新しい婚約破棄
「アレクサンダー・ライオネル・ド・マリポルト王太子殿下。あなたとの婚約を破棄させて頂く」
密やかなお喋りと含み笑い、控えめなカトラリーの音だけが許される優美な空間において、一語一語はっきりと、区切るように発音されたその言葉は部屋の隅々まで響き渡った。
ここは貴族の子弟たちが通う、王立学園に併設されたティーサロン。声の主はグウェンドリン・ルッツ侯爵令嬢である。白薔薇のように清楚な佇まいと、艶やかなヘイゼルの瞳が印象的な、美しい令嬢だった。
彼女に婚約破棄を言い渡されたのは、マリポルト王国第一王子にして王太子、アレクサンダー・ライオネル・ド・マリポルト。グウェンドリンと同学年、未だ学生の身である彼は、サロンの最奥にある貴賓席に座っていた。
いつものようにミラベラ・ウィンズロウ男爵令嬢を隣に座らせ、彼の未来の側近となる、騎士団長令息と宰相令息と財務長官令息に、同じボックス席に座る栄誉を与えていた。
金髪碧眼の見目麗しい王太子は、ほんの数秒前まで、まさに自分が彼女に同じことをしようとしていたことも忘れ、カッと頭に血を上らせた。
「無礼者ッ。お前は一体、誰に向かって……!」
グウェンドリンを呼びつけたのは、衆人環視の中、アレクサンダーが婚約破棄を高らかに宣言する為であり、断じて向こうに先を越される為ではない。
グウェンドリンは冷静に答えた。
「婚約者がありながら、他の女性との親密さを隠そうともしないお方に」
「見下げ果てたぞ、グウェンドリン。ミラベラとの関係は、お前が邪推するようなものではない」
「ほう」
ミラベラのことを言われている、というのは分かるのか。
だが、最近はどこへ行くにもミラベラを連れて歩き、彼女が腕を絡ませるのを許し、今も真隣に座らせておいて、一体何を言っているのだろう。
そのような行為が周囲からどう解釈されるのか、本当に分かっていないのですか……?
「ぐ……」
大人しく控えめと言われているグウェンドリンだが、高位貴族の令嬢として、眼差し一つで言いたいことを余すところなく伝えるなど、やろうと思えば造作もない。
普段は優しいグウェンドリンにやや冷たい態度を取られ、アレクサンダーは目に見えてうろたえた。
グウェンドリン・ルッツがアレクサンダー・ライオネルの婚約者となったのは、両者が互いに十二歳の時である。
彼女の父であるルッツ侯爵は質実剛健かつ野心のない人柄で、娘を王室に嫁がせ、出世の足掛かりにしようなどとは夢にも思わない人物だった。また、王国には彼女より身分のある令嬢など幾らでもいたから、次期王太子と目されている第一王子との婚約は、彼女にとってもルッツ侯爵家にとっても青天の霹靂だった。
落ち着きがある、と言えば聞こえがいいが、幼い頃から内向的で、引っ込み思案だったグウェンドリンは、王子様との婚約を素直に喜べるような楽天的な質ではなく、「私の人生が厄介な方向に舵を切った」という衝撃の方が大きかった。
だが、王宮内にある小ぢんまりとした白薔薇の庭園で、初めてアレクサンダーと顔を合わせた時、グウェンドリンの憂いはたちまち一陣の風となって、どこかへ消え去ったのである。
――そう硬くなるな、グウェンドリン。仲良くやっていこう。
未来の夫となる人は、青ざめているグウェンドリンに優しく手を差し伸べた。
彼も勿論承知していたのだ。グウェンドリンがゆくゆくは彼の伴侶となることを。
アレクサンダーは彼の前で恐縮し、緊張する令嬢というものに慣れていた。
彼は同い年とは思えぬほどスマートに彼女をエスコートし、気の利いた冗談で彼女を笑わせ、別れ際には白薔薇の花束をくれた。
それで十分だった。初心な少女が恋に恋してしまうのは。
グウェンドリンはあれほど不安に苛まれていたことも忘れ、彼に相応しい淑女になろう、とこの日心に誓ったのだった。
これが政略結婚であることは、互いに百も承知だった。けれど、二人で出掛けたピクニック、季節ごとの贈り物、目配せだけで通じ合う気持ち、そういったささやかなことすべて。少なくともグウェンドリンの方は、それなりに良好な関係を築いていると信じていた。ほんの三日前までは。
ミラベラにつつかれ、アレクサンダーははっと態勢を立て直した。
「それよりグウェンドリン、糾弾されるべきはお前だ。ミラベラの教科書を隠し、歩いている彼女に上から水をかけ、あまつさえ階段から突き落とそうとしたな?」
「まあ、そんなことがあったんですか」
「白々しい。ミラベラが涙ながらに私に話してくれたぞ。だが、恥知らずなお前と違い、ミラベラは最後までお前を庇っていた」
「……」
グウェンドリンは扇を広げて口元を隠した。
――恋は盲目と言いますが、私がそんなことをすると、あなたは本気で思っていらっしゃるの……?
「グウェンドリン、何故黙っている。申し開きの余地もないか」
王族として立ち回るには、彼はあまりにもナイーヴで、純粋過ぎたのかもしれない。
すべてが決められた窮屈な人生。王太子であることの絶え間ない重圧。背後に迫る優秀な第二王子。
息詰まるような彼の人生に現れた、華奢でいたいけなピンクブロンドの少女。
彼女とのことは、グウェンドリンも無論知っていた。知っていて現実から目を背けた。そうすればアレクサンダーを失わずに済むと、愚かにも思ってしまったのだ。
グウェンドリンはこの三日間というもの、夜毎枕を濡らしていたことなど一切感じさせぬほど軽やかに微笑んだ。
「何が可笑しい!」
「いえ、私が何の為にそのようなことをするのか、理由が思いつかず」
「知れたことを。私の寵を受けたミラベラへの嫉妬だろう」
「寵? そのような関係ではないと、たった今おっしゃったではありませんか。親密でも何でもない相手に与えたのですか? えーと、寵?」
「減らず口を――ヒッ!」
グウェンドリンが音を立てて扇を閉じると、アレクサンダーがびくりと肩を揺らした。普段は大人しいグウェンドリンに、少しでも荒々しい動きをされると怯んでしまう。
「殿下、よろしいですか。私が本当に彼女を疎ましいと思ったならば、そんな生温い仕打ちでは済みません」
グウェンドリンが静かに言い放ち、サロンの温度が二度は下がった。
片や建国当初から続く、由緒ある侯爵家のご令嬢、片や貴族とは名ばかりの、領地も持たぬ弱小貴族の娘。
グウェンドリンの目配せひとつで、ミラベラなど貴族社会から放逐され、家ごと抹消されるであろうことは明白だった。
「お分かりですか……?」
昨今、少女たちに人気の小説では、明るく健気な主人公を苛め抜く、意地の悪い高位貴族の娘のことを、悪役令嬢、と呼ぶらしい。ミラベラから見れば、グウェンドリンなどまさに悪役令嬢だろう。だが、身に覚えのない罪を着せられ、グウェンドリンとて黙っているという訳にはいかなかった。
これも最後の余興であろう――。
グウェンドリンは艶然と微笑んだ。
「もしよろしければ、まことの犯人捜しをルッツ侯爵家もお手伝いしましょうか……?」
――もういいわ、アレク。幸い、私は無事だったんだし。しかし、それでは君が。いいから。
「ご相談はお済みですか?」
「あっ、ああ」
「お話と言うのはそのことだったのでしょうか」
「あ、ああ、まあ」
「では、誤解も解けたようですし、私も言うべきことは言いましたので」
「待てぃ!」
立ち去る気満々で礼をとろうとしたグウェンドリンをアレクサンダーが引き留めた。
「グウェンドリン、このような不敬、許されると思うのか」
「ゆめゆめ思っておりません。これより私は自宅にて謹慎し、処分を待ちます」
これだけの数の生徒と、面識はないが、恐らくは王家の秘密機関――彼らは「影」と呼ばれている――が見ている中で、王太子に不敬を働いたのである。お咎めなしで済むはずがない。
だが、幸いなことにマリポルト王国はこんなことで十代の娘を投獄したり処刑したりする幼稚な国ではなく、また、アレクサンダーに一切の責がないとも言えない状況であることから、グウェンドリン及びルッツ家への処分はそう苛烈なものにはなるまいとグウェンドリンは踏んでいた。
父侯爵が自主的に、グウェンドリンを辺境の領地か、陸の孤島のような修道院に一生閉じ込めると言えばそれで収まる程度のこと。無論、婚約は白紙となるだろう。
「グウェンドリン、何故――」
アレクサンダーが呆然と尋ねた。
彼の婚約者である人が、貴族女性としての将来を棒に振ってまで、敢えてこんなことをしでかしたのだとようやく理解したらしい。
高位貴族の娘にしては傲慢なところがなく、よく弁えているグウェンドリン。彼女ならゆくゆくはどこに出しても恥ずかしくない王妃となり、王家と国に尽くすだろう。ミラベラはアレクサンダーが何と言おうと、結局は愛妾辺りに収まって、グウェンドリンもそれを黙認するだろう。それはミラベラの望んだものとは違うかもしれないが、それでも男爵風情の娘にしては破格の待遇である。
その場にいた他の生徒たちも、王家の「影」たちも、内心では皆そのように思っていたから、「何故」というアレクサンダーの問いは皆の疑問を代弁したものであった。
「私、見てしまったのです。三日前、白薔薇の庭園で――」
アレクサンダーがさっと青ざめた。
「あの日、私は王妃様のお茶会に呼ばれておりました。お開きとなった頃、白薔薇が綺麗に咲いているから、幾つか切らせて持ってお帰りなさいと王妃様が言ってくださったのです」
グウェンドリンが目撃したのは、白薔薇の庭園で抱き合う恋人たちだった。
二人は互いにきつく相手の体に腕を回し、切なげに目を閉じていた。
アレク、ミラベラ、と互いを呼び合う甘い声が白薔薇の美しい庭園に溶け、二人はまるで悲劇の主人公のようだった。
背後で蒼白になっている庭師に、「薔薇はもう結構よ。このままお暇します」と振り返って小声で告げ、グウェンドリンは帰りの馬車で泣き崩れた。
彼の心にグウェンドリンはいないと思い知らされた瞬間だった。
少しは好きでいてくれると思ったが。
「理由としては、十分でございましょう」
グウェンドリンはこの三日間、考えに考えて婚約破棄しかないという結論に達した。
けれど、これはグウェンドリンが悪者になって、二人の恋を成就させてあげようという殊勝な心掛けではない。振られる前に振ってしまえというつまらない意趣返しでもない。
彼女の恋の心臓に、自ら刃を突き立てて、この恋は終わったのだと言い聞かせる為だった。
貴族社会を大混乱に陥れる火種を投下しておきながら、グウェンドリンはどこか夢見るような眼差しでぽつりと言った。
「私が殿下と初めてお会いしたのも、白薔薇の庭園でございましたね」
「それが何だ」
「いえ――埒もないことを申し上げました。お忘れください」
そう答えた時、グウェンドリンは一切の感情を読ませない、完璧な微笑を湛えていた。
「グウェンドリン……」
「まあ、そんな訳で」
グウェンドリンは扇で優雅に口元を隠しながら、ほほ、と笑った。
「殿下とのことは完全に過去のこととして、これからは前を向いて生きていきたいと思います」
「……!」
衆人環視の中で、アレクサンダーを二度三度とこっぴどく振り、グウェンドリンは「では、御機嫌よう」と優雅にサロンを出ていく。
後に残されたのは、出来た婚約者に愛想を尽かされた王太子と、恥知らずな男爵令嬢と、王太子に追従するだけの未来の側近たち、そして、一部始終を目撃した生徒たちと、今回の件を余さず国王夫妻に報告するであろう王家の「影」だった。
隣国王子、タイタス・アルカディウス・ブラガディンは人目を避けるように木の上で一休みしていた。
漆黒の髪とサファイアブルーの瞳を持つ、やや退廃的な雰囲気の美しい王子である。
第三王子という気楽ではあるが、微妙な立場である彼は、近頃巻き起こった王弟派と第一王子派の内紛を避け、身分を偽ってこの学園に通っていた。
人付き合いを避けているのは、元々社交的ではないことと、少し変わった体質を知られたくないことからであった。
彼が今いるのは、芝生と木々と木漏れ日だけの、ひっそりとした空間だった。昼時にはここでガーデンランチを楽しむ生徒もいるが、今の時間帯は大半の生徒がティーサロンで午後のお茶を楽しんでおり、辺りは閑散としている。
心地よい静けさに包まれた、緑の庭に溶け込むように、美しい人が通りかかった。グウェンドリン・ルッツ侯爵令嬢。マリポルト王国王太子の婚約者である。
あまり表情の動かない、安定感のある令嬢で、彼女ならば、人当たりは良いがやや逃げ癖のある王太子を上手く補佐するだろうと言われていた。
グウェンドリンは評判通り、安定感のある足運びで優雅に歩み寄ってくる。
表情も変わらず、冷たく美しいまま――。
グウェンドリンの目から涙が一粒、こぼれ落ちた。
――え?
次の瞬間、彼女は実にさりげなく涙を拭い、何事もなかったように前を向く。
たった今、タイタスが目撃した小さな綻びなど、まるでなかったかのように。
今のは――。
タイタスの胸に生まれた、まだ名前のない感情が、「どうして彼女は泣いて」というありふれた疑問に変わる前にタイタスは落ちた。
どこか弾んだ叫び声をあげ、グウェンドリンがタイタスを抱き留める。
彼女の腕の中にいるのは一匹の猫だった。
艶やかな漆黒の背、澄み渡ったサファイアブルーの瞳。ケーキの上に絞られた生クリームのように、顔の下半分に向かって広がっていく白いぶち模様。生クリームは柔らかな首や腹に惜しげもなく流れ込み、コルセットに覆われた彼女の胸を踏み踏みしている四つの可愛いおみ足もまた、生クリームのソックスを履いているかのように真っ白。
「ああ……」
「ニャ」
これこそがタイタスの少し変わった体質だった。彼は「起き上がる」「歩き出す」という人間の基本動作に加え、何故か「猫になる」という動きを持っていた。
グウェンドリンは優しく微笑み、タイタスの顔を覗き込んだ。
「ああ、驚いた……。あなた、少しは時と場合をお選びになって? 私は今、大失恋をしたばかりなのよ」
失恋? あなたが? 一体誰に?
王太子の婚約者に密かな想い人がいたとは、特級の外交情報である。タイタスは色をなして彼女を見上げた。
教えてくれ、あなたの心を占めていたのは、一体誰だ。
「……そうよね。ごめんなさい。あなただって、好きで落ちた訳ではないものね」
可愛い、と覗き込まれて、ニャ、と顔を背ける。止してくれ。調子が狂う。今はそんな話をしているのではないだろう。
グウェンドリンはタイタスを撫で、淋しげに微笑んだ。
「ねえ、猫ちゃん……。私はこれから、どこか遠くに追放されるのだけど」
どうして、とタイタスは泡を食って、背けた顔を再び彼女に向けた。
あなたは失点のない侯爵令嬢で、驕慢ではない性格と、教えたことは何でも吸収する優秀さで、国王夫妻にも気に入られているという話じゃないか。それなのに、何故。ああ、まさか、先程言っていた失恋と、もしや何か関係が――そう思うだけで、タイタスの胸は切なく締め付けられてしまう。
これは単なる興味で、いや、違う、紳士としての気遣いで、いや、違う、外交上、探っておくべき情報で、違う、これは――恋だッ。
「一緒に、行ってくれない……?」
断られるのを恐れるように、グウェンドリンがおずおずと尋ねた。
返事は勿論「ニャア!」だった。
グウェンドリンは嬉しそうにタイタスをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう! 不思議ね、何故だか分からないけれど、あなたと一緒ならどこに行っても大丈夫という気がするの。それにね……」
グウェンドリンは少女のように屈託なく笑った。
「不謹慎かもしれないけど、実は少し楽しみだったりもするのよ――今まで大変だったから、辺境の地でのスローライフ!」
いろいろと贅沢に乗せてみました。