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丁稚の少年

アルファポリス主催の『第八回歴史・時代小説大賞』にエントリーしている作品です。

アルファポリスにて先行公開中です。


 

「おい」


 遠くで微かに声が聞こえたが、強烈な眠気が開けようとしたまぶたを強引に押し戻して来る。その心地よい誘惑に負け、中村甚四郎は開きかけた目をもう一度つぶった。


「おい、起きろよ」


 揺り起こされて甚四郎は今度こそを目を開けた。寝ぼけ(まなこ)をこすりながら周囲を見回すと、先輩の丁稚達は既に起きて布団を畳み、身支度を整え始めている。さすがに状況を理解した甚四郎は、慌てて布団から跳ね起きた。


 急いで布団を畳むと、身支度もそこそこに慌ただしく取り井戸に向かう。季節は既に初夏を過ぎているが、井戸から汲み上げたばかりの水は冷たく、桶に差し込んだ手にはひんやりとした感触があった。ためらう余裕もなくざぶざぶと顔を洗うと、甚四郎もようやくすっきりと目が覚めた。 


 視線を空に向けると、東の空から鮮やかな青色が急速に広がって来ている。雲一つ無い晴天が目に眩しかった。


 ――今日もいい天気だ


 まだ薄暗さの残る空の下で店回りの掃き掃除を始める。甚四郎の担当は蔵周りと裏庭だ。毎日掃除をしているので辺りは(ちり)一つ無いように見えるが、それでも丹念に(ほうき)で掃いていくと僅かな塵が出て来る。毎日コツコツと掃除をしなければこうした塵が積もってしまうから、一日たりとも怠ける訳にはいかない。


「おはよう。甚四郎」

「あ、おはようございます。宗十郎さん」


 裏庭を(ほうき)で掃いていると、甚四郎が奉公する商家『山形屋(やまがたや)』の長男宗十郎が起き出してきた。まだ辺りは薄暗いが、商人の町近江国八幡町では日が昇るまで寝ている者は一人も居ない。皆辺りが暗いうちから起きて働き始め、夜は月が高く登るまで商売に精を出すのが当たり前だった。


「甚四郎、おはようさん」

「おはよう。もう慣れたか?」

「ふあぁ~~~」


 続いて年かさの手代達が口々に挨拶しては取り井戸で顔を洗う。皆山形屋で一人前の商いをしている先輩たちだ。その一人一人にきっちりと挨拶をすると、甚四郎は外の掃き掃除を終えて店内の拭き掃除に移った。


 山形屋の店内は広く、表から暖簾(のれん)をくぐって入った横に商品を積んだ大八車があり、その反対側には上がり(かまち)がある。(かまち)から履物を脱いで上がると、店内には蚊帳と畳表の見本が所狭しと置かれていた。その奥には格子で三方を囲まれた帳場があり、帳場の中では番頭さんが日々の商いの帳簿を整理している最中だった。


 甚四郎は部屋の壁や柱ををぼろ布で丹念に乾拭きすると、次に畳を同じくぼろ布で(ほこり)一つ残さぬように拭き清めた。


 裏の(くりや)(台所)からは濃厚な味噌の香りが漂ってきて思わず空腹を覚える。拭き掃除のついでにひょいっと厨を覗くと、三人の下男と一人の下女が働いているのが目に入った。


「こら、怠けたらあかんよ。甚四郎」


 甚四郎は不意にぺしっと頭をはたかれた。

 振り返ると、白い肌に優し気な目をした少女がいたずらっ子のような笑みを浮かべて立っている。洗いざらしの藍染縮(あいぞめちぢみ)の木綿の小袖は、この少女が働き者である事を物語っているようだった。銀杏(いちょう)返しに結った髪はいかにも動きやすさを優先した風情で、飾り気というものが一切無い。その飾り気の無さが、逆に見る者に溌剌(はつらつ)とした印象を与えた。


「多恵ちゃん。痛いやないか」

「まだ掃除の途中やろ?甚四郎が怠けてつまみ食いに来てましたって旦那様に言いつけたろうっと」

「そ、それは堪忍や。また番頭さんに怒られる」


 多恵と呼ばれた少女はふふっと笑うとたくあん漬けを一枚口にくわえさせてくれた。


「それ食べたら、もうちょっとおきばり。もうすぐご飯やさかい」


 呆然とする甚四郎の横を通り抜け、多恵はまな板の前に戻って朝食の膳の支度に戻った。ポリポリと小気味良い歯ご多恵を堪能しながら、甚四郎も再び拭き掃除に戻って行った。


 店内の掃除に続いて三和土(たたき)の大八車や出荷待ちの商品の掃除にかかる。藁莚(わらむしろ)を外すと、中から畳表や蚊帳が顔を出した。近郷の織屋で織られ、納品された品物だ。


 裏庭を目一杯使って莚の上に蚊帳を広げ、細かな埃や塵を払っていく。


「おう、その蚊帳な、そのままにしといてくれ。朝飯の後で目利きに確認させるさけな」


 番頭の利右衛門が後ろの軒下から声を掛ける。


「へえい」


 間延びした返事を返しながら、甚四郎は言われた通りに蚊帳を広げるとそのまま置いておいた。


 蚊帳織は元々農家が農閑期に行う副業として発達してきたが、複数の家がそれぞれに作業をするので、当然ながら出来上がりの品質にもバラつきが生まれる。そうした品質のムラを点検するため、蚊帳商では必ず『目利き』と呼ばれる品質管理担当者を雇っていた。

 だが、元禄あたりから生産効率の向上のために近郷の女達を一つ所に集めて分業体制を取るようになった。いわゆる『工場制手工業(マニファクチュア)』の形態だ。


 山形屋も自前の蚊帳工場を持っているが、工場生産であるために品質の()()は極端に少なくなっている。だが、それに慢心することなく、今でも納品された蚊帳を抜き打ちで検査していた。


 一通りの掃除を済ませると、甚四郎は先輩の丁稚達の元へ向かった。甚四郎はこの春に十歳で奉公に来たばかりの新米で、掃除終わりに丁稚の頭分の茂七に掃除道具をあらためてもらわなければいけない。経験を積んだ丁稚ならば、掃除道具の汚れ具合を見れば真面目に掃除していたかどうかが分かるらしい。

 決して手を抜いていたつもりは無いが、それでも茂七の検分を受ける時は緊張する。


「よし。いいだろう」


 茂七の検分も無事に通過したことで、甚四郎の朝の掃除は終了となった。


「じゃあ、広間に行って朝飯を頂こうか」

「へい!」


 ようやく待ちに待った朝飯だ。

 起きてからすでに一刻(二時間)ほど経っていたので、既に腹ペコだった。広間に行くと番頭、手代を始め主だった者達はもう膳の前に座っていた。甚四郎も遠慮がちに腰を屈めながら所定の場所に向かう。

 膳の上では炊き立ての白飯に鮎川菜となすびのヘタの味噌汁が湯気を上げている。小鉢にはきんぴらにしたゴボウとたくあん漬けが添えられていた。甚四郎が膳につくと、すぐに店主の利助が奥からやって来て上座に座った。


「待たせたな。さ、食べようか。頂きます」

「頂きます」


 全員が声を揃えて手を合わせる。それが終わると、甚四郎はすぐに茶碗を掴んで炊き立ての飯を頬張った。

 炊き立ての飯は熱く、口の中を火傷しそうになったが、噛みしめると口の中に何とも言えない米の甘味が広がった。次に味噌汁をすすると、米と汁が混ざり合ってふくよかな味が口の中を満たした。

 朝食を食べ終わると膳を下げて厨に持っていく。自分の食べた分は自分で下げるのが決まりだ。


「ごちそうさまでした」


 言いながら流しに茶碗と汁椀を出し、膳を奥の水屋に片付ける。


「おそまつさんで」


 下男の庄兵衛が水屋の横からひょいと顔を出して気安く声を掛けてくれた。山形屋では、奉公人と下働きは食事をする場所も別々になっている。庄兵衛達の食事場所は水屋の横と決まっていた。下女の多恵も庄兵衛と同じ場所で朝飯を食べている。


「ごちそうさま」


 多恵に向かってもう一度声を掛けた後、甚四郎は厨を後にした。


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