帝国皇太子2
侍従長ミハイロ・クラスノフは皇太子ウラジミールの専従の侍従として働いている。ウラジミールが幼いときは傅り役として、影のように付き従っていた。本来はウラジミールが成人した時点で傅り役の職は終了し、クラスノフはウラジミールから離れる。しかし、ウラジミールの立ち居振る舞いに周囲が不安を感じたため、クラスノフは傅り役からそのまま侍従としてウラジミールに仕え、さらに他の侍従をまとめる役目の侍従長として仕えている。
ウラジミールは幼少時より非常に内向的な性格であり、長じて人との意思疎通に難があることが周囲の者に認識され始めた。対人関係を構築するのが極めて困難であり、まともに会話ができるのは侍従長とメイド長だけであると言っても良いことが周囲に理解され、皇太子の精神安定のために専従の侍従長が特別に置かれたのである。これは異例のことである。
日常生活において簡単な政務は、侍従以外の人間から言われてやる分には問題なかった。質疑応答が必要な政務は務まらないが、単純な作業では多少の躁鬱の気配はあるものの、爆発することはなかった。鬱の時間がほとんどであり、躁の時間が少ないため、鬱のときにどうやって皇太子の政務をさせるか?ということが侍従長の仕事と言って良い。あとは、皇太子が爆発したときに抑えることである。
しかし皇帝が病床につき、起きていられる時間が少なくなり、政務の代行業務の量が増え始めると皇太子の性格が破綻した。政務のほとんどは宰相が代行し、皇太子の元にはサインと皇璽を押す書類が回されてくる。サインは問題ないのだが、皇璽が問題だった。
帝国の皇璽は皇帝とその係累に当たる者だけが触れることを許され、魔力を皇璽に流すことで捺印することが可能となる。帝国の重要な決定に関わる事項、例えば軍の進退については、この皇璽の押された書類でないと適わない。
皇太子は朝から晩まで、この皇璽に魔力を流して捺印し続けている。ただでさえ、同じ作業を繰り返すということが苦手であるのに、それを強いられている。
そして、生来の魔力の保有量が少ないにもかかわらず、魔力が枯渇するまで作業を繰り返さなければならない。そのため、皇太子は皇太子なりにガマンにガマンをしていたのだが、それがとうとう爆発する時が来た。
皇太子ウラジミールは、子どもの頃より誰に似たのか、芸術家肌で束縛されず自由に絵を描いたり音楽を聴いたりするのが好きだった。皇帝と正妃の間に生まれた唯一の男子でありながら皇帝になりたいと思わず、側妃の子どもである弟のイワンが皇帝になってくれるなら、自分は皇籍を離れて、皇帝の地位をイワンに譲っても良いと考えていた。お飾りの地方行政官トップにでもなって、生活費を支給され芸術を愛し一生を過ごしても良いと考えていたのだ。
だが、侍従長がウラジミールの内々の面倒を見ていたのに対し、ウラジミールの外の面倒を見てきた宰相が、ウラジミールを担ぎ上げ皇太子の意向を聞くことなく皇太子に据えてしまった。
皇宮の一角の小さい部屋から、ある日突然、広大な皇太子の館に移された。それに伴い聡明を謳われる弟たちは、皇宮から出されて帝都の一角に住まいしてウラジミールは会えなくなった。弟のイワンとは仲良く遊んでいたのだが、ある日を境に会えなくなってしまった。
ウラジミールは小さい時から、いつも弟たちと事ある毎に比べられてきた。自分が弟たちと比べて優位であるのは正妃から生まれた、ということだけ。それ以外はすべての能力において弟たちに劣っていることを自覚している。容姿も頭のできも武技も、すべての面において。
ただ、唯一芸術に対する才能だけは弟たちに負けていないと思っている。そしてその才能があると自覚している。であるから、皇太子になる前より、子どもながらも才能があると思った芸術家を自分の元に集め、話を聞くのが楽しかった。そして彼らを庇護して援助してきた。芸術家たちと身分の垣根を越え、自由に会話を楽しむ時間こそ、窮屈な皇居の生活に置いて唯一の心の憩いであったのだ。しかし芸術面で弟たちより優れているといっても、皇太子という職責について、なんの足しにもならない。
芸術家の中には、年上であるが密かに皇太子が心を寄せる女性もいた。皇帝の息子という地位を使えば、その女性を自分のものにすることも可能だった。
しかし、侍従長と宰相は平素より、平民を皇宮に入れることを強く戒めていた。そして、皇太子がその女性に好意を持っているということが侍従長に知られてすぐ、その女性はウラジミールの元に来なくなった。それでも芸術家と交友している生活はカラフルで色に溢れていた。
それが皇太子になった途端、色が淡くなった。
芸術家が来なくなったのは、侍従長と宰相が協議して、得体の知れない平民が皇太子に危害を加えるのでないか?宰相の反対勢力が皇太子を亡き者にしようと企てるのでないかと考え、遠ざけた。万が一ということを考え、芸術家などという胡散臭い者を皇太子の側にたむろさせるなどと言うことはできないということだった。ウラジミールのごくわずかな語彙では、それに反論する言葉を持たなかった、
ウラジミールが日々の政務を終え、私室に戻る。疲れてくると視野狭窄となり周りが見えなくなっている。寝るまでの僅かな時間に絵を描こうと思い、パレットに絵の具を出そうとした。どの絵の具を使おうか、画材を見ていたとき、色が分からなくなっていることに気がついた。陰影はわかるものの色彩が失われていた。白と黒の世界にいることが分かった。唯一の、本来の自分に戻れる時間が失われたことに気が付いた。寝て起きれば直っているかも知れないと思っていたが、翌朝起きた時も見回した世界には色がついていなかった。
色がなくなると、執事長とメイド長以外のメイド、護衛、周りにいる者全てが笑顔の仮面を被った男女に見えるようになった。慇懃無礼という言葉の似合う態度の者たち。感情のこもらない言葉。誰もが同じ言葉を言い、誰が何を言っているのかだんだんと認識できなくなる。
皇太子と言われながら、皇宮と言う名の檻の中に閉じ込められている。執務室と私室の往復だけが許されている。毎日、朝起きて朝食を取ってから、ひたすら同じ作業を繰り返し、夕方に書類の山がだいぶ減ったと思っていると、翌朝には元の量の書類が積まれている。果たして、この作業に自分は必要なのだろうか?この作業に自分は不満を持つが、弟なら黙って不満を言わず続けるのだろうか?と考える。弟を呼んで、この作業を手伝ってもらえないものだろうか?と考える。
捺印しようと皇璽に魔力を集めているときに、自分を見つめる官吏たちの目。「どうしてこんなに時間がかかるんだ?」「どれだけ待たせれば気が済むんだ?」「さっさとやってくれないか?」という気持ちが視線に込められているような気がする。自分は精一杯やっているのに、周りは理解してくれず、非難とさげすみの目で見られている。それが朝から夕方まで毎日続く。
ある日突然、鬱積したものが破裂した。それは、机の上に置いてあった水差しに腕が触れ、床に落ちた。その硝子の水差しの破壊音がきっかけだった。水差しがゆっくりと机の上から床に落ちる。破裂する瞬間が分かる。ヒビが入り、広がっていくのが分かる。割れたところから水が飛び散って行く。と同時に自分の中の何かが割れ、飛び散った。
ダメだ!?と思いながらも、自分を止めることができない。机の上にあった書類をみんなぶちまける。書類を持って来た官吏たちに向かって、ペン、インクを投げる。最初は言葉で止めようした者は、そのうちウラジミールが本気でキレており、簡単に止めることができないと知ると距離を取りだし、何とか制止しようとする。手に当たる物をすべて投げつける。そのうち、官吏たちは災難を怖れて部屋を出て行ってしまった。
その時、ウラジミールは自分を取り巻く世界に色が戻っていることが分かった。慌てふためく周りの者に表情があり、怖れの感情があることが認識できた。ぶちまけたインクが青と黒であり、本の背表紙が赤であり、メイドの服は藍色でエプロンは白であることが分かった。この世界に色がある!それが分かった途端、ウラジミールの内から激情があふれ出し、止まらなくなった。
1度決壊したモノはウラジミール自身にも止めることができなかった。さっきまで笑顔の仮面を被っていた者たちは、全員の仮面が剥がれ何かわめいている。何か言っているが、耳に入ってくる音はウラジミールにとって言葉と認識できず、雑音にしか聞こえず理解できない。
内面から湧き上がる怒りにも似た感情にまかせて、暴れまくる。絶叫し、体力が続くまで部屋の中のモノを破壊する。自分は自由なんだ、自分は開放されたんだ、と叫び暴れる。
暴れているうちに、ウラジミールの体力が尽き、破壊を止め床に座り込んだとき、辺りを見回すと自分を見ている多くの目があった。人として認識できず、人形の目、硝子玉の目にしか見えなかった。しかし、恐れとさげすみの混じった硝子玉のような目。仮面の中にある二つの硝子玉の目、それが自分を見ていた。
「どうして暴れるんだ!!」「どうして壊すんだ!!」「どうして言われたことができないんだ!!」「どうして!!」「どうして!!」「どうして!!」
周り中の目玉から発せられる、無言の避難の矢が自分にズンズンと突き刺さる。やってはいけないことをやったことは理解している。しかし、どうしようもなかったんだ、私は抑えることができなかったんだ、と心が叫んでいる。そして、一滴二滴涙がこぼれると感情を止められなくなり、うずくまり声をあげて泣き出してしまった。
ウラジミールは遅れて執務室に来た侍従長に抱えられ、泣きながら私室に連れられていく。侍従長以外の者は全員、視線で自分を「失格者」「不適格者」と言っているのが肌で感じられ痛い。足がもつれて、ろくに歩くことができず、侍従長に抱かれて、辛うじて歩く。
私室に連れ込まれると、そのままベッドに倒れ込んでしまう。もう涙は枯れていた。皇太子として期待されている自分。しかし、その期待に応えられない自分。なんとか期待に応えようとする自分。他の者と同じように仮面を被り、自分を押し殺し、皇太子という格に適応しようと努力している自分。これはいつか報われるのか?自分は、皇太子であり続けることができるのか?その先の皇帝になり、努めることができるのか?
自分に問いかけるも、答えはなく、オマエには無理だという声が聞こえる。否定する自分しかいない。できない、私にはできない、周りの期待に応えることができない、周りの言うことに従うことができない。それでも、努力して行かねばならないのか?皇帝になりたいと言っていた弟たちに譲ることはできないのか?弟たちと話し、譲ると言うことはできないのか?
不可能と分かっているが、その問いかけが頭の中でグルグルと回り、夕食も食べずに眠ってしまった。
朝起きると、また普段と変わらない生活が始まった。私室で朝食を食べる。給仕の者たちは昨日のことを知らないはずはないのに、それには一切触れず淡々と自分の持ち分の仕事を進める。
食事を終え、執務室に入ると見事に昨日の暴れた痕跡はなくなっていた。元通りで時間が昨日の朝に戻ったように、昨日の朝の景色と寸分違わないようになっている。破れたカーテン、壊した椅子、割れたコップ、水をぶちまけた絨毯。すべてが何事もなかったように、昨日と同じモノに戻っていた。
その中に自分は入り、皇太子の椅子に座る。誰もが無言のまま、係の者がいつものように書類を出し、ウラジミールはサインし捺印する。それを何十回、何百回繰り返し昼食となる。そして時間になると開放され、私室に戻ることができる。
数日後、また爆発し、力尽きるまで暴れ、倒れ、侍従長に抱えられ、私室に戻る。何回かそれを繰り返した後、ある日変化があった。
何回目かの爆発を起こしたとき、何かにけつまずいて転んだメイドがいた。そのメイドがウラジミールを見たとき、メイドの顔から仮面が剥がれて、ウラジミールに対して素の表情を見せていた。怖れおののいている。
自分が近づくとメイドは、口をパクパク言わせながら、ウラジミールを見て尻で這うように逃げようとしている。メイドが見せた人間的な恐怖の表情が嬉しかった。そしてもっと、違う表情、感情を見たくなる衝動が湧いてきた。
ゆっくりとメイドに近づく。メイドはウラジミールが怖くて動けなくなっていた。
「皇太子、さま、お、お、おゆるし、くだ、さい」
メイドが辛うじて言葉をしぼりだした。しかし、その哀願はウラジミールに届かない。メイドのエプロンを掴み前後に揺する。
「あ、あ、あ」
ウラジミールも声が上手く出せない。ウラジミールの揺する手に合わせて、メイドの頭もガクンガクンと揺れる。メイドは何をされるのか分からず、恐怖が増す。ウラジミールがさらに揺らすとエプロンは破け、引きちぎれた。エプロンの下のメイド服を掴むとボタンが飛ぶ散る。
ボタンの取れた服の間から肌が見え、下着が見える。メイド服は首まで覆っているので、肌の露出部分が限られている。それが首の下の肌が見えた。白い肌が見えた。皇太子の頭の中で、タガが外れ、何かが壊れた気がした。
読んでいただきありがとうございます。
皇太子編は途中なのですが、書いていて非常に辛いです。読まれている方は、皇太子と立場は違うにしてもこのような精神状態になったことは、1度や2度は経験されているのではないかと思います。このようなことは、私も含めて誰もが経験することだろうと思います。こういう状態になったとき、周りで自分を見つめている人の中にも、同じような精神状態になる1歩手前の人も必ずいるだろうと、今なら思えます。読まれるのがイヤなようでしたら、皇太子編は飛ばされるのが良いかと思います。
その後からお楽しみください。




