準備は良いか
『もりとえらび』の当日の朝も雨は降り続いていた。和人は寝坊した。自分ではそれ程気にしていないつもりだったが、明日が『もりとえらび』となると、流石に興奮しているのか、昨夜はなかなか寝付けなかった。結果、母親に叩き起こされて目を醒ました。
「爺ちゃん、港まで送ってくれよ。」
「阿保、バタバタしおって。」
ブツブツと文句を言いながらも、清吉は軽トラのエンジンを掛ける。和人が助手席に飛び乗るとすぐに軽トラを発進させる。
「良いか、ちゃんと昼に帰って来るんだぞ。」
「大丈夫だよ。」
和人は面倒くさそうに答える。
雨の中、うねる旧道を軽トラは飛ばしていく。こんな雨の中、どうせ午前中の授業だけで帰って来るのなら、無理して学校に行ってもしようがない。むしろ、朝はゆっくり眠っていて、しっかり支度をすれば、『もりとえらび』は万全の体調で臨める筈だ。和人は助手席から灰色の空を見上げて考えていた。
『御柱辻』に出た時だった。出合いがしらに左手からの車と行き当った。途端、軽トラのエンジンはすさまじい音を立てて回転し、車体はみるみる加速する。
「うわぁ~。」
運転席で清吉が必死にハンドルを操作し、車同士の衝突を回避する。コントロールを失った軽トラは道を外れ、盛り土を駆け上がり、石を立て並べた神社の塀にぶつかる。軽トラの突進で石柱が数本倒れ、代わりに全面が凹んだ軽トラも1メートル程跳ね返される。軽トラの勢いが落ちてほっとしたのも束の間、盛り土の上でギュルギュルと前輪が空転したかと思う間に、再び軽トラは突進を開始、倒れた石柱を乗り越え、切り開かれた鎮守の森の中に入り込む。
「うおうぇ~!」
言葉にならない叫び声を上げる和人と清吉を乗せたまま、軽トラは古い方の御柱に向かって再突進すると、運転席の角を御柱にぶつけて漸く止まる。エンジンも止まった。これ以上軽トラが暴れまわる心配はない。
フロントガラスが割れ、ガソリンとオイルと木々と雨の匂いが車内に入り込んでくる。和人も清吉もすぐには何も出来ない。自分達が生きていることを確認してから、状況を把握する。
「爺ちゃん、大丈夫か?」
和人は隣の清吉の様子を確認しながら聞く。
「あ?ああ、大丈夫だ。」
と言うが、右の額をぶつけたのだろう、赤くなった中心から血がにじんでいる。ハンドルからエアバックが開いたので、顔の正面をぶつける事は無かったようだが、御柱にぶつかった時に内側に凹んだピラーか、割れた窓ガラスにぶつけたのだろう。
和人は自分のシートベルトを外すと、助手席のドアを開けようとする。車全体がひしゃげてしまったためか、少し開いたところから、手で押してもそれ以上開かない。内側から足で蹴ると、悲鳴のような軋む音を上げて漸くヒンジが開く。雨が降る森の中に出る。自分の体を見回してみるが、どこも怪我していないようだ。
「おおい、公頭さん、大丈夫かぁ。」
長靴をはいた初老の男が倒れた石塀の間から入って来る。見た顔だ。氏子会の人だろう。
爺ちゃんを助けないと。
和人はぬかるんで歩きにくい足元に気を付けながら、軽トラの後ろを回って運転席側に行く。運転席のすぐ脇に御柱があって、ドアは開きそうにない。
「爺ちゃん、こっちからは無理だ。助手席から出よう。」
和人はもう一度、助手席側に回り直すと、助手席に上半身を入れて、清吉のシートベルトを外す。更に入り込んで清吉の上半身を抱きかかえると、助手席側に引き摺り出す。いつもは何の不自由もない筈の清吉の手は震えている。まるで介護が必要な老人の様だ。和人が清吉の体を引っ張らないと、運転席から助手席に移る事もままならない。
「どれ、私も手伝うか。」
助手席の脇まで来た初老の男が、車の外から手を伸ばすが、軽トラの中は狭くて役に立たない。3人で格闘して、漸く清吉も軽トラの外に出る。怪我をしていないか清吉の体を調べる。外見上は額の傷以外には無さそうだ。
「公頭さん、歩けるかい?」
初老の男に促されて、清吉はぬかるむ草地の上を小股で回る。仕草におかしなところはない。大丈夫そうだ。
「良かった。どうなっちゃうかと思ったよ。」
初老の男も安堵の表情を浮かべる。
「いやぁ、とんだ事になっちまった。」
悔し気に清吉が唸る。
「爺ちゃん、アクセルとブレーキ間違えたろ。死ぬかと思った。」
「和人、お前は歩いて港に行け、儂は警察呼んで、事故処理せなならん。」
和人はポケットからスマートフォンを出して時間を確認する。今から急いでも、徒歩じゃ予定していた連絡船には乗れない。遅刻するのを覚悟する。
「分かった。爺ちゃん、警察、電話するか?救急車は?」
「そんな大袈裟なもんは必要ない。百十番だけしてくれ。」
漸くいつもの清吉の威勢が戻って来る。和人は頷くと電話を掛ける。状況を伝えると、本土からパトカーを回すので30分以上かかると言う。
「それじゃあ、私の車の中で待とう。ここじゃあ、濡れちまうから。」
「済まないな、拓ちゃん。あんた、用事は良いのかい?」
「なに、私も家族を送った帰りだ。家には連絡しておけば大丈夫だよ。」
老人同士の会話を置いて、和人はその場を離れる事にする。傘を助手席から出して差す。目の前、軽トラの向こうの御柱には大きな傷が3本付いている。薄っすらと苔が付いた表面はそこだけ剥ぎ取られ、地の木材がえぐれて木の繊維が切断されている。
「古い方で良かった。新しい方だったら、7年間、ずっと話のネタにされるところだ。」
和人は独り言で呟くと、足元に気を付けながら道路まで降りて行った。
学校では、授業の合間の休み時間に丈一郎が様子を見に来た。
「朝いなかったから、何かあったかと思ったよ。ちゃんと学校に来てて安心した。」
丈一郎はまだ、事故の事を知らないのだろう。
「実は、朝、爺ちゃんの車で送ってもらう途中で事故を起こしちゃって。丈一郎、済まない。神社の石塀を壊しちゃった。」
和人は両手を合わせて詫びる。
「なんだ、そんな事が遭ったのか。それで、和人のじっちゃんは大丈夫だったのか?」
「ああ、ここにたんこぶ作ったけどな。」自分の額を指差す。「車もきっとお釈迦だ。あと、御柱。古い方の御柱にぶつかって止まったから、御柱に傷付いちまった。」
「そうか…。皆無事だったら、良かった。古い方の御柱かい?どうせ11月には抜いてしまうから、問題ないよ。」
「そう言ってくれると思ったよ。」
どちらも、笑顔を見せる。
「じゃあ、予定通り、今日の『もりとえらび』には来るんだな?」
「うん、もう爺ちゃんの車に乗れないから、事故る事も無いし、予定通りに行けるよ。」
丈一郎は笑うと、自分のクラスに戻って行った。
和人は昼飯を学校で食べた後、早退して港まで歩いた。雨は上がったが、空の雲は重くのしかかり、湿った空気は纏わりつく様な気持ち悪さで、歩くとすぐに汗が噴き出してくる。和人はのろのろと歩く。どうせ神酒井神社に行くのは夕方だ。支度と言っても、昨日の清吉の話の内容なら、大して手間はかかるまい。
連絡船の時間を気にせずに歩いてきたが、丁度連絡船が出る時間に港に着いた。朝夕の混雑する時間と異なり、真昼の利用者は数人の老人と、物資を運ぶために島と本土を行き来する商用車ぐらいだ。今にも出航しそうな連絡船に小走りで乗り込み、蒸し暑さから逃れる様に客室に駆け込む。数人しかいない乗客の中で、島平高校の制服の者に目が行く。山志部明奈だ。明奈もすぐに和人の存在に気付く。この人数で、近寄りもせず離れて座るのも何だか気不味い。和人は明奈の隣に座る。
「私だって、バレちゃったね。」
明奈は俯いて何だか恥ずかしそうだ。
そうだよな。自分がこの時間に帰って来いと言われたのだから、『もりひめ』になる女子も同じ様に帰るのだろう。だけど、確認せずにはいられない。
「もしかして、明奈が『もりひめ』か?」
「うん。驚いた?」
驚いたかと言われれば、それ程でもない。3分の1の確率で明奈になるのだから。
「マジで、良かった。佐多祁姉妹、俺、苦手だ。」
「そうなんだ。あたしなんかと違って大人しいよ。そういうの苦手?」
「分かんないけど、なんか話し掛け難いって言うか。二人きりでいたら息が詰まっちゃうよ。」
明奈はクスクス笑う。
「あたしは『もりひこ』どっちでも良かったな。どっちも、話し易いし。」
明奈は丈一郎が『もりひこ』になれない決まりなのを知らない。やっぱり、この事は一部の人だけが知っているのだろう。
「おい、そこは、嘘でも『和人が良かったぁ』って言うところだろ。」
「え~、そんな事言ったら、和人、調子に乗っちゃうでしょ。単純だから。」
「それで良いんだよ。これから『もりとえらび』が始まるんだから、気持ち上げて行かなきゃいかんでしょ。」
「和人は、乗り過ぎると失敗するタイプ。もう相手があたしだって分かったから、落ち着いて来て。」
「お前は、『もりひこ』が俺って分かって、落ち着いたか?」
「うん。もう、凄く。」明奈は自分の胸に手を置く。「もし丈一郎だったら、明日からファンの女の子の攻撃が怖かったけど、和人ならその心配ないから。」
「なんだ、それ。」
和人が不機嫌そうな顔をすると、明奈は猶のこと面白そうに笑う。
「ほんと、和ちゃんで良かった。でも一晩一緒だからって、期待しないでね。」
冗談でもそんな事言わないで欲しい。美里さんに誤解されたら、とんでもない。
「おま、何言い出すんだ。そんな事、考える訳ないだろ。それはこっちの科白だ。お前、自分のことは自分でしろよ。放っておくからな。」
「何、自惚れているのよ。あんたに頼ったりしないから、安心して。」
ほんとにこいつで良かったのか?佐多祁姉妹の方が優しくて、穏やかに過ごせたんじゃないのか?ずっとこの調子でやり込められるのか?
和人はだんだん、億劫になるのを自覚して黙り込んだ。
明奈とは、港で分かれた。
「じゃあ、後でね。良い恰好してきて、期待しているから。」
そう言ってカラカラと笑うと、背を向けて手を振る。和人は明奈の背中を見送ると、雨が上がりの蒸し暑さに顔をしかめて首を流れる汗をぬぐう。こんな中を家まで歩く道程を考えたら気が遠くなる。清吉の軽トラは朝潰れてしまった。迎えに来てもらう術は無い。『御柱辻』まで来ると、朝の事故の場所は立ち入り禁止の立て看板が出されている。石塀の柱は3本倒れたままだが、1か所に固めて並べられ、石材の代わりに細いしめ縄が渡されて、立て看板と一緒に軽トラが突入した塀の穴を塞いでいる。鎮守の森へ登る土手には、軽トラの轍が深く残っていて、事故の経緯を生々しく伝えている。流石に軽トラは運び出されて、自動車工場にでも持ち去られたのだろう。もうピラーのひしゃげた無残な姿はない。ただ、古い御柱の丁度軽トラの屋根の高さの位置に、強い傷が3本走っていて、軽トラが衝突したことを知らしめている。
和人はそれらの状況をつぶさに観察し、取り敢えず事故処理が無事に完了した事に安堵する。古い御柱はどうせ冬には抜いてしまうからそのままで良いとして、石塀は修理が必要だ。費用を清吉が負担すると言う事は、公頭家が負担すると言う事だ。軽トラは廃車にして、新しい奴を買わなければならないだろう。
父さんが知ったらひっくり返るだろうな。もう、爺ちゃん、運転するなって言われるかな。踏み間違えても停まってくれる奴にしたら大丈夫かな。
事故直後の、ショックで上の空だった清吉の表情が思い出される。
頭に怪我をしていたが、それ以外は元気そうだった。まさか、脳に損傷があって入院なんて事態になっていないだろうな。
悪い想像をすればきりがない。病院のベッドで動けなくなっている清吉の姿を想像しながら家に着くと、額に大きなガーゼを貼った清吉が迎えに出る。
「帰って来たな。」
「ただいま。なんだ、随分元気だな。」
大袈裟な絆創膏と情けない清吉の表情に吹き出しそうなのを必死で堪える。
「なんだとは、なんだ。もっと年寄りを大切にしろ。」
「御免、もしかしたら打ち所が悪かったかも、なんて想像してたから。元気そうで安心したよ。」
「縁起でもない事を言うな。さっさと上がって支度をしろ。」
「神社に行くのは夕方だろ。まだ随分時間があるじゃないか。」
「お前は、そうやってのんびりしているから、間際になって慌てる事になるんだ。出来る事はさっさとやれ。」
暗に、今朝の事故の原因は和人の寝坊のせいだと言われている様で気不味い。和人は黙って家に上がる。
「まずは禊ぎだ。風呂場へ行って水を浴びて来い。」
背後から清吉の声が追いかけて来る。
禊ぎ?水を浴びるって、どうやってやるんだ?
兎に角、荷物を自室に置くと、ゆるゆると風呂場に向かう。風呂場を覗くと湯舟に湯は張っていない。
「何してる。」
背後からの声に振り返ると、清吉が眉間に皴を寄せて風呂場を覗く和人を睨んでいる。
「これ、湯は無いんだな。」
「当たり前だ。ゆっくり風呂に入ってどうする。禊ぎだ。水道から水を出してかぶれ。」
冬でないだけ、まだましだ。蒸し暑い雨上がりを歩いて帰って来たから汗もかいた。和人は制服を脱ぎ捨てて風呂場で水を浴びる。流石に水道から出したばかりの水は冷たい。肩から掛けると体がびっくりする。念のため何回か水を浴びる。
まあ、こんなもんか。
和人が脱衣所に上がると、着替えが置いてある。白い筒袖に薄い紫の袴。下着は褌。
おいおい、こんな所まで伝統に則らなけりゃならないのか?第一、褌の締め方なんて知らないぞ。
誰かを呼んで訊く訳に行かず、紐を締めてみて後ろ前だと気付き、締め直す。筒袖、袴は弓道で何度も身に着けているから何とかなる。
袴姿で廊下に出ると、待っていた清吉が手招きする。呼ばれるまま、清吉の部屋に行く。昨日の夜と同じ様に座布団に正座して、清吉と対座する。
「どうだ。気は引き締まったか。」
そう言われても、水が冷たかった位にしか思えない。
「まだ時間があるけど、今から着替えてしまって、行くまでどうして居れば良いんだ?」
「気にするな。こうして話している内に時間になる。道中は急がず、ゆっくり歩いて行くからな。」
「行くからって、爺ちゃん、その怪我で付いて来るつもりかよ。」
家でじっとしている方が良い。もう齢なんだから。第一、でかい絆創膏を貼った姿で一緒に居られちゃみっともない。
「阿保。一人で行かせられるものか。家族の者が付いて行かずに何とする。」
「そんなこと言ったって、どうせ大鳥居の前までしか付いて来れないだろ。大して変わらない。」
「そういうもんじゃない。『もりひこ』の大任を担う身内を支援するのは家族の役割じゃ。茂が仕事で付いていけんのなら、儂が行かんでどうする。」
「『もりひこ』の大任って…」
和人は呆れた顔をしたが、直ぐに真顔に戻る。
やっぱり、何かの儀式が待っているのだろう。
「和人、よう『もりひこ』を引き受けてくれた。」
急に清吉が真剣な表情になる。
なんだ、急に。
「まだ、これから本番だろ。」
「今年の『もりとえらび』は、お前が居たから何とかなる。お前が頼りだった。」
いつも、叱ってばかりの清吉から感謝めいた言葉が出ると、却って気持ち悪い。
「この先は、どうなるか…。7七年後の子供等は、男も女も複数人いるが多くは無い。今の様に島を離れる家族が後を絶たないと油断しておれん。せめて儂等が生きている内は神酒井神社の例祭を絶やさぬ様にしたいんだが。」
清吉は畳を見たまま、此処まで言うと口をつぐんだ。
「なんだよ。神酒井神社は由緒正しい神社なんだろ。爺ちゃんがいる内なんて弱気でどうするんだよ。」
思わず口からこんな言葉が出たが、自分でもおかしいと思う。神事を変えようとしていた自分が言っても慰めにもならない。どうしようもない事実が、この島の将来に立ち塞がっているのを意識するだけだ。
「爺ちゃん…。」
これ以上、掛ける言葉は無い。何かを口にすればする程、虚しくするだけだ。
「和人、お前は、大学に行くのか?」
清吉は、やおら顔を上げて和人を見る。
「何だよ、急に。」
予想しない問いかけに身構える。
「どうするつもりだ。もう、高校二年生だろ。進路を決める頃だ。」
「言われなくても分かってる。まだ、決めてない。…けど、行くかもな。」
「そうか…。」
清吉はゆっくり二度、三度と首を縦に振る。大学に行くとなれば、当然、この島を離れる。大抵の若者はそうやって島を離れ、二度と戻って来ない。
「何だよ。何が言いたいんだよ。はっきり言えば良いだろ。」
「いいや、何も無い。お前が決めろ。…良いか、夕方、神社に行ったら、宮司にこの前の非礼をしっかり詫びるんだぞ。判っているな。」
急に元の清吉に戻ると、腕を組んで和人を睨む。そうか、丈一郎の親父さんと嫌でも顔を合わせる事になる。この前、勝手に飛び出して来て以来だ。俄かに気が重くなってくる。
「それは分かってる。自分で何とかする。」
和人は項垂れた。