか」
庄兵衛が裏方を代表して利助と言葉を交わす。利助が一つ頷いて奥の私室へ向かうと、その後ろから甚四郎が続いて入って来た。
多恵がそっと視線を向けると、甚四郎と一瞬目が合った。
一年でずいぶん逞しくなったような気がする。顔立ちも多恵の知る少年のものではなく、ずいぶん大人びた男の顔に思えた。
そう思った瞬間、何故か多恵は急に恥ずかしくなって俯いてしまった。
甚四郎は初登の挨拶があるので、そのまま立ち止まることは無く利助に続いて店主の私室へと向かっていく。以前とは逆に、歩き去った後の甚四郎の後姿を多恵が見つめる形となった。
利助の私室に入った甚四郎は、利助の正面に正座して背筋を伸ばした。
「旦那様。今までありがとうございました」
「うむ。七年間ご苦労やったな。登が明けたら次はいよいよ手代として日本橋店の営業に携わってもらう事になる。一月の間は親元で孝行を尽くすといい」
「はい。今後ともよろしくお願いいたします」
商家の奉公人は年季毎に一旦退職の形で休暇が与えられる。年季まで奉公を続けると、それまでの年限に応じて給銀が支給された。また、年季が明けた奉公人にはそのまま店を辞めて商売替えをする自由もあった。
引き続き奉公を希望する者は、給銀を『店預け』として帳簿上だけ奉公人に支給されたことにし、現金は店主が預かって運用する形を取る。
店としても商売の運転資金を取り崩す必要がないし、奉公人にしても店に預けておけば運用益を出してもらえるので、双方に利がある福利厚生制度だった。また、勤務途中の無駄遣いを防止する意味合いもある。
無論、預かっているとはいえ給銀は奉公人の物なので、実家への援助など特別な事情がある場合には店主に相談の上で引き出す事も可能だ。
一方、年季で商売替えを希望する者には給銀をそのまま渡される。
奉公人はもらった給銀を次の商売の初期投資に充てるのだが、退役登まで勤めてのれん分けを受ける場合を除いて、同じ商売を営むことは禁止された。
例えば山形屋は蚊帳や畳表などを商っているが、初登で退役して蚊帳行商を始めるといったことは許されなかった。
利助が合図すると、利右衛門が室内に入ってきて帯を一筋と懐紙に包んだ祝儀銀とが甚四郎の前に置かれた。
「それは給銀とは別のワシからの祝儀や。本来日本橋店で受け取るはずやった路用銀も包んである。小遣いにするとええが、くれぐれも無駄遣いはしなさんなよ。賭け事に消すなどもっての外だ」
「はい。心して、大切に使わせて頂きます」
「うむ」
利助は満足そうに頷くと、少し居住まいを崩して気楽な調子になった。
「甚四郎の郷里は堅崎だったな」
「はい。堅崎藩の柳町で米と味噌を商っております」
「堅崎藩はここの所物入りで、中村屋さんも色々と厳しい御用を言いつけられていると聞く。お前が一人前になって助けてくれるのを心待ちにされていよう。元気に勤めを果たしている姿を早くご両親に見せて差し上げるといい」
「お心遣いありがとうございます。折角ですが、数日八幡町に滞在させて頂こうと思います」
「ん?何故だ?」
「町のあちこちに左義長の準備がされているのを見ました。懐かしい左義長を見物してから帰りとうございます」
「ああ、そうか。それはいいな」
利助が思い出したようにポンと膝を打つ。
「だが、休暇中の者を店に居させるわけにもいかん。宿を手配してやるから、そこに滞在するといい」
「いえ、頂いた物で身の丈に合った宿で過ごしたく思います」
利助がほうという顔をした後、利右衛門と顔を見合わてニヤリとした。
「わかった。だが、見物の折には店に来るといい。お前の第二の実家と思ってな」
「はい。重ね重ねお心遣いありがとうございます」
そう言うと甚四郎は再び深く頭を下げてから、利助の私室を辞していった。
残された利助と利右衛門は嬉しそうに語り合う。
「ちょっと見ぬ間に大人になるものよな」
「左様ですな。旅の間にも一回り成長しおったのではないですか?」
「わかるか」
「ええ、おそらく旦那様から厳しくご指導いただいたのではないかと思いまして」
「なに、大した事は言っておらぬ。ただ、我が山形屋のご先代様たちがどのようにして店を保って来られたのかを話して聞かせただけだ」
「それはそれは……。甚四郎には果報なお話でしたな。通常であれば退役登までは知ることは無いお話でしょう」
利右衛門が楽しそうな顔で笑った。
利右衛門は既に退役登を済ませ、その気になればいつでも独立できる立場だった。だが、利助から特に請われて後進の育成のために店に残り、通いで出勤する『出勤別家』という立場になっている。
これは現代で言えば取締役ともいうべき役員待遇で、雇われの身ではあっても店の経営方針や本家の家督相続にすら口出しする権利を与えられている重役身分だ。
商家の奉公人としては、最高位の身分と言えた。