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なんで俺?

    9月


 無心だ、無心。無心。

 公頭和人くがしらかずとは弓構えて、的を見つめる。

 何も考えちゃいかん。頭を空っぽに。空っぽ、空っぽ。

 ゆっくりと矢を番えた弓を持ち上げて引分ける。

 的に集中。的に意識を集めろ。…ん?的に集中するって事は、的の事を考えてしまっている?此処は、的をぼんやり眺めるのが正解か?いや、それじゃ、狙いが定まらないでしょ。…いやいや、こうやって考えていちゃ駄目じぇね?え~、でも、考えなかったら矢を飛ばす方向とか調整できないよね。

 弓を引いた姿勢のまま、矢の先は定まらない。

 あー。もう、わからん!

 和人の放った矢は、(わず)かに弧を描いて、小さな風切音と共に安土(あづち)目掛けて飛び去ると、土の壁に突き刺さる。丸い的の左下だ。

 またか…。

和人は、弓を持った左手と弓掛ゆがけを嵌めた右手をゆっくりと降ろす。和人の向き合う的は綺麗なままで、周囲の安土に、右上に1本、左下に2本、右に大きく外れて1本、矢が刺さっている。

公頭くがしらァ。」

 和人の背後から声が飛ぶ。

 いっ…、『やません』だ。

 山田先生が陣取っていると思しき方を振り向けば、仁王立ちした『やません』の鋭い眼光とぶち当たる。五分刈り頭のうえに目つきの悪さで、とても堅気の人間には思えない。山田先生は表情を変えずに和人を小さく手招きする。

 またか~。

 矢を全て射終えた和人は、渋々山田先生の元に向かう。腕組みをした山田先生は、もう和人の事を見ていない。他のメンバーの練習に目を遣っている。それはわざと和人を無視しているのか、無意識か。

「おう、公頭。お前、『かい』が出来ていない。単に間を空ければいい訳じゃないぞ。放つタイミングを自分で感じ取れているか?」

 また、この話だ。それが分かっていたら、苦労しないっての。

「はあ。」

 感じ取れているとは言えない。言えば、『そんなわけないだろう』と言われるに決まっている。分からないと言えば、『お前2年生になって、まだそんなか』と言われるだろう。曖昧な返事しか出来ない事は、山田先生だって分かっているくせに、それを訊くか。

「『離れ』に向かって、体と心の準備が出来ていないで動作を起こすからぶれる。」

「…」

 和人は俯いて、上目遣いで山田先生を見る。

「お前、体力的には申し分ないから、後は此処(ここ)の問題だ。」山田先生は右手で自分の胸を叩く。「精神を落ち着ける訓練をしてみろ。風呂の後に座禅するとか。」

「はあ。」

「まぁ、ちょっと考えてみろ。」

 煮え切らない和人の態度はいつもの事だ。山田先生も半分諦めている。和人だって、上手くなりたくない訳は無い。でも、精神を落ち着けろと言われても、どうして良いものやら分からないから困っている。理解出来ないから、答えだって曖昧になる。

 山田先生から解放されて、射場の後ろに下がると、正座して他の部員の試技を見学する。和人はぼんやりと試技を行なう(さかき)丈一郎の後ろ姿を眺めていた。真っ直ぐに伸びた身体、ゆったりと矢を番える両腕。

 やっぱり、丈一郎は違う。自信がみなぎっている。自分とは格が違う。まぁ、そりゃ、そうか。今年から部長だし、インターハイじゃ、個人戦で県大会出場だから。選抜メンバーから落選した自分とは別格か。

 タン。

 的を射抜く音が心地よく響く。丈一郎は一の矢から中ててくる。稽古場の側面、フェンスの向こう側で練習を見学している女子達から黄色い声が控えめに漏れる。

「公頭先輩。」

 隣に座っている1年生の沢崎が軽く和人の腕を叩く。

「ん?」

 和人は前を見たまま反応してやる。

「新部長は公頭先輩と同じ一ノ島ですよね?」

「お前、今更そんな事訊くのか。1年生だとしても、それを知らないようじゃあ、島高の生徒としちゃ失格だな。」

 公言している者は少ないが、陰で丈一郎ファンの女子は沢山いると聞く。男子の1年生だとしても、弓道部の部員なのに、丈一郎の事を知らないとはとんでもない。

「いえ、知っていますけど、訊きたいのはそこじゃなくて、公頭先輩も一ノ島だとしたら、以前からよく知ってらっしゃるって事ですよね?」

「何だ?何が言いたい?」

 俺と丈一郎が知り合いじゃあ、おかしいってか?

「どうしたらあんなに上手になれるのかなって思って。小さい頃から弓やっていたんですか?」

 そうか、沢崎は本土の人間だ。一ノ島の事を知らなくても不思議はない。

「ああ、あいつの家は神社の宮司でな。神社には立派な弓道場があるのさ。そこで小さいうちから稽古させられてる。」

 一ノ島に住む自分も小さい頃から練習させられた事は敢えて言わない。長い事やっているから、丈一郎は上手いと思わせておけば良い。

「やっぱり練習かぁ。」

 沢崎は勝手に納得した様だ。それで良い。無駄口で『やません』に目を付けられるのは御免だから、沢崎が納得したところで話を終わりにする。

 タン。

 的に中る音に続いて、こそこそと女子達が騒めく声が聞こえる。

 あんな女子に注目されて、声が聞こえて来るような状況で、どうしてあいつは冷静に弓が使えるんだ?あいつの神経は鋼鉄か?神経失くしちゃったのか?

 沢崎に言われて、今更ながら沸々と嫉妬心が頭をもたげて来る。丈一郎の事は嫌いじゃない。いや、むしろ親友だ。小さい頃からずっと一緒に学校に行っている。一ノ島の小中学校の分校には学級毎にクラスが1つしかないし、同級生の男子は2人だけだから、どうしたって仲良くなる。小さい頃から一緒に遊んで、お互いの性格も分かっているつもりだ。そのつもりだけど、あんなに女子に注目されていながら、平気で的に矢を中てる丈一郎の精神状態は理解できない。

 神酒井神社にだけ伝わる秘伝でもあるのか?

 そうやって眺めてみると、何だか丈一郎の後ろ姿から怪しげなオーラが出ている様に見えて来るから不思議だ。和人は丈一郎の後ろ姿を見ながら、小さく溜息をついた。


「和人、今日は真っ直ぐ帰るのか?」

 部活が終わり、制服に着替えていると、丈一郎が話し掛けて来る。部活が無い時や早く終われば、最近、和人は本土の悪友達と商店街に寄って行く事が多いから、こんな訊き方をされるのも仕方ない。

 島に高校は無い。高校は島の対岸、島平市しまだいらしの高校に行く。商業高校と工業高校もあるが、大学進学を目指すなら島平高校だ。だから、丈一郎も和人も島平高校に進んだ。それまで島の仲間しか知らなかった者達が圧倒的多数を占める本土の生徒達の中に放り込まれる。それは、島の子供達にとって、文明開化の様な物だ。それぞれに親しい本土の仲間が出来る。そうやって、丈一郎と和人の間も緩やかに距離が開いていった。

「ああ、今日は帰る。」

 ワイシャツに袖を通す。

「今からなら、45分の連絡船に間に合うぞ。」

 見れば、丈一郎はすっかり帰り支度が出来ている。片手に弓を収めた弓袋を持っている。

「ちょっと待って、もうすぐ終わる。」

 シャツのボタンを急いで止める。

「榊部長、お疲れ様です。」

 帰り支度を終えた部員達が、挨拶をして部室を出て行く。インターハイを終えて、3年生から新しい弓道部部長を言い渡されたのが丈一郎だった。実績と人望と、どれを採っても申し分ない。誰も異議を唱える者など無かった。

「ああ、気を付けて帰れよ。」

 丈一郎は振り向いて挨拶を返す。彼はやっぱり爽やかな青年だ。

「丈一郎、良いぞ。」

 和人は、鞄を肩に掛け、弓巻(ゆま)きした弓を片手に持つ。

 2人は、港まで並んで歩いた。夕暮れが近づく歩道に2人の影が長く伸びる。昼間の太陽に焼かれたアスファルトからは、盛んに熱気が上がって来る。ろくに会話もせずに歩を進める。男同士では噂話に花を咲かせる事も無い。高校に入ってすぐの頃は、学校から港まで、島に戻っても、港から丈一郎の家がある神酒井神社まで、こうして並んで歩いたものだ。部活が終われば真っ直ぐ家に帰る丈一郎と、そうしなくなった和人が、こうして一緒に並んで帰る事は、いつの間にか少なくなった。

 一ノ島の男の子は、小さい頃から剣道か弓道をやるように強制される。島の神酒井神社には、島の人口にそぐわない大きな剣道場と弓道場があり、そのどちらかに通わせられる。丈一郎も和人も弓道を選んだ。同い年の男の子は2人だけ。弓道場でも学校でも、いつでも顔を合わせれば自然と友達になる。そうやって、小さい頃から一緒に過ごしてきた。

 高校に入ると、それまで島の仕来りを強制された反動から、野球やサッカー部に在籍する者も出て来るが、和人も丈一郎もそんな事はしなかった。丈一郎は代々神社の宮司を務める榊家の長男だ。自分の立場を自覚すれば、それしか道は無かったろう。本当の気持ちは計り知れない。しかし、責任感の強い丈一郎は、きっと自身の境遇の事など、とっくに納得して振舞っているに違いない。一方で、和人の気持ちは曖昧だった。小さい頃に剣道でなく弓道を選んだのだって、剣道の防具が汗で臭くなるのを嫌ったからだ。高校に入っても弓道を続けているのは、長年習い慣れたものが手っ取り早かったし、島から通う男子生徒は、代々そのまま剣道部か弓道部に入る習わしに逆らってまで、他の部を選ぶ理由も気持ちも持ち合わせていなかっただけに過ぎない。

「帰りに家に寄って、手紙を公頭のじっちゃんに持っていって欲しいそうだ。」

 丈一郎は、歩きながらスマートフォンを眺めている。

「手紙?」

「ああ、さっき親からメールが来た。」

「分かった。」

 わざわざ自分が寄らなくても、どうせ爺ちゃん暇にしているから、直接爺ちゃん呼べば良いのに。大体、電話でも用事は済むじゃないか。

 丈一郎に文句を言っても仕方がない。どうせ通り道だ。本音は口にせずに飲み込む。

 港の連絡船の船着き場には、10人余りの乗客が屯している。大体が知った顔だ。この時間は一ノ島から島平市の高校に通う生徒が大半だ。1時間に2往復しかない連絡船では、部活帰りの生徒は大概同じ船になる。

 和人は船を待つ人々に目を走らせる。暮れかけた上に遠くからでは、人の表情までは分からない。それでも、見知った者は大体の容姿で判別できる。人の群れの中に意中の人はいない。別に居たからと言って、積極的に話し掛ける訳でもない。それでも、まるで習慣の様にそうせずには居られない。

「ちわ。」「ウっす。」「こんばんわ。」

 お互い年齢の上下関係は分かっている。待合の群れに入ると挨拶を交わす。

「丈一郎と和人が帰りも一緒なんて、最近じゃ珍しいとちゃう?」

 山志部明奈やましべあきなが2人に近付いて来るなり不躾に言う。同じ島平高校に通う同級生だ。

「うるせぇな、黙ってろ。」

 条件反射的に和人は声を上げる。気持ちも体も疲れたところに揶揄(からか)われると、何だか(しゃく)に障る。

「大概、僕は最後の戸締り確認してからの事が多いからね。」

 丈一郎は、こんな事までフォローする。

 そうじゃない。自分が真っ直ぐ帰らないからだ。

「ねえ、部長になって、なんか変わった?」

 明奈は、和人を無視して丈一郎に話す。

「そりゃ、思ったよりも大変。定例の部長会議にも出なきゃならないし、試合の渉外とかもあるし。」

「へぇ、そういうの、顧問がやってくれると思ってた。」

「対戦相手を決めるのはそうだけど、相手が決まると、向こうの部長さんと細かい打ち合わせをしたりする。」

「お前、バレー部だろ。バレー部の部長は忙しそうにしていないのかよ。」

 無視されても、懲りずに脇から和人が口を挟む。

「え?忙しそうだけど、部長の仕事に興味無いから。和人は部長の仕事、理解していたの?」

「そりゃ…、大体想像できるだろ。」

 乗船が始まる。(たむろ)していた人々は、ゆるゆると乗船ゲートに向かう。3人も微妙な距離を互いに保ちつつ、船に乗る。

 連絡船はフェリーだ。とは言え、大型トラックはとても載せられない。4トントラックが載ったら、もう一杯だ。徒歩やバイク、自転車の乗客達が、定められた儀式の様に黙々と船の中へ行進していく。九月は夕方になっても、まだ暑気が残る。多くの客は空調の効いた客室に入って行く。和人達3人は、そのままデッキで海風に吹かれながら、船の水流で泡立つ港の海面を見て手すりにもたれた。長い弓を持って、天井が低い船の客室には入りにくい。弓道をやっている島の高校生は大抵デッキで過ごす。片道15分弱の間だ。冬は吹き曝しになるが、耐えられない時間ではない。

「バレー部のインターハイの成績はどうだったの?御免、俺知らなくて。」

 丈一郎は2人に付き合ってデッキに残った明奈に話し掛ける。丈一郎が明奈を独りぼっちにしない様に気遣う気持ちは分かるが、和人にその話題は禁物だ。

「地区予選トーナメント3位。去年、4位だったから、1つ上がったけどね。」

 明奈は少し自慢げだ。

「県に進めるのは何位まで?」

「上位2校。2位とは1勝差だったから、もうちょっとだったんだ。」流石に明奈の口調には悔しさが滲む。「でも、県に行けたをしても、弱小地区だから、上位入賞は難しいけどね。」今度は誤魔化すように笑って見せる。

「そっか、残念だったね。バレーは金輪田(かなわだ)高が強いって聞いたけど。特待生がいるような高校には敵わないよね。」

 丈一郎の応対は紳士だ。

「バレーはチームでやるスポーツだから、1人や2人凄い人が居ても、それで勝てる訳じゃないけどね。とは言え、そういう高校は練習も半端ないから。」

 明奈の言葉に、丈一郎は深く頷いている。

「弓道部はどうだったの?」

 ほら来た。これが嫌だったんだ。

「弓道は団体戦以外に個人戦もあるでしょ?」

 明奈は丈一郎と和人の表情を交互に見ている。和人はあからさまに不機嫌な顔になる。

「うん。団体戦は県5位入賞だったよ。」

 丈一郎はさりげなく、団体戦の戦績だけを伝える。

「うちの高校、弓道盛んだもんね。それで個人成績は?」

 明奈、お前、それを訊くか。丈一郎がサラッと話題を避けたのに気付けよ。

「俺は、県四位だった。もうちょっとで3位になれたんだけどね。残念。」

 丈一郎は照れ笑いをする。

「凄いね。流石、丈一郎。一ノ島の面目躍如ってところ?」

 屈託なく、明奈は丈一郎の二の腕を叩く。

 別に明奈のボディタッチなんか羨ましくないから、そこで話題は終わってくれ。

「そうでもないよ。数年前には一ノ島から県1位の人が出た位だから。」

 丈一郎は謙遜のつもりだろうが、ついでにこっちのハードルも上げているぞ。

「それで、和人は?」

 無邪気な笑顔がこっちに向く。

 やはり、予想した展開になったか。恐れていた事態だ。話し掛けるなオーラを出しているつもりだったが、鈍い明奈には無駄だったか。

「別に。…どうだって良いだろ。」

 自分で考えても、上手く誤魔化せているとは思えない。結果を言いたくないのが見え見えだ。

「えぇ?何。恥ずかしい様な内容?大丈夫。笑ったりしないから。私だって、準レギュラーで試合に出たり出なかったりしてるから。」

 明奈が近づいてきて、和人の肩をポンポンと叩く。

 だから、そのボディタッチ必要ないから、これ以上しつこく訊くな。

「あれ?あたし、地雷踏んだ?」

 答えない和人の様子を見て、陽気に丈一郎に訊く。

 漸く気付いたか。…もう遅いがな。

「まあ、地雷って程じゃないと思うけど。」

 いいんだよ、丈一郎。一々生真面目に答えなくても。

「ふーん。そうなんだ。」

 もう此処迄来れば、言わないで終わっても、言ってしまっても同じだ。むしろ言わないと、小さい事をウジウジ気にしている情けない男だと思われかねない。まあ、そうだけど。

「いいよ。隠すほどの事じゃないから。」ついつい、ぶっきら棒になる。「今年はメンバーに選ばれなかっただけだ。」

「『今年は』って、去年は選ばれたの?」

 って、こいつ、デリカシーって物が無いのかよ。

「俺の言い方が悪かった。去年も今年もだ。来年に向けて頑張ります!」

 もう、やけだ。

「ああ、そうかぁ。今年の弓道部の3年は、島の人が多かったんでしょ?」

 明奈の声は、底抜けに明るい。

「そう、6人。実力が一緒なら、3年生優先になっちゃうから。」

 丈一郎、いいよ、そんな慰めにもならない言い訳しなくても。

「それじゃあ、しょうがないね。来年は?島の同級生は丈一郎と和人だけでしょ。」

 弓道部に限らなくても、一ノ島から通っている男子の同級生は丈一郎と和人だけだ。

「来年はレギュラーだね。」

 明奈よ。お前はどうしてそんなに楽天的なんだ。

「お前、島の者なら本土の奴より上手い前提じゃねえか。」

「え?違うの?和ちゃん、大丈夫だよ。それはあたしが保証する。」

 明奈は和人の肩に右手を置き、左手を己が胸に当てて何度も頷く。

「お前もバレー部なら分かるだろ。経験や練習じゃあ、超えられない事もあるんだよ。才能がある奴は、凡人がいくらやっても出来ない事を、ものの5分でやって見せたりする。」

 天賦の才の前に凡庸は敗れ去るしかないものだ。

 真面目な顔で和人を見ていた明奈は、堪え切れずに吹き出す。

「アハハ。和人ぉ、なぁにそれ。もう、和ちゃんたら、弱気になっちゃって。小学校の頃のガキ大将ぶりはどうしちゃったのぉ。」

 やっぱり、こいつ癇に障る。チョコチョコ小さい頃の呼び方を挟むな。

「お前、馬鹿にしているのか。」

「御免、御免。そうじゃなくて、ほら、いっつもみんなの先頭走ってた和ちゃんは、ちっちゃい事、気にしない人だと思ってたから。ね、元気出して。」

「ふん、大きなお世話だよ。」

「もう、和人君は素直じゃないなぁ。」

 和人は、それには答えず、2人に背を向けデッキから海を見る。明奈もそれ以上和人にはかかわらず、丈一郎と違う話を始める。漸く解放されて、和人は舳先から周囲に広がって行く航跡をぼんやりと眺めていた。

 こんな時は、高々15分の乗船時間も長く感じる。もっと楽に通学出来ないかと頻りに思う。和人達が小さい頃に連絡橋建設の話が持ち上がったが、いつの間にか話題に上らなくなった。本土から目と鼻の先の距離にある1周20キロ程度の小さな島。この規模で、これといった観光資源も産業も無ければ橋の建設には無理がある。結局、和人が生まれるずっと前から運行していて、恐らく公的支援が無ければ継続できない、古い連絡船が島の生活を支え続けている。

 連絡船から桟橋に降りたところで山志部明奈とは別れた。彼女は島を周回する唯一の幹線道路を、港から左に4分の1周したところに住んでいる。榊丈一郎の家は港の右手奥、山を背にした神社の境内の中だ。公頭(くがしら)和人の家はその前を通り過ぎ、一ノ島1番の集落の中を通り抜けた向こうにある。和人は、丈一郎と並んで榊の家に向かった。

「全く、明奈の奴、人を馬鹿にしやがって。」

 結構、選抜から漏れた時は傷付いたんだぞ。

「別に明奈ちゃんは、和人を馬鹿になんかしていないと思うよ。元気出して欲しかったって言っていただろ。」

 丈一郎は遠慮がちに反論する。

「丈一郎はほんと人が良いよなぁ。」

 和人は夜空を見上げる。

「そうじゃなくて…、ほら、明奈ちゃんは小さい時から俺達と一緒に遊んでいただろ。和人が元気無いから、心配してくれたんだよ。」

 背が高くて肩幅も広く、がっちりした体躯にもかかわらず、丈一郎は穏やかに話す。

「『明奈ちゃん』って…。丈一郎、明奈が好きなのか?」

 中背の和人は下から丈一郎を見上げる。

「おい、何でそうなる。嫌だな。誤解するな。」

 こいつ、冷静だな。別に誤魔化している訳じゃないか。

「和人はどうだ?明奈ちゃんをどう思う?誰か好きな人はいるのか。」

 おお、急に切り込んで来た!

「なんだ?それ訊いて、どうする。明奈は女っぽさが無い。もっと、こう…柔らかな感じじゃないと。」

「ふうん。女っぽさねぇ。そんな子、高校生でいるかな。」

 お前は、直ぐ傍に居過ぎて気が付かないんだろ。第一、モテモテの丈一郎ならタイプなんか気にせずに、より取り見取りだな。

「いるさ。いるんだよ。お前は気付いていないだけ。」

「そうか。そうかもな。」

 何だか、丈一郎は妙に納得して黙り込む。和人も丈一郎の雰囲気に、何か話しかけにくいものを感じて黙りこむ。

 夜の空気が周囲を包んでいる。街灯の明かりがある周回道路から折れて、神社の大鳥居をくぐると、静まり返った鎮守の森の木々に(まと)わりつく闇が二人の青年を飲み込む。わずかに白く浮かび上がる参道の石畳を目安に、2人は二の鳥居の手前右手にある榊の家を目指す。暫くすると、木々の枝葉の間から榊家の玄関灯の明かりが見えてくる。何かほっとした気分になりながら、自然と2人の足は早まる。

「ただいま。」

 曇りガラスがはめ込まれた、古い玄関の引き戸を丈一郎が開ける。

「お帰り。おや、和人君も一緒。」

 たまたま、廊下に出てきていた美里が声を掛ける。榊美里は丈一郎の一つ上の姉だ。もう制服を脱いで、部屋着に着替えている。背の高い丈一郎と姉弟とは思えない位小柄で柔らかそうな肢体は女らしさを感じさせる。この前までバドミントン部の部長をしていたとは思えない程の肌の白さと艶やかなショートヘアが魅力的だ。

「こんばんは。」

 和人は玄関の敷居の外でペコリと頭を下げる。俄かに緊張が走る。

 おいおい、いきなり居るなんて、反則ですよ、美里さん。

「母さん、丈一郎帰って来た。」

 美里は、茶の間に向けて声を掛けると、軽く和人に会釈しながら廊下をすたすたと歩いて見えなくなる。

「親父、和人に来てもらったぞ。」

 丈一郎は靴をぞんざいに脱ぎ捨てて玄関に上がると、どたどたと廊下を歩いていく。

 美里が視界から消えた方向を物足りなげに見たまま、和人は玄関前で待つ。茶の間に消えた丈一郎はすぐに廊下を戻って来る。玄関の上がり端まで来ると、右手に持っている紙を前に差し出す。和紙だ。長方形に折り畳まれて、表面に墨で宛名が書かれている。時代劇に出て来る手紙そのままだ。

「これ、和人のじっちゃんに。」

「あ、ああ。」

 そのままでは手が届かないので、仕方なく和人は敷居を跨いで玄関の中に入ると、手紙を受け取る。

「和人君、『もりとえらび』もうすぐだね。」

 手紙と丈一郎に気を取られている間に、美里が廊下に戻って来ていた。

「え?あ、そうですね。」

 油断していた和人は、美里の登場に驚きながらも、何とか応対する。

「『もりひこ』をやる気持ちってどんな感じ?」

 美里は玄関前で立ち止まると、和人に微笑みかける。

 ああ、なんて癒される笑顔なんだ。ずっと見ていたい。ん?今なんて言った?

「え?『もりひこ』?もう、俺って決まったんですか?」

「あ、御免なさい。私、てっきり…」

「え?」

 和人は理解できずに美里と丈一郎の様子を窺う。美里は、どうして良いかわからずに固まっている。

 いやいや、何言っている?丈一郎だって資格あるよね?それとも、もう選んじゃったのか?

「あのさ、俺達の代、男で数えで18なのは俺と和人しかいないだろ。だから、和人は決まりなんだよ。」

 丈一郎が気不味そうに補足する。

「え?」

 和人は恐る恐る、右手を上げて丈一郎を指差す。

「俺は、榊の家の者だから、『もりひこ』にはなれないんだ。」

 丈一郎は静かに言って微笑む。

 そんな…、今まで、そんな話聞いた事が無いぞ!

 覚悟が無かった訳ではない。小さい頃から『もりとえらび』の年代だと聞かされてきた。『もりひこ』になる権利がある男子は、丈一郎と和人の二人しかいない事も理解していた。だから確率は2分の1、自分が選ばれる可能性が結構ある事は自覚していた。だからと言って…

 榊の家から自分の家まで、和人は街灯の少ない旧道をとぼとぼと歩いた。自分が構えていないところで不意打ちを食らった格好だ。気持ちの整理はそう簡単につかない。

 『もりとえらび』は一ノ島に伝わる古くからの神事だ。7年に一度、数えで18歳になった者の中から、男女1人ずつを選出する。選出は、宮司1人が占いで導き出した、とある日の(うし)の刻に行う。神酒井神社の宮司が、神棚の前で該当する者の名前が書かれた木札の中から銛で刺して選ぶ。選ばれた男は『もりひこ』、女は『もりひめ』と呼ばれる。『もりひこ』『もりひめ』は、9月の満月の夜、神酒井神社に出向き、そこで夜を明かす。神事はそれで終わる。話に聞く限り、誰が選ばれたかは、当日になる迄限られた関係者以外には知らされず、当人もその前日に言い渡されると聞いていた。更に一般の者達まで知れ渡るのは、当日、神社に向かう当人を目撃するか、その日が明けて、噂が広まってからだ。なのに、まだ満月の夜まで日があるこんな時に宣告されてしまった。当日までどうやって過ごせば良いだろう。

「姉さん、何で言っちゃうんだよ。」

「御免、御免。決まっている事だから、和人君も知っているものだと勘違いしてた。」

 榊家の玄関で、榊姉弟は、唖然としている和人そっちのけで、そんな会話を軽い感じでしてたけど、事はそんなに簡単じゃない。何しろ、もう1人選ばれる『もりひめ』と1つ屋根の下で1晩一緒に過ごさなければならないのだから。


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