1, 私の日常
オリビア・メルクリウスは、本の虫である。
起き上がっていられる時間の大半を読書に費やし、休憩も取らず寝食すら忘れ物語の世界に浸るのだ。
特に好きなジャンルは、王子様と少女のラブストーリーを主題にしたもの。
中でも気に入った本は、内容を一言一句違わずに暗唱できるほどに読み返した。
今読んでいる『白雪姫』も、今日だけで三回は読み直している。
塵一つないほど清潔に清められた部屋には、本のページをめくる音だけが響いていた。
そんな静寂を切り裂くようにコンコンとドアがノックされる。
そして、数秒の間を開けた後に、来訪者は主の許しも得ずに扉を開いた。
入ってきたのは、まるで凍り付いたような冷たい表情をした老婆。
白を基調とした侍女服をかっちりと着こなし、押してきた銀のワゴンは、潔癖症を疑うほどに綺麗に磨き上げられ、その上でうっすらと消毒液の匂いが漂っている。
「お嬢様、御食事の時間で御座います」
深々と一礼してから、淡々とした口調でそう告げる様子は、まるで決められた動作だけをこなす機械のようで少し不気味だ。
当のオリビアはといえば、読書に熱中するあまり老婆の存在に全く気付いておらず、投げかけられた言葉に反応を示すことはない。
それを確認すると、老婆はよどみない動作で持ってきた布巾や霧吹きを使用して机を清めていく。
あっという間に食事の用意は整えられると、老婆は、再び同じ言葉を告げる。
それも、今度はオリビアが絶対にスルー出来ないように真横まで近づいてから。
「お嬢様、御食事の時間で御座います」
「要らない」
老婆の工夫のお蔭か、今回は返答を得られた。
それも、やや食い気味に。
さらに言うのなら、言外に「興味ありません」とでもアピールするように、視線は本に固定されたまま。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
ここから先は我慢比べだ。
オリビアが折れるのが先か、はたまた老婆が折れてしまうのが先か。
いずれにしろ、先に動いた方が負ける。
両者ともにそれを理解しているのか、お互いに口を開くことはない。
だが、端から見れば老婆の方が優勢なのは明らかである。
どうやら、オリビアは読書に集中できていないようだ。
氷の様に無表情な老婆が、ジッーとオリビアを見つめるその視線には、怒りにも似た圧力が籠っている。
それを一心に受けるオリビアの表情は、まるで嵐に怯える子猫を想起させた。
チラチラと老婆を盗み見るが、現実とは往々にしてままならないものである。
状況が好転するような気配は微塵もない。
もし、御伽噺に登場する悪魔が実在するならば、この老婆の様な姿をしているのだろうか。
そんな失礼なことを考えながら、もはや勝敗の決した勝負でオリビアは、悪あがきを続けるのだった。
「食欲がないの。だから、お薬だって飲めないわ。……ほ、本当よ?」
などと、オリビアは言い訳がましい口調で、精一杯お腹が空いていないことを主張した。
加えて、なんとか老婆の同情を引き、許しを得られないかと、場末の三流劇団のような、見事な演技まで披露してみせる。
「そうですか」
だが、全ては無駄な努力。
せいぜい、数秒の時間稼ぎに成功した程度の戦果でしかない。
戦々恐々としているオリビアをよそに、いつの間にか伸ばされた老婆の手には、オリビアが大切に持っていたはずの本が収まっていた。
「ちょっと、返しなさいよ!」
それを見たオリビアの次の行動は、物を盗られた者としては当然の行動。
盗人から盗品を奪還するため、両の手を高く伸ばした。
しかし、それは巧妙に誘導された老婆の罠。
がら空きとなった脇を掴まれると、そのまま軽々と持ち上げられてしまった。
「御食事が済んだ後であれば幾らでも」
「離しなさいコラン!この悪魔!鬼!コラン!」
オリビアは本から収集した、あらん限りの(幼稚な)罵詈雑言を老婆に浴びせ、ジタバタと藻掻く。
が、ほとんど寝たきりの非力な幼女の抵抗など、ただの老婆でも労せず御せる。
それを証明するかの如く老婆、いやコランは、涼しい顔でオリビアを完璧な配膳のなされた机の前まで運び、椅子に座らせた。
こんな平和な一コマが、あのメルクリウス邸で送られていることを、いったい誰が想像できようか。
いかにも「私は不満です」と言った表情をしていたオリビアだが、いざ昼食を目の前にするとあっさりと目の色を変えて見せる。
昼食のメニューは、オリビア用に小さくカットされた数種類のフルーツと生クリームを贅沢に使用し、それを上等な白パンで挟んだ、いわゆるフルーツサンド。
それと、今朝採れた新鮮な卵を使用して作られた卵スープである。
どちらもオリビアの好物。
特にフルーツサンドは、オリビアでも中々ありつけない激レアメニューだった。
さっきまでの食欲どうこうというのが一体何だったのかというくらい、あっさりと食事に手を付けていく。
やがて、ゆっくりと時間をかけて完食を果たすと、オリビアは満足気な笑みを浮かべながら席を立とうとした。
が、それに待ったをかける人物がいた。
「お嬢様、お薬がまだですが?」
コランの手によって、机の上に水の入ったコップと大量の薬がドサッと置かれる。
同時にオリビアの目から光が消えていった。
「コラン、あなたには人の心が……慈悲ってものが無いのかしら?」
「ございません」
にべもない返答に、オリビアのこめかみがヒクつく。
「……嫌よ!第一、あんなに苦いの常識的に考えて人が口に入れていい物じゃないわ!それに、我慢して飲んだって効果ないじゃない!」
目には涙を溜めて、本気で駄々をこねるオリビア。
しかし、やはりと言っていいのか、コランにからは一欠けらの同情も得らた様子は見えない。
いつもと変わらず、何の色も映していないような無機質な瞳で、オリビアに薬を飲むように促す。
それに気圧されるようにオリビアは片手にコップを、もう片手には薬包紙に包まれた薬を手にした。
数十分後、全ての薬を服用したオリビアは、疲れてしまったのかベットに戻ると本を抱いたまま糸の切れた人形のように眠ってしまった。