結界
夕飯を食べ終わると、もうすることが無くなった。和人と明奈は、テーブルごと夕食の膳を部屋の隅に押しやると、座布団の上で思い思いに足を投げ出して座った。テレビがある訳じゃない。本もラジオもない。
「お前、スマートフォン持って来たんだろ。SNSで友達とやり取りしないのか?」
明奈は、スマートフォンをまた襟元にしまっている。
「そのために持って来たんじゃないから。儀式の様子を撮ろうと思っただけだから。第一、今やったら、『もりとえらび』にスマートフォン持ってきてるの、バレバレでしょ。」
そうだ。明奈は協力しようとしてくれている。
「俺、土曜日まではほんとに『もりとえらび』を変えようとしてたんだ。7年前に『もりひこ』をやった伊邑さんに連絡取ったりして。」
和人は言葉を切った。でも明奈は口を挟まず、次の和人の言葉を待っている。
「それで、日曜日に伊邑さんに会いに行ったんだ。『もりとえらび』で何が行われるのか教えて欲しいって言って。何だか、良く分からない人だった。」
「教えてもらったの?」
和人は首を横に振る。
「結局、教えてくれなかった。それが決まりだって。今晩、自分で体験すれば、俺にもそれが他人に話すべき事じゃないって分かるって言って。俺、京都まで行ったんだぜ。小遣いはたいて。1日かけて。伊邑さんの話は、何言っているのか全然分からなくて。…でも、そんな事して、帰りの電車の中で思ったんだ。なんか、俺、ちっちゃいなぁって。伊邑さん、京都にいて、この島から離れているけど、『もりとえらび』の決まり守って、他人には何も話さないでいた。きっと、この島の事、大切に思っているんだなって思ったら、何だか、自分は何しているんだろうって気になって来ちゃって。」
『もりとえらび』ってこんな内容じゃなくて、もっとびっくりする様な知らされていない何かがあると思っていたのに、拍子抜けだ。
気付くと、明奈は畳の上で横になっている。疲れてしまったのか、話がつまらなかったのか、もう寝てしまっている様だ。
和人は軽く溜息をついた。
これから明日の朝までの長い時間、明奈と二人きりで、どうやって過ごそうという緊張から解放された。こうやって何事も無く、穏やかな1日として今日が終わって行くのも悪くないだろう。
畳の上で寝たままじゃ、可哀想だ。
「おい、寝るなら、歯を磨いて…」
明奈を起こそうと立ち上がりかけた時、視界がぐらりと揺れる。
猪口一杯だけなのに酔っぱらったかな。酒を飲む事なんか滅多に無いから。
視界が歪んだのは一瞬だけだ。和人はすぐに姿勢を立て直すと明奈に近寄り、彼女の肩を掴んで揺する。揺すられた彼女が目を開けて和人を見る。
「オオアナムヂ様、お久しゅうございます。」
明奈はそう言うと、上半身を起こして、和人に抱き着いて来る。
「スセリビメ」
和人も明奈をしっかりと抱きしめる。
な、何しているんだ。何で、自分は明奈と抱き合う事になったんだ?酒のせい?
暫く抱き合った二人は、離れると互いを見つめ合う。明奈の瞳が驚いている。表情もひきつっている。多分、自分の表情も同じようにひきつっているのに違いない。自分達で抱き合っていながら、何でそういう行動をしたのか、理解できていないのだ。
そうか、自分に大穴牟遅が降りていて、彼女には須勢理毘売が降りている。
そんな名前は知らない。なのに、頭の中にそんな理解が急に湧いて来る。何なんだこれは!
大穴牟遅は大国主、須勢理毘売は須佐之男の娘。
うわあぁ、何だか分からなくて良いから、勝手に頭の中に湧いて来るな!
〈なんじゃ、せっかく、人が親切に分かりやすくしてやっているのに。〉
今度は頭の中で男の声がする。
なんだ、何が起きている。
兎に角、こうやって勝手に動く体に付いて行けば良いと頭に浮かぶ。
止めてくれ、勝手に頭の中に考えを入れ込むな、頭がおかしくなる。
〈なら、こうやって話し掛けるのなら良いか?何等かの格好でお前に知識を与えないと、役に立たないのでな。〉
まだ、こっちの方がましだ。幻聴だと思えば、何とかなる。
〈良いから、兎に角落ち着け。暫くお前の体を借りるだけじゃ。〉
勝手な事を言うな。こっちの身にもなってみろ。
〈お前は『もりひこ』じゃろ。だったら、覚悟を決める事じゃ。〉
『もりひこ』?そうか、『もりひこ』も『もりひめ』も代理人ってことか。
〈流石に元は馬鹿でも、頭の中に直接教え込めば、物分かりが良いのう。ただ、代理人でなく、『でく』だがな。〉
『でく』って?操り人形ってことか。人権無視だな。
〈大陸の文化に惑わされおって。良いから、動くぞ。これからが本当の『もりとえらび』じゃ。〉
和人は、明奈と手を取り合って立ち上がる。こうしてみると、頭の中のやり取りはほんの一瞬だったことが判る。
「支度をしようぞ。」
和人は自分で言っておきながら、支度の意味は分からない。
「はい。かしこまりました。」
いつもタメ口の明奈にはふさわしくない口調だ。
2人は手を放すと、それぞれに神棚に向かう。和人は生弓生矢を取り上げる。白木の置き物だったそれが、持ち上げると実物大の弓と矢に様変わりする。矢は矢筒に何本も入っている。矢筒を担ぎ、弓を持つと、明奈の支度を待つ。明奈は、神棚から銅鏡を取り上げると、取っ手に通された紐に頭を通し、首から提げる。二人は互いに準備が出来たのを確認すると、手を握る。
こいつら、どんだけ仲が良いんだ。
〈お前も好きじゃろう。〉
何言ってる。自分が好きなのは、美里さんだ。
〈気の多い男よ。〉
違う。美里さん一筋。
〈お前もこの娘も、私等は頭の中に入り込んでいるんじゃ、言い訳しなくてよろしい。〉
2人は後ろを振り返る。
ううぇ~!
さっきまで、三方を襖で囲まれていた筈のこの部屋に、目の前、真っ暗で大きな穴が開いている。まるで異世界につながるワームホールの様だ。
〈異世界につながる、その、なんちゃらって、全くお前は日本人か。〉
て言うか、あんたの時代だったら、日本人って言い方もおかしいんじゃないか。倭人とか…。
〈全く、変な所ばかりこだわりよる。お前に分かるように言葉を選んでやっているのに。それに、私は大穴牟遅じゃ。『あんた』なんか気安く呼ぶな。〉
悪かった。まさか、あの穴に入るんじゃないよな?
〈お前はこの状況で、他に何があると思っている。〉
やっぱり~。一体俺達をどうする気だよ。ほんとに平和な明日の朝が来るんだよなぁ?
〈気に病むな。すぐに済む。〉
「オオアナムヂ様、どうなさいました。」
明奈が話し掛ける。あいつも須勢理毘売とか言う奴に操られているのは分かるけど、何ビビってるんだよって、明奈の顔に書いてある。これは明奈本人の気持ちだろう、たぶん。あいつ、もうこの異常事態に馴染んでるのか。どんだけ適応力高いんだよ。
「うむ、では参ろう。」
和人は明奈の手を引いて、暗い穴に入って行く。和人本人は震えあがっているのに、体は堂々と進んでいく。穴の中は真っ暗かと思ったが、部屋から入る光を穴の壁が反射し、微かに輝いて、周囲がごつごつとした岩で出来ているのを知らしめている。だんだん暗さに目が慣れると、更に状態が分かってくる。足元もごつごつとした岩だ。足元が悪いのに、躓かずに歩いている自分が不思議だ。先は真っ暗で何処まで続いているか分からない。どうやら少しずつ下っている。
まるで地獄に降りて行く様だ。
〈ああ~、またか。お前だけじゃないが、最近の若者は大陸文化に染まり過ぎちょる。〉
今度は何が気に入らない?
〈良いか、この国には元々、天国も地獄もない。少し前は極楽と地獄だったが、同じ事じゃ。〉
別に良いだろ、何て呼ぼうが。て言うか、極楽と地獄なら日本の言い方じゃないのか?
〈馬鹿者、大間違いじゃ。それも天竺からの借り物。いいか、よく覚えておけ。この国の死後の世界は黄泉の国一つ。良い行ないをすれば極楽に行けて、悪い事をすれば地獄送りなどと教えるから。物事を白黒はっきりしなければ居れない輩ばかり増えとる。〉
ヨミノクニ?なんか聞いたことある。死ねば誰でもそこに行くって事か。でも、生前に何をやっても同じって、神様は善行を行なう者にご利益を与えてくれるんじゃないのか?
〈私等は人の行ないを値踏みなどせん!八百万の神は、全ての物に神が宿っておるということ。神はその物に込められた人の思い。人が神を育み、神が世をつかさどって来た。それがこの国。私等は元より人を裁く立場にない。〉
なんだか、良く分からないが、分かった気分にさせられる。少なくとも、あんた、いや、大穴牟遅が神様だって事は分かった。
〈なんじゃ、その程度の理解か。だから、頭に直接植え付けてやる方が良い。賢くなるぞ。〉
いや、止めてくれ。自分の能力を超えて、気持ち悪くなる。…で、今、そのヨミノクニに向かっているのか?
〈いいや。祠に向かっておる。…ほれ、見えて来た。〉
ぼんやりと薄明るい場所が先に見える。通って来た洞窟の様な狭い通り道とは違い、地下に広がる鍾乳洞の大広間の様に、周囲を岩で囲まれた広い空間に出る。目の前には1メートル位の高さで石の柱が列をなしている。列柱はぐるりと輪になり、中にある生物を閉じ込めている。まるで動物園の屋外展示の様だ。ただ、中で蠢く大きな生物らしき物はサイや象の比ではない。まるで竜盤目の恐竜の様な容姿、灰色の胴体に短い四つ脚を踏ん張り、長い首をうねらせている。異様なのは、その長い首が沢山あることだ。1つ、2つ…7つ、8つ。8つの首を縦横無尽に振り回している。長い首を天に向けて伸ばせば、10メートルの高さにもなりそうだ。
なんで、あの怪物はあそこでじっとしているんだ?
〈この石の柵には結界が張ってある。あやつは、そう簡単に外には出られない。〉
和人と明奈は怪物を閉じ込めた列柱を前にして止まる。2人は並んで怪物の長い首の先の8つの頭を見上げる。
これは、あの怪物を閉じ込めておくための檻なのか?
〈檻でも、牢屋でもない。さっきも言ったろ?これは祠。中に居るのは八十神じゃ。正確には、その中の一体というべきじゃな。〉
もしかして、あいつが悪い奴だから退治するのか?
〈うーん、もう、何度言ったら分かる?お前は頭が硬いな。〉
そりゃ、生まれつき。爺ちゃん譲りだ。
〈どうして、そう、白黒で区別をつけたがる。二元論に侵されおって。あやつも神じゃ、この島の守り神。じゃが、良くもあり、悪くもある。守り神だから、災いから守りもする。一方で、悪さもする。〉
守り神が悪さって。
〈祟る神。昔から、神は祟りもする。だから、人々は畏れ敬い、祀ってきた。良い悪いじゃない。神を育んだ人間と同じ気紛れ、そういう性格を持った存在として。だから、むやみに悪さをしないよう、結界の中に押し込めてある。私と須勢理毘売の2人で八十神を祠に閉じ込めた。お前が今持っている生弓生矢、それと生太刀を使ってな。〉
八十神の声は聞こえない。ただ、暗闇の中で振り回し続ける長い首が切る風の音が時に大きく、時に小さく洞窟の壁に反射して鳴り響いている。
悪さするとどうなるんだ。
〈島が揺すられたり、得体の知れない物が降ったり。もしかすると、島の形が変わるかも知れない。〉
それって、地震?
〈ああ、近頃のもんは、そう言う様だ。あやつにとっては、ちょっとした悪戯じゃが。〉
8つの首に光る蛇の様な眼は、とうに和人と明奈の姿を捉えている。首を大きく振りながらも、絡みつく様な視線を投げてきているのを感じる。
〈さて、2人に仕事をしてもらう。八十神は4本の脚を縛り付けて、暴れられない様にしてある。しかし、その効力はだんだん落ちて来る。だから、新しい物に交換しなければならない。7年に1度、お前達の体を借りて、須勢理毘売と一緒にこうして八十神を封じ直すわけさ。〉
心の奥底で、ああ、やっぱりと思っている。勿論、こんな話は初めて聞く。もしかしたら、『もりとえらび』が一体どんなものか、小さい頃から想像していたから、1度や2度、同じ様な空想をしたのかも知れない。或いは、この1週間『もりとえらび』に振り回される中で、こんなファンタジーを思い描いてみたのだろうか。どっちでも良いが、封じ直すってどうやって?
〈それは、説明しなくても、分かっているだろう。お前の頭にもう、教え込んだ。〉
ああ、確かに分かる。八十神の4本の脚は、木の杭にそれぞれ細いしめ縄で縛られている。あんな弱々しいしめ縄1本で、怪物のような神様の動きを封じられているのは、霊験の力だ。木の杭もしめ縄も年月を経て傷んでいる。7年前の霊力も落ち、このままでは、八十神の力に負けて切れてしまうに違いない。だから、新しいしめ縄で新しい杭に縛りなおすのだ。既に新しい杭は古い杭の隣に打ってある。新しいしめ縄は、いつの間にか自分が手に握っている。
〈良いか、1本ずつ交換するのだぞ。八十神は石の祠の中じゃ。4つ脚とも自由にしてしまわない限り、結界を破って出て来るだけの力は発揮できん。〉
「スセリビメ、では参るぞ。鏡を頼む。」
「はい、お任せあれ。」
明奈が首に掛けた銅鏡を外すと、両手で頭上高く掲げる。八十神の八つの首は吸い寄せられる様に、その鏡へと向きを変える。和人はその隙をついて列柱に近付き、石柱の隙間から内側に入り、左前脚のしめ縄を解く。途端に八十神の左半身が自由になる。
おかしい。1つだけしか解いていないのに。
八十神の後ろ脚を見ると、左後脚のしめ縄が切れている。脚を繋いでいた筈の杭には3本の傷がついている。見覚えのある3本の傷。その上、その杭の傍の石柱は倒れて大きな隙間が出来ている。隙間を塞ぐ様に、心許ない1本のしめ縄が渡されている。
え?あれ、軽トラが突っ込んだ所?
八十神は急に半身の束縛が解けた事に気付き、鏡に向いていた注意を自分の足元に向ける。
まずい、逃げろ。
和人の頭の中で考えが浮かぶと同時に身を翻して石柱の隙間を目指す。その隙間に体を滑り込ませる前に、八十神の頭の一つが和人の体を咥える。あっという間に持ち上げられて、空中に放り出される。ドーム状の洞窟の天井近くまで舞い上がった和人は、その勢いのまま岩の上に落下する。
体中に衝撃が走る。背中に激痛が走り、息が出来ない。
「和人!」
あれは明奈の言葉だ。須勢理毘売なら大穴牟遅と呼ぶだろう。緊急事態なのに、冷めた頭はそんな事を考える。
〈大丈夫だ。お前にはこの大穴牟遅がついている。簡単にやられはしない。〉
『簡単に』って事は、不死身じゃないんだな。
立ち上がろうとすると胸に激痛が走る。
畜生、息をするだけで痛い。
八十神は自由になった左半身に体重を乗せて、右半身の脚を振り回す。霊力の落ちたか細いしめ縄でも簡単には外れない。
「和人、しっかりしなさいよ!」
脇腹を押さえてうずくまる和人に明奈は駆け寄って助け起こす。
「お前、スセリビメに操られているんじゃないのか。」
和人は明奈の手を借りて立ち上がる。ゆっくり深呼吸をして顔をしかめる。
「一緒にいるけどね。あんたこそ、オオアナムヂはどこに行ったの?」
「一緒にいるからこの程度の怪我で済んでいる。早いとこ、あいつを大人しくさせちまおう。」
「今のあんたじゃ無理。貸して、あたしが縛って来る。」
明奈はしめ縄の束を和人の手から剥ぎ取ると、石柱の結界に向けて走り出す。八十神は己が脚に残ったしめ縄を外す事に夢中になっている。
「馬鹿、むやみに近付くと危険だぞ!」
和人は片足を引き摺り、胸の痛みを庇いながら明奈の後を追おうとするが、とても追いつけるとは思えない。
〈まずいぞ。八十神を鎮めるのに、生弓生矢を使え。〉
生弓生矢?そう言えば、洞窟に入る時は矢筒を肩に掛け、弓を持っていた。いつの間にかどこかに行ってしまって持っていない。和人は両手を広げて、周囲を見回す。
〈何している。お前の手の中にある。〉
気付けば、片手に弓を握り、肩には矢筒がある。大穴牟遅にかかれば自由自在と言う事か。明奈が石柱の隙間から結界の内側に入ると、それまで脚のしめ縄に集中していた八十神の8つの頭の内の2つが、明奈の気配に気付いて振り向く。
「明奈!上だ!逃げろ!」
八十神の脚にしめ縄を掛ける事に集中している明奈は、自分の頭上から素早く近付く八十神の頭に気付かない。
和人は、夢中で矢を番えると一気に引き絞る。ひびがはいったあばら骨が悲鳴を上げる。激痛に思わず呻き声が漏れる。
アッと言う間に八十神の頭が明奈を捉えると咥え上げる。
ままよ。八十神に中らなくても、明奈から注意が逸らせるなら、それで良い。
矢を放つ。引き絞りが不足した状態で放たれた矢は弱々しい。それが見る間に加速して、八十神に向けて突き進むと、明奈を咥えた頭に突き刺さる。八十神は首をくねらせ身をよじる。声は聞こえない。激しい息遣いの音だけがする。射られた頭は苦し気にのたうち、力が抜けた口元から、明奈は運良く列柱の外側に零れ落ちる。体を強く打った様には見えなかったが、岩の上に横向きに倒れたまま身動きしない。
一方、八十神は、矢を受けて激しく体をくねらせ続けている。そのせいで、残っていた2つの脚のしめ縄もとうとう切れる。自由になった事に気付いた八十神は、巨体を力任せに結界にぶつけ始める。
「明奈!」
和人は片足を引き摺って明奈に近付くと抱き起す。意識が無い。
〈このまま此処に居ては危ない。須勢理毘売を安全な場所に移そう。〉
和人は明奈を抱え上げる。胸はさっきよりも傷まない。
〈どうだ?少しは楽になったろう。全力でお前の体を修復しているからな。〉
それでも片足が痛む。明奈の重さに耐えながら一歩ずつ進み、結界から離れた岩陰に彼女を横たえる。
「おい、明奈。」
肩を揺すっても反応が無い。
〈大丈夫、気を失っているだけじゃ。それより八十神じゃ。あやつの動きを封じなければ。〉
八十神が引き起こす激しい振動が繰り返されている。手当たり次第に体当たりして、結界を破ろうとしている。とても、生身の人間が太刀打ちできるようには思えない。
でも、どうやって?
〈全部の頭に矢を射込め。〉
そんなに矢が無い。
〈矢なら射ても無くならない。気にせず番えろ。〉
自分、弓が下手くそで、的に中らない。いつも部活じゃ、的に中る方が珍しい位だ。
〈気にするな。この弓は気持ちで射るのじゃ。強い気持ちがある程、矢の威力は増す。あの娘を助ける事だけ考えて射ろ。〉
八十神は自由になった体を存分に使って、見えない結界に体当たりを繰り返す。あんな激しく動いている頭目掛けて射ても中る気がしない。いや、中りっこない。
〈何をぐずぐずしている。あやつが結界を破る前に大人しくさせてしまえ。〉
怖気付く和人の気持ちとは裏腹に、足が前に出る。矢筒から矢を引き抜く。
結局、大穴牟遅に操られているじゃないか。
〈体を動かす事は出来るが、矢を射るのはお前だ。お前の気持ちが乗り移らない矢は射ても中らない。〉
それじゃ、絶望的だろ。あんな動き回っているのに無理だって。
〈馬鹿者、自分を信じてやれなくてどうする。この状況を救えるのはお前だけだ。〉
やっぱり丈一郎の方が適任だった。あいつならきっと、こんな事で動じたりしないだろうけど、こっちは違うんだって。
〈良いか、良く聞け。自分を頼めぬ者は初めから負けだ。怖かろうが、不安だろうが、自分を信じてやり抜いてみせろ。〉
でも、あんなに激しく動いているのに、どうやって中てるんだよ!
〈ええい、いい加減に覚悟を決めろ。やらない内から諦めるな!〉
畜生。勝手にしやがれ!
肩幅に足を開いて構えると、一気に引き絞る。もう、胸は痛くない。激しくのたうつ八十神の頭の一つに狙いを付ける。動く的を射た事など無い。第一、相手は生き物だ。少なくともそう見える。あんなものに中るのか?
兎に角、矢を放つ。矢は真っ直ぐに進み、八十神に掠りもせずに飛び去る。
〈おい、何している。全然気持ちが入っとらん。あの娘を助けたくないのか。〉
助けたい。助けたいけど、あんなに激しく動くものに中る筈がないって。
〈馬鹿もん!射る前から諦めているじゃろ。そんな者に力など集まって来んぞ!性根を入れかえろ!〉
くそ!もう一回だ。
矢筒から素早く引き抜くと、番えて一気に引き絞る。
この場を救うのは自分。この場を救うのは自分。やってやれ。見せてやれ。
動く頭の間合いを測る。
左に行って、戻って来る。また左、よし、今だ!
放たれた矢は緩い弧を描くと、八十神の大きな瞳を射抜く。八十神が更に激しくのたうつ。
やった!
〈良いぞ、その調子じゃ!〉
素早く次の矢を番えて引き絞る。
八十神の首の一つが石柱の抜けたしめ縄の下をくぐり、外にはみ出す。
〈あんなところに結界の穴が。まずいぞ。早く射抜け!〉
的をしめ縄から飛び出した頭に合わせて放つ。
矢はまたも、重力に反するような弧を描き、八十神のこめかみを射抜く。
射抜かれた痛みで頭が跳ね上がり、しめ縄が切れる。途端、八十神の動きが静かになる。
〈早くしろ!まだ5つも頭が残っているぞ!〉
大穴牟遅に半分操られて、矢を番える。
八十神が大きな体を屈めて、しめ縄が切れた列柱の隙間に頭を次々と通して行く。あんなに大きかった頭が、隙間に近付くと急に小さくなっていく。まるで、結界のほころびに吸い込まれていく様だ。全ての首が結界の外に出た瞬間、大きな八十神の姿が消える。和人は狙う的を失った。あんなにも周囲を威圧していた体躯が跡形も無い。目を凝らすと、しめ縄が切れた列柱の隙間の外側、薄暗い空間に一人の男が立っている。男はゆっくりとこっちに向かって歩いて来る。見れば、彼の頭や肩に和人が放ったと思しき矢が刺さっている。
〈正鵠を射損じたか…〉
何?なんだって?あれ、人だ。人じゃないか。
〈違う、あれは八十神だ。〉
戦国時代の鎧とは違う、獣皮で出来た防具を身に着けている。そう言えば、同じ様な防具を着けた像を見たことがある。確か興福寺の八部衆だ。男は、白髪交じりの、縮れて波うつ髪を振り乱し、血走った両の眼で和人を睨んでいる。
「須勢理毘売をどこにやった。」
八十神が初めて声を出す。大声を出し過ぎた後の様にかすれた野太い声だ。
〈早く弓を引け〉
でも、相手は人間じゃないか。
〈あやつは人間じゃない。あの娘を奪われても良いのか。〉
和人の意思とは関係なく、勝手に腕が動く。八十神に狙いを付けて弓を引き絞る。八十神は顔の正面を和人に向けたまま、目玉を頻りに動かして周囲を探っている。明奈は岩陰に横たえただけだ。八十神がその気になれば、直ぐに見付けてしまうだろう。
〈眉間を射ろ。〉
そんなことしたら、死んじゃうだろ。
〈馬鹿者。あやつは神だ。死んだりせん。気を失うだけだ。だから、早く射ろ!〉
無茶言うな。相手は人間の恰好しているんだぞ。そんなに射させたいなら、この体を操って、矢を放てば良いじゃないか。
〈それじゃ、お前の気持ちが入らぬ。矢は当たらん。早く!〉
和人の状況を察してか、八十神が薄ら笑みを浮かべる。もう、和人と八十神の間は3メートル程だ。
「そんな調子じゃ、我は射抜けぬぞ。」
〈お前は、あんなこと言われて悔しくないのか。今やらなければ、あの娘はさらわれるぞ。〉
ああ、畜生!
和人は一瞬、目をつむって矢を放つ。それまでと同じ調子で放ったつもりなのに、矢は急角度で曲がり、あらぬ方向に飛び去る。大穴牟遅の悲鳴が漏れる。八十神は一瞬立ち止まって身構えたが、矢が逸れて行くとその行方を見送り、今度は和人を無視してあからさまに周囲を見回す。岩陰から明奈の両足が覗いている。八十神がフンと鼻で笑う。向きを変え、真っ直ぐに明奈の方に歩き出す。和人は慌てて八十神の進路に割って入る。両手を広げて通さない意思を示す。
「おい、お前の相手は、こっち…」
和人が言い終わらない内に、近付いてきた八十神が、片手で苦も無く和人を払い除ける。和人は突き飛ばされ、岩に体を打ち付け、痛みにのたうつ。
〈馬鹿者。素手で敵うわけなかろう。相手は神じゃぞ。〉
漸く治してもらったあばら骨をまた痛めた。苦しい息を吐きながら、よろよろと立ち上がる。八十神を見れば、片手で気絶したままの明奈を軽々と脇に抱え上げ、こちらを振り向く。
「兄者。」
アニジャ?自分には神の血縁なんかいないぞ。
〈お前じゃない。私だ。〉
え?
「よう長い間、我を謀ってくれたな。須勢理毘売は貰った。今度は我が大国主、兄者が託つ番だ。とくとそこで見ているが良い。」
急に和人の頭の中にイメージが浮かぶ。八十神が岩の上に明奈を放り出し、口から手を入れて、何か青白い球の様な物を引き出している。理由は分からない。酷く不吉な予感がする。
大穴牟遅に操られ、和人は矢を番えると、弓を引き絞る。胸の痛みは感じない。
「をのこよ。大穴牟遅に与した事を悔やむが良い。めのこの終いをそこで見届けよ。」
「明奈を放せ!」
八十神の眉間に狙いを定める。八十神はフンと鼻であしらうと、明奈の体を足元に放り出す。明奈の体が仰向けに転がる。
あれは…。さっきのイメージと同じ光景だ。あれが予知なら、八十神が口から手を入れるに違いない。
気付けば矢を放っていた。考えてなどいない。矢は真っ直ぐに伸びて八十神の眉間に突き刺さる。一瞬後、八十神の動きが止まる。呻きにならない息を吐くと、仁王立ちのまま白眼を剥く。一瞬後、八十神の体は硬直したまま、ゆっくりと後ろに倒れていく。
〈…なんとか、間に合ったな。〉
やっつけたのか?
〈ああ。安心しろ、さっきも言ったが、死んだわけじゃない。気を失っただけだ。〉
あんなに恐ろしい相手だったのに、最後は呆気ない。兎に角止めたい気持ちで必死だった。
和人は恐る恐る、明奈と八十神に近付く。明奈の顔を覗き込む。まだ気を失っている。眠ったように穏やかな顔だ。
〈この娘が気になるだろうが、まずは八十神の始末じゃ。済まぬが、もう少し眠っていてもらえ。〉
和人は、倒れた八十神の片腕を掴むと、岩の上を引き摺る。重さは感じない。
〈神など、この程度の存在よ。実体のない私等には、重さすらない。結界の破れ目から祠の中に入れるぞ。〉
八十神の始末は何をすれば良いか、もう頭の中に浮かんでいる。危険が去って余裕が生まれると、教えられていない疑問をそのままにしていられなくなる。
なあ、一つ、訊いても良いか?
八十神を引き摺りながら、大穴牟遅に話し掛ける。
〈なんじゃ、この期に及んで。〉
さっき、頭に浮かんだイメージは予知か?
〈何の絵が浮かんだか知らんが…、もし、予知なら、起こらなければならない。起こらなかったのなら、単なるお前の憶測じゃ。〉
憶測ねぇ…。
今一つピンと来ない。知らないと言っておきながら、起こらなかった事を知っているなら、大穴牟遅は惚けている。
石柱の隙間から八十神を中に入れた途端、人間の姿は消えて、元の大きな怪物の姿に戻る。それでも重さは感じない。
もっと訊いて良いか?
〈良かろう。こんな事態になるとは予想外じゃった。お前には迷惑をかけたから、そのお詫びじゃ。〉
迷惑を掛けられたのか、掛けたのか。その点では、この事態のきっかけに身内の失敗が関係していそうだから、自分が尻拭いするのはしょうがないと思う。その事を大穴牟遅は知らないけど。
大穴牟遅と頭の中で会話しながら、新しい杭に八十神の脚をしめ縄で縛り付ける。
大穴牟遅と八十神は兄弟なのか?
〈それか。この八十神はそうじゃ。〉
この八十神?八十神はそんなに何人もいるのか?
〈八は、2つに分けた後、もう一度2つに分けることが出来る1桁の数じゃ。だから、沢山のものが集まった事を象徴しておる。つまり、八十神とは数多の神という意、この島の憑神もその中の一つじゃ。こやつも元は名前があった。もう、星霜のはざまで失ってしまったが。どこかに彷徨って行ってしまわぬ様に、こうしてこの島の守り神として祠に繋いでおる。〉
ふうん。さっきの様子じゃ、本人は逃げ出したいんだね。
〈逃げ出したいのじゃない。私に取って代わって、大国主になりたいのよ。〉
もう一つの脚を別の新しい杭に縛り付ける。
〈お前達の力を借りなければ、私等はこの結界に出入りする事は出来ない。あの結界の穴もやがて人の手で修復されるじゃろ。7年に1度、こうして顔を合わせるのも、こやつの気持ちに対する償いの様な物じゃな。〉
それなら、毎年来てやればいいのに。なぜ、7年に1度なんだ?
〈七は、分けることが出来ない一番大きな1桁の数。不可分は強い結びに通じ、この国の結びを尊ぶ思想につながる。めでたい数だからの。〉
大穴牟遅が大国主って、どういう事だ?名前が2つある?八十神が大国主になりたいって、意味が分からない。
最後の脚を杭に縛り付けると、和人はその場に立ち上がり、丸まった背筋を伸ばす。
不意に、頭の中に考えが浮かんでくる。
大国主とは国の主という字の通り、この国の憑神。八十神はそれぞれ、小さな地区毎の憑神。その昔、元々この国は集落規模の小国に分かれていた。それぞれが国家の形を整えるに従って互いに争い合い、相手を屈服させて国を併合するようになった。大穴牟遅が憑神だった国が全国を統一したのは、幸運に恵まれたに過ぎない。神は人の世の映し鏡。勝ち残った国の神が大国主となった。須勢理毘売は須佐之男命の子孫。これを妻とする事は、後継者としての正当性を手中にする事を意味する。
頭の中に直接知識を入れるのは止めてくれって言ったろ、気持ち悪い。
〈この話ばかりはの、私の口から語る訳にはいかない。〉
和人は石柱の隙間から外に出ると、明奈の元に歩いていく。
そうだ、大穴牟遅。この先、『もりとえらび』が続けられなくなるかも知れない。今回は自分が居たけど、数え18の島の人間は、この先、少なくなっていくから。
〈そうか。〉
そうかって、それだけ?18歳に限らず、条件を緩めたらどうかな?
〈早いか、遅いかの違いじゃろ。いずれ神事を行う者は絶える。〉
しめ縄が替えられないと八十神が暴れ出してしまわないか?
〈私等は、人の営みが育んだもの。信じる者がいなくなれば消えるのみよ。確かに、そうなったら長い間平穏だったこの島を、地震や嵐が襲うかも知れん。でもそれは、この世の摂理に従うもの。最早、神の祟りではない。〉
そういうものか。寂しくないのか?
〈私等は寂しくない。寂しさも喜びも、それらは人が持っているものじゃ。〉
和人は明奈の傍らで跪くと、彼女の顔を覗き込む。穏やかな表情だ。
「明奈。…おい、明奈。」
肩に手を掛けて揺する。微かに頬を引くつかせ、薄っすらと目を開ける。
よかった。気が付いた。
「どうだ。大丈夫か。」
「和人。」
明奈がのろのろと上体を起こす。
「あいたたた…」
明奈は片手を後頭部に当てる。
「無理するな。きっと脳震盪を起こしたんだ。」
明奈の背中に腕を回して、ゆっくりと抱き起す。そのまま二人は抱き合う。
また、大穴牟遅に操られた。
〈おい、何でも私のせいにするな。〉
和人は、明奈を抱きしめたまま、暫く目を閉じていた。




