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多恵

 

 近江の八幡町では、ここの所老人(おとな)がやれ江戸の奉行所に訴えにいくだの、やれ朽木様にお願いに行くだの、何かと騒がしかったが、その騒ぎも一応収まり、例年通り左義長の準備を始めていた。


 十九歳になった多恵は、周囲の老人が寄り集まってはああでもないこうでもないと議論をしているのを横目に、変わらず下女として女中奉公に励んでいた。


「おきぬさん。ウチ洗濯しに行ってきますね」

「ああ、お願い。洗い物が終わったら私も手伝いに行くし」

「はい」


 多恵は小袖の裾を端折(はしょ)って手ぬぐいを頭からかぶると、流しの横から大きな木製のたらいを取り出し、たらいの上に奉公人たちの汚れ物をまとめて乗せた。


「あ~あ。こんなに汚しはってから……」


 呟いてため息を一つ吐くと、洗い物の入ったたらいを屋敷裏手に切った排水路まで抱えていく。たらいを置くと、今度は井戸まで行って桶に水を汲んで戻った。

 水が満杯になった桶はそれなりに重量があるが、多恵は手慣れた様子でたらいの所まで運んだ。洗剤代わりの灰を洗い物に振りかけると、たらいに水を張ってその上に素足で乗った。

 水の冷たさに思わずきゅっと手を握ったが、しばらくするといつものように冷たさにも慣れてきた。足踏みをしながら足裏で丁寧に着物を踏み込み、丹念に汚れを落としていく。


 多恵が洗濯物を踏み込むと、たちまちたらいの中の水が真っ黒になった。

 一度水を排水路に流し、もう一度灰と水をたらいに入れて再び足でもみ込む。たらいの上で足踏みをしながら、多恵はぼおっと考え事をしていた。


 ――旦那様が江戸へ行かれてもうすぐ二か月か……


 多恵はここの所の騒ぎに心を痛め、何もできない自分の身を恨めしく思っていた。

 詳しい話はよくわからないが、大人たちが話しているのを聞きかじったところでは、『八幡町の危機』だとかの不穏な言葉が聞こえてくる。

 利助が急遽江戸に行くと言い出したのもそれが原因ではないかと思った。


 ――ウチを拾って下さった旦那様に、何か御恩返しが出来たらええんやけど……


 多恵は八幡近郷の白王村の出身だったが、多恵が六歳の頃に近江一帯を飢饉が襲った。両親は自分の耕作地を持たず、地主から土地を借りて耕す水呑百姓(みずのみびゃくしょう)で、飢饉の折りには少ない蓄えを切り崩しながら幼い多恵たち兄妹を食わしてくれていた。


 幼い多恵も兄と共に長命寺の山に入って山菜を集めたりしていたが、飢饉が三年ほど続いた時にとうとう両親も力尽きて多恵を女中奉公に出すことにした。

 そして、多恵はよく村に出入りしていた行商の薬売りに連れられ、石部宿に向かった。


 十五を超えて世の中の事が多少わかるようになると、両親の言う女中奉公が遊女屋への奉公だという事が朧気に理解できた。つまり、出入りの行商人は薬屋は表の顔で、裏では困窮した百姓から器量のよさそうな娘を買い受ける女衒(ぜげん)だった。


 石部宿で茶屋の奉公娘として売り飛ばされた多恵は、まだ年端がいかないので客を取る事はなく、二年間そこで風呂の掃除や『見習い』と言う名の理不尽な雑用といった辛い奉公に耐えていたが、ある時立ち寄った利助の目にとまって身を請け出された。


 今でも多恵は何故利助が身を請けてくれたのかわからない。

 だが、とにもかくにもそれ以降は山形屋で住み込みで奉公する事になった。


 山形屋での暮らしは石部宿の茶屋とは月とすっぽんほどの違いがあった。何よりも飢饉の最中にあっても三度の食事はきちんと食べさせてもらえた。

 奉公に手抜きは許されなかったが、理不尽に怒られることはなかったし、怒られた時は自分でも悪い事をしたと自覚があるので素直に頭も下げられた。


 多恵の身の上話を聞いた利助はわざわざ白王村の実家を訪ねてくれたが、その時には既に実家はもぬけの殻だったらしい。利助が村の庄屋に話を聞くと、多恵を売り飛ばしてすぐに両親自身の生活も立ち行かなくなり、多恵の兄や弟も連れて大坂へ行くと言って村を出たそうだ。その後の行方は追いかけようがなかった。

 それ以降、多恵には帰るべき実家はなく、利助が父代わりとして面倒を見てくれていた。


「多恵ちゃん。ありがとう。洗い終わったやつすすぐから、こっち回して」


 急に声を掛けられた多恵は一瞬驚いた顔をしたが、きぬが空のたらいを抱えているのを見てすぐに言われたことを理解した。洗い終わった洗濯物をきぬに渡すと、まだ洗っていない次の洗濯物をたらいに入れた。


「おきぬさん。旦那様はいつ江戸からお戻りになるんでしょうか?」

「さあ……。左義長までにはお戻りになるて利右衛門はんが言うてはったけど……。

 あ!そういえば甚ちゃんももうすぐお年季で初登やんな?もしかしたら旦那様とご一緒して帰って来はるかもしれんしねぇ」


 そう言ってきぬはニンマリと笑った。

 きぬは近所の染屋から通い奉公に来ている三十がらみの先輩女中で、多恵が山形屋に引き取られた当初から家事全般を教え、多恵の世話を焼いてくれていた。

 もちろん、多恵と甚四郎の間にある甘酸っぱい空気も敏感に察している。


「そ、そういうのと違って、ほら、なんか町が騒がしいから、旦那様が江戸へ行かはったのもそれと関係があるんかなって心配で……」

「ふぅん……。まあ、そういう事にしとこ」


 きぬにからかわれて、多恵は耳まで真っ赤になって俯いた。

 言われるまでもなく甚四郎がもうすぐ帰って来るのはわかっていた。指折り数えていたと言ってもいい。


 ――まだ一年か


 たった一年だが、甚四郎はどんな風に変わっただろうかと想像すると、多恵の胸は少し高鳴った。

 戻って来てもすぐに江戸へとんぼ返りで奉公を続けるのだが、それでも一目会えるだけで嬉しかった。

 吹く風にも梅の香りが混じるようになり、今年も左義長の季節が近づいていた。


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