16 一線を越える
「うぅ……」
――と、その時、背後で苦し気な呻き声が聞こえた。二人が振り返ると、倒れていたヤクザの一人が、脇を押さえたまま地面を這い、近くに落ちていた拳銃を拾おうとしていた。
「ちっ……まだ生き残りが居やがったか」
篠介は面倒臭そうに舌打ちすると、ヤクザの男が拾おうとしていた拳銃を遠くへ蹴飛ばし、次に男の顎に蹴りを入れた。男が血を吐いて仰向けに転がると、篠介は男の眉間目掛けて持っていた銃を構える。
「諦めの悪い野郎だ。あまりしつこいと女にモテないぜ」
そう言って、篠介は躊躇無く引き金に指を掛けようとした。が――
「ちょ、ちょっと待てよ!」
そこへ憑魔が止めに入り、篠介の手から拳銃を取り上げた。
「おいおい、何やってんだよマッキー」
銃を奪われ、苛立ちの声を上げる篠介。彼の前で、憑魔は思わず口走った。
「……何も、殺す必要はないだろう?」
目の前で人が撃たれようとする瞬間を見てしまった憑魔は、知らぬうちに体が反射的に動いて、篠介を止めに入っていた。彼は他人が殺されるところを、黙って見ていることができなかったのだ。
「ったく、何言ってんだマッキー。散々相棒の小悪魔を暴れさせておいて、今更自分だけ正義漢気取りかよ?」
そう言われて、憑魔はぐっと奥歯を噛み締める。篠介はそんな言葉に詰まる彼を鋭い目で睨み付け、声を潜めて言う。
「……お前、まさか今になって殺人は罪だなんて馬鹿げた事言い出すんじゃねぇだろうな? そんな生温い正義感を振り回すのは、これまで己の手を血に汚したことのない腰抜けな堅気がやることさ。だが、お前はどうなんだ? ……ほら、周りを見てみろよ」
篠介はそう言って腕を広げて振り返り、これ見よがしに周囲を見渡す。
「そこに倒れてる奴も、あそこに倒れてる奴も、皆まだ生きてると思うか? お前が撃った魔法の弾とやらで吹っ飛んだ車の横に倒れてる黒焦げの死体を見てみろよ。あれだって、全部お前が拵えたんだろう?」
篠介が腕を広げた先、憑魔が目にしたのは、誰一人として動くことのない、沈黙の惨状だった。そこに倒れている全員が全員、既に生き絶えた屍と化していたのである。
確かに、憑魔はウニカに向かって「敵を蹴散らせ」と言った。だが、「殺せ」とまで言った覚えはなかった。しかし、だからと言ってウニカに全責任を押し付けるのは筋違いだということも彼には分かっていた。ウニカは加減を知らなかった。外見は子どもだが、その中身は凶暴な悪魔であり、故に人間にはとても太刀打ちできない強力な力を秘めている。そのことを予め把握していれば、「殺すな」とか、「手加減しろ」とか、いくらでも注意はできただろう。
悪魔の子であるウニカの秘めた力が、どれほど強力なものであるかも知らないまま、ウニカを暴れさせた自分自身に罪があると、憑魔は認めざるを得なかった。
「……殺しってのは、最初は誰でも毛嫌いするもんさ。――だが、一度犯してみたら、どうだ? 途端に命の重さやら罪深さなんてどうでも良く思えてきて、引き金に掛ける指がフッと軽くなっちまう。……まぁ要するに、殺しの味を占めちまうんだな。極道の世界ってのは、そんな死に鈍感になった奴らの集まる闘技場みたいな所なのさ」
篠介の顔は笑っていた。狂気的な程の笑みを満面に浮かべて、西に傾いてゆく陽を背にして堂々と憑魔の前に立ちはだかっていた。
憑魔はそんな篠介の姿を見て戦慄する。そこに立っていたのは、小さい頃から一緒だった昔の彼ではなかった。それまで平穏な大学生活を送っていた憑魔と違い、過酷な極道の世界で幾度となく激流に飲まれてきた彼は、そこで生き残る為に幾つもの禁忌に手を染め、悍ましく邪悪な経験を積み、故に独自の哲学を持つ、一癖も二癖もある人物へと成り上がってしまっていた。
そして、そんな彼を畏怖する同時に、死をも恐れぬ鋼の意志を持つ彼に対して、不覚にもある種の畏敬の念のようなものを抱いてしまっていることに気付き、憑魔はハッとする。
「……お前も、俺と同じ道を行く覚悟があるか、試してみっか?」
そんな憑魔の心情を汲み取るようにして、篠介は彼の耳元でそう囁いた。
憑魔は手に持っていた銃に目を落とす。それから、地面に倒れたまま口元の血を拭うヤクザの男へと目を移した。
「……ちっ、青二才が……俺たち白雨組を敵に回すとどうなるか……分かってんのかテメェら?」
ヤクザの男は負け惜しみのように脅迫めいた言葉を口にした。この時憑魔は、男の放ったある単語を聞いて、目を見開く。
「『白雨組』?……白雨って、俺の親父を殺した、あの白雨重久のことか?……」
憑魔はとある人物の名を口にする。その男は、憑魔の父親である長雨曹治郎の部下にして、彼が最も信頼する側近であった男。
――そして、その信頼を最も容易く裏切り、父親が築き上げてきた全てを奪い、そして憑魔と篠介から父親本人をも奪い去った、冷酷非道な男の名だった。
「ほう、俺たちの親分を知ってんのか? それに親父を殺したってぇと……成る程、テメェらが、かつて長雨組を仕切ってた頭のガキ共か……親父を殺されたそのカエシって訳かい……こりゃとんだ鉄砲玉だな」
男は二人の正体を知り、嘲るように鼻で笑う。
「……テメェらの親父が立派だったことは認めてやるよ。……だがな、一番の側近だった俺らの親分が、裏切ることを見抜きもできねぇような鈍い奴は、この世界じゃ殺されて当然なのさ」
にっ、と血で濡れた歯を覗かせて、男は歪んだ笑みを憑魔に見せつけた。
「くっくっ……哀れなテメェらの親父は、一番の側近が裏切る訳なんかねぇと信じ続けて、挙句の果てがあのザマだ。くだらねぇ正義感と仲間意識を振り回した故に、奴は自滅したのさ。……笑えるよなぁ。なにせ当時は、親分が裏切る前から、長雨組の連中のほとんどがこっちに寝返っていたんだからな! たった一人で馬鹿な勘違いをし続けるたぁ、間抜けにも程があるってもん――」
タァン!
乾いた破裂音が、辺りに虚しく轟いた。
その男は、最後の言葉を言い切る前に、血と弾けた脳を地面にぶちまけて死んでいた。
白煙の上る拳銃を握った憑魔の手は、酷く震えていた。彼の目には冷たい光が宿り、逆にその瞳の奥では怒りの熱い炎が逆巻いていた。もはや撃つことに躊躇いなど微塵もなく、ただ激しい衝動に突き動かされ、気付けば引き金を引いていた。引き金に重さなんて全く感じなかった。
(……あぁ、俺も一線を超えちまった)
憑魔は暮れゆく空を仰ぎながら心の中でぽつりと呟いた。認めたくはなかったが、全て篠介の言う通りだった。憎い奴を殺すのに、慈悲など邪魔にしかならない。それを分からせる為に、篠介はあえて憑魔に撃つようけしかけたのだろう。結果的に、全て彼の思惑通りになってしまったという訳だ。
やはり、長雨家の血筋を引く者は、常に抗争の世界に囚われてしまう運命なのだと、憑魔は諦めに似た感情を抱いて脱力し、手に持っていた拳銃を投げ捨てる。
「………手が滑った」
そんな下らない言い訳を漏らして嘯き、憑魔は目の前の死体から目を背けて歩き出す。
これだけ派手にドンパチやって、ようやく何処かで銃声を聞き付けたのか、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。警察に見つかる前に、早くここを離れなければならない。
惨状を背にしてその場を後にする憑魔。そんな彼の肩に腕を回し、篠介が勝ち誇ったように声高らかに笑っていた。
そして、そんな二人のやりとりをずっと背後から暇そうに眺めていた小悪魔の少女は、ようやく長話も終わったかと、大きな欠伸をしながら二人の後に続いてゆく。
「……やれやれ、兄弟関係というのは、何故ああも面倒臭いのだろうな……」




