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武士と町人


 利助が江戸に来て数日が経った。

 日本橋店や京橋店を日毎に見て回り、営業ぶりを視察していた利助だったが、その日は立派な(かみしも)姿に両刀を差し、髷もいつもの小銀杏ではなく武士の結う大銀杏を結っていた。


「では、行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」


 供を連れて店を出る主人を店員一同で見送った。甚四郎は、まるで武士のような身なりをしている利助を不思議そうに見ていた。


「旦那様は武士でもあるのですか?」


 見送りの後、嘉兵衛にそっと尋ねてみる。武士と見紛うばかりの利助の姿を見ると、聞かずにはいられなかった。


「ああ、我が山形屋はお上の弓御用を務めていることは知ってるだろう?」

「はい」

「それで、旦那様にはお上から苗字と帯刀が許されている。店に居る時は商家の旦那様だが、御城に登る時には一見すると武士と変わらん姿で登城されるのだ」

「なにやらややこしいですねぇ」

「はっはっは。苗字帯刀を許されておるのは何も旦那様だけではないぞ。日本橋を渡った向こうの駿河町の越後屋さんなどは、古くからお上のお召しになる呉服の御用を務めておられ、こちらも苗字帯刀を許されている。

 商人も一廉(ひとかど)の者になれば、見た目は武士と変わらぬという事が多いのだ。それに、八丁堀のご同心方は町方と深く関わる役儀柄、羽織を脱げばまるで町人と変わらぬように身なりを整えておられる。

 武士も町人も結局は同じ人なのだから、見た目に惑わされてはイカンという事だな」


 ――そう言えば


 同じようなことを茂七にも言われた。人を見かけで判断するな、と。実際に身なりを変えた主人を見て、甚四郎は改めてそのことを思い出していた。


 隣で頭を捻る甚四郎を見ながら、嘉兵衛は満足そうな顔をしていた。

 まだまだ至らない所が多いと反省しきりな甚四郎だが、嘉兵衛に言わせれば至らない所に自ら気付けるようになったという事が甚四郎の成長を物語っている。

 このさきモノになるかどうかは分からないが、一つ一つの事に疑問を抱く甚四郎を見て嘉兵衛は若い世代の成長に喜びを覚えているのだろう。


 その後、利助は武士姿と町人姿を使い分ける日々を過ごしていたが、やがて寒さも緩み始めて来た頃になると八幡町への帰路に就く日が近づいた。


 帰りは甚四郎もお供に就く。通常の登は旅費と土産代が所属する店から渡されるのだが、今回は主人と同行という事もあって店からは土産代だけが渡された。旅費は無かった事になったわけではなく、本店に戻ってから改めて支給される手はずになっている。

 要するに片道分の旅費は主人のオゴリで、その分は甚四郎の小遣いにして良いという利助の計らいだった。


「お前はいいなあ。たまたま旦那様のお供で登るから、それだけで丸儲けだ」


 茂七はその話を聞いた時に甚四郎の頭を小突きながら悔しがった


「ほんなら、茂七さんも二番登の時は旦那様とご一緒したらよろしいですやん」

「それはそれだ。俺はそんな気の休まらん旅は御免被る」

「ほおら、その分の気疲れ料ですわ」

「まあ、そう考えればお前も気の毒な立場かも知れんな」


 陰で様々に言われる利助こそ気の毒だった。

 時代が令和だろうが江戸期だろうが、会社のトップというものは裏に回れば部下から愚痴の対象にされるのは変わらない。それが例えどれほど優れた素晴らしい経営者であっても、愚痴一つ言われないトップなどは居ないだろう。

 嘉兵衛を始め茂七や甚四郎達も別段利助に対して含む所があるわけではなく、命令されれば素直に従うし、心から尊敬もしている。

 だが、えてして組織とはそういうモノだった。


 登に向けて休みに入った甚四郎は、店から支給された土産代一両二分を握りしめて京橋周辺の小間物屋を見て回った。

 父親には銀黒の渋い色合いの煙管(きせる)を買った。火皿から吸い口までが一体物で出来た剛健な造りで、記憶に残る父親のイメージにぴったりだった。


 甚四郎の記憶にある父・甚左衛門は、帳場の横に煙草盆(たばこぼん)を置き、折に触れては煙草をふかしていた。

 幼い甚四郎が悪さをすると、帳場の前に座らされたものだ。そして、帳場の中で父の発する言葉は『頭出せ』の一言だ。黙って頭を差し出すと、頭上から煙管が飛んできて目の前に星が飛ぶ。利助にも嘉兵衛にも言わなかったが、利右衛門の算盤よりも、嘉兵衛の算盤よりも、父の煙管が一番痛かった。


 母親には蛤の殻に詰めた紅を買った。

 母は飾り気のない女性だったが、寄合などのよそ行きの用事の時だけ口に紅を引いていたことを覚えている。

 もう実家を出て七年になる。父も母も、すでに利助と同じく五十を超えているはずだ。そう思うと、今まで忘れていた両親の顔が頭の中に浮かんできた。


 両親への土産を買い終えると、甚四郎はもう一つ口紅と赤いギヤマンの飾り玉の付いた玉簪(たまかんざし)を買い求めた。

 日本橋界隈を歩く商家の娘さん達は、何本も鎖が下がりその先に鳥や花の意匠を施したびらびら(かんざし)を挿してカラコロと下駄の音を響かせていたが、何となく多恵には似合わないように思った。

 それよりも、透き通ったギヤマンの輝きは目立たぬ中にも華やかさがあり、多恵に良く似合うと思った。


 土産代を綺麗に使い切った甚四郎は、帰りがけに自分の物を買っていない事に気付いたが、まあいいかと頓着しなかった。


 ――喜んでくれるといいな


 浮き立つ心を抑えながら日本橋店へと戻る甚四郎の後ろから、突如として大きな声が響いた。


「スリだぁ!!」


 振り返ると黒い影が甚四郎の目の前まで迫っていた。


「どけぇ!!」


 黒い影に強引に背中を付き倒されると、甚四郎は腹から地面に倒れ伏した。


「痛てて」


 起き上がった時には、既に男は黒羽織の数名の武士に取り押さえられており、甚四郎と入れ替わるように地面にうつ伏せに倒されて後手を取られている。

 やれやれと思って着物に付いた埃を払うと、甚四郎の手に懐に入れた土産物の固い感触が伝わっていた。


 ――あ!


 慌てて懐から取り出す。今の騒動で土産物が壊れていないか心配だった。

 頑丈そうな煙管は見た目通り傷一つ無かった。二つの貝も無事に見える。最後に簪を見ると、これも傷一つない。

 だが、よく見ると簪についた赤いギヤマンにヒビが入っていた。倒れた時に煙管と地面の間に入ってしまったのだろう。


 思わず怒りの眼差しをスリの男に向ける。男は既に縄をかけられ、同心に引立てられれていた。

 いくら腹の中で毒づいてみても、今更どうしようもない。弁償しろなどと言っても不可能なのは明らかだ。

 甚四郎は、今までの浮き立つ足取りから一転、肩を落としてトボトボと日本橋店に戻って行った。


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