名前なんやっけ
今日も昨日と同様晴れていた。朗らかな陽気に、思わず洗濯物がにっこりと微笑みそうだった。微笑んだところで特に乾きが早くなるわけではないので、干す人としてはどうでもいいが。
コウとフシギは、今日も情報収集に励むのだが、昨日とは違うことが一つ。これはビジョのママさんがお手製の手料理をふるまったときの一言によるものだった。
「街の人たちが使えないなら、もう直接あのクソガキ共に話を聞けばいいんじゃないかしら」
にっこりと満面の笑みで、まるで天使のようだったが、言葉が悪魔のようだったのは、人間だれしも表と裏が存在するのだと暗に二人に伝えるためだったのかもしれない。すばらしい若奥さまだ。ビジョも見習ってほしいものだった。
こうして二人は情報収集のため、アジトへと向かうのだった。
まず初めに向かったのは、この街の真上から見て北西に位置するハンターのアジトだ。
ハンターのアジトには簡単に着いた。少し拍子抜けしてしまうほどだったが、他がそうとは限らない。なので二人はさっさと聞き込みを開始することにした。
ハンターのアジトは、どうやら掘っ立て小屋のようで、間近でみるとけっこうボロボロだった。最近ここにアジトができたというのにこのボロさ加減はおかしなものだった。
それに、この掘っ立て小屋には人の気配がしない。野球ボールが飛んできて割れたかのような窓から中をのぞくと、やはり中は誰もいないようだった。これでは情報収集のしようがない。しょうがない、後回しにしようかと考えていたとき、彼らは帰ってきた。
「うん? なんだね君たちは」
戦闘にいるリーダーのような男がコウにそう問いかけた。彼の手には寝袋があった。よくよく見ると、後ろに控えているハンターたちも、みんな寝袋を持っていた。
「うん? どうした? これはただの寝袋だ。私たちはアジト寝はしない。それどころか、このアジトで生活することもしない。私たちの拠点は大自然だ。このアジトは、仮住まいのようなものだよ」
どうしてこの掘っ立て小屋がこんなにもボロボロなのかわかった気がした。使われないものってあんがい、朽ちるのが早かったりする。
「ふむふむなるほど。つまりどうしてここを活動の拠点にしていて、どうしてここから出ていかないのか、そしてどうすればこの四つの集団が争いをやめるのか、それを君たちは聞きにきたわけだね」
彼の名前はオードリーというらしく、このハンターのリーダーでまちがいないらしい。そんな彼――オードーリーは、強固なヘルムに顔をすっぽり覆い隠しながら唸った――たき火をしながら。
どうしてこんな真昼間からたき火をしているのかと聞いたら、訓練らしい。いったいどんな訓練か気になったが、そこに火があるからさ、と言われなかっだけよかったのかもしれない。
「君たちは少し勘違いをしているよ。僕たちはここで争いをしたいわけでもなし、逃げれるるなら逃げたいくらいさ。で、もまだここを住みかとしてまだひと月くらいしか経ってない。いくら僕たちがハンターで、拠点をよく変えるにしても、ひと月は早すぎる。それに、このあたりは魔物が多くて、みんなの狩りもしやすい。だから僕たちは、まだこの住みかを変えるつもりはないよ。変えるなら、いつも喧嘩を吹っ掛けてくる、ヤクザやマフィアの連中を変えてほしいね」
たき火に向かい合わせにしてあぐらをかくオードリーは、やれやれだと言わんばかりだった。そして、どうやらハンターは本当に住民に危害を加えるつもりはないそうだ。興味があるのは魔物だけ。それを聞いて、二人はハンターのアジトから身を引くのだった。
つづいて二人が訪れたのは、ヤクザのアジトだ。周りが藪に覆われていて、アジトの全貌がわかりにくいが、大きいのは一目でわかる。鉄格子で玄関は塞がれており、家の周りもぶあつい壁で覆われていて、侵入禁止、と強く主張されてるようだった。
「あ、なにやってんだそこの兄ちゃん?」
コウがインターホンのようなものがないかキョロキョロしていると、後ろから声が掛かった。振り向くとそこには顔中傷だらけで金髪、おまけにリーゼントの肌黒な男が顔を前に突き出して立っていた。
「いや、その……ヤクザのリーダーにちょっと話が」
「はなしぃ? あ、まさかてめぇ、昨日からこそこそ嗅ぎ回ってる連中か? ったくしょうがねぇな。待ってろ、いまタツマさんと話つけてやるからよ」
あんがいすんなりと二人の要件をのみ、そして数分後、これまたすんなりと鉄格子を開けてくれた。もしかすると良い人なのかと、コウの頭をよぎった。
「あっしがタツマといいます」
二人が案内されたのは和室だった。床はすべて畳が敷かれており、木彫りの熊とか、どこかの景色を描いた掛け軸とか、和を感じるものがたくさん陳列していた(これらが和あということは、もちろん彼らは知らない)。
「あっしらはですね、コウさん、フシギさん、べつに争いがしたいわけではないんです。たしかに気が短いやつは多いですが、だからといってそいつら全員争いが好きなわけじゃないんです。でも中にはそういうのが好きなやつもいるかもしれません。ですが、こいつら全員あっしの大事な部下たちです。そこらへんは許してやってください」
タツマと名乗った彼は、とても目が細く、描こうと思えば一本線で描けそうだった。タツマは背景に雲が似合うような男で、風雲児という言葉がぴったりだった。
そんな彼は畳にあぐらをかきながら、深々と頭を下げた。それを見ていたヤクザの連中は涙をこらえていた。コウは悪者になった気分だった。
「あっしらはですね、なにかを求めているんですよ。それはもしかすると、スリルだとか熱い友情だとか助け合う心だとか。あっしらはまだこの街でなにも学んでいません。ですのでここには住み続けたいと思います。勝手なことを言って申し訳ない。以後、争いは極力減らすようには言い聞かせます。どうか」
その瞬間、周りの連中が泣いて叫んで大騒ぎ。コウはなぜか良心が痛み始めた。なにも悪いことはしてないはずなのに。
そこに愛の手を入れたのは、フシギだった。
「すいません。その代わり、と言ってはなんなのですが、見せてもらいたいものがあるのです」
「うん? なんだい?」
タツマが首をかしげると、フシギはその腰に差さった黒い鞘をゆびさした。
「その腰にさしている刀を見せてもらってもいいですか? 私、刀に目がないんですよ」
「あぁいいよ。好きなだけ見るといい。というかそんな小さいのに刀が好きなのかい?」
「はい。とっても大好きです」
コウは初めて聞いた話だったが、フシギとはまだ会ってから日が浅いので、知らないことのほうが多いに決まってると思い直し、頭の片隅に置いておくことにした。
フシギがたっぷりと刀を見たあと、二人はヤクザのアジトを後にした。
次に向かう盗賊のアジトは、とても初見ではわかりそうになかった。なんせ、盗賊のアジトは洞穴の中にあったのだから。なぜ街に洞穴があるのかは疑問だが、あまり深く考えないことにした。きっと盗賊たちが街の人に内緒でつくったのだろう。
二人は戸惑いながらも洞穴の中へと入っていった。
洞穴の中は薄暗く、ごつごつした道の両脇の壁から飛び出たランプが無ければ、何度もつまずいてしまうほどの足場の悪さだった。
「足場が悪いばかりに足ばかり見てしまいますね、コウさん」
「たしかにそうだな。フシギ、転ばないように気をつけろ」
「……気をつけた方がいいのはコウさんですよ。私は汚れてしまいました」
掛け合いの成立しない会話をした矢先、道がいきなり二つにわかれた。
「これはきっとコウさんのせいですね。責任持ってどちらか選択してください」
「なにかした覚えはないが、そうだな。右だ」
「さすがコウさんです。さ、いきましょ」
フシギは軽やかに、二つにわかれた道の、右の道へと進んでいった。コウは自分で選んだにも関わらず、びくびくしながら奥へと進む。
そのとき、フシギの足取りに気がついた。
「なんだ、しっかり歩けるじゃないか」
コウは首を傾げて、フシギの後を追った。出口(入り口かもしれない)を見つけたのは、それからすぐのことだった。
「かはぁ! おめぇらよく死なずにここまで来れたな! あの手前の道を左に進んでたらお前ら死んでたぞ! かはぁ!」
出口に入ったとき、出迎えたのはヘップという中年の男だった。かはぁかはぁ言ってるのは、お酒をのんだあとの声だ。これがけっこううるさい。
ヘップは、ばかでかい丸テーブルの奥に座って顔を赤くさせながら酒をのんでいた。そしてその丸テーブルには他にも盗賊が座って酒をのんでいた。タバコを吸っているやつもいた。彼らはみんな民族衣装のような衣服を身につけていた。
盗賊のアジトは手狭だった。間取りとしては申し分ないが、いかんせん物が多い。しかも使っていないだろうと思われるものが、いたるところに散らばっていた。これでは物をしまったときに、どこにあるのかわからなくなりそうだった。
ちなみに、この部屋の奥には銀色に輝く厳重に施錠され、見張りまで配置された扉があった。宝物庫に違いないが、ばればれだった。いったい中になにが入っているのか、コウは気になったが、ヘップが用件を聞いてきたので、コウの頭はそれで支配された。
「んで、用件ってなんだっけか?」
かれこれ三回目となるコウの説明だったが、ヘップはまるで初めて聞くかのように神妙な顔でうんうん唸っていた。そしてようやく事態を呑み込めたようで、まじめな顔つきに変化した。
「なるほど。おめぇさんらの言いたいことはわかった。それより、どうしておめぇらはここにいるんだ? 何しにきた?」
全然わかっていなかった。初めてコウに殺意というものが芽生えた瞬間だった。
「だからですね、ヘップおじさん――」
こんどはフシギが語り始めた。ヘップは一言一句逃さないとでもいうかのように眉をひそめ、目線を合わせて聞いていた。そしてそれは伝わったようだった。説明に対して差はないはずなのだが。
ヘップは語り始めた。
「俺たちはよぉ。とにかく金が欲しいんだよ。え? なんでかって? そりゃ欲しいからに決まってんだろ。え? それをどうするか? そうだなぁ、みんなで津々浦々酒場めぐりの旅でもするかな! かはぁ! 争い? だれだそんなことをしてんのは。俺たちはバレずに盗みを働くやつらだ。争いなんてもってのほかだ。そんな馬鹿な真似をするやつはここにはいないぞ。よって俺たちはここから出ない。わかったな。だからお前らも帰ったら財布がないなんてあっても喚くなよ。盗られた方が悪い。なに? 一銭も持ってないだと? おい、いますぐこいつらをここからつまみだせ! 貧乏が移っちまう!」
二人が金を持っていないのだとわかると、ヘップの態度が急変し、まるで汚物であるかのように扱われ、洞穴の外にぽいと放り投げられた。
なんて酷い扱いなのだと憤りを覚えるコウだったが、それよりも汚物扱いされたことにショックを受けていた。
「大丈夫ですよコウさん。コウさんは勇者ですし、たとえ汚物でもプラマイゼロです!」
全然フォローになっていなかった。
ここが最後だと、二人は気合を入れた。というか、気合を入れないと、この中にはとうてい入れそうもなかった。それくらい立派なお屋敷だったからだ。マフィアが着ていた真っ白なスーツと同じく、この屋敷も真っ白だった。手入れをするのはさぞかし大変なのではないかと思った。
インターホンが普通に存在していたので、インターホンを押すと、中から普通に声がして、事情を説明すると、簡単に中に入れてくれた。二人は緊張しながら開かれていく門をじっとみつめた。
門をくぐると石畳の階段があり、それをのぼったところにドアがあった。そこには、やはり白スーツを着た男がいて、中に入れてくれた。
中に入り、奥の荘厳な扉へと連れていかれ(道中の絨毯はすべて真っ赤だった)、やがて扉は開かれ、数人の男たちに囲まれながら中に入っていく。
中はうっすらと照明があるくらいで、周りになにがあるかはわかりそうにない。もっとも、そういう仕様にしているのだろうが。そしてこの全貌のわからない部屋の、おそらく真ん中あたりに、彼は座っていた。恰幅のいい男で、唇がたらこだった。薄暗いのにサングラスをかけている(今までの人たちもそうだった)。
「なんの用かね?」
コウは事情を説明した。サングラスをかけているので、話を聞いているのか聞いていないのかはわからなかった。
マフィアのボスである彼の名前はドンというらしい。名前に恥じないドンとした体格だった。そして性格もまた、ドンとしたものだった。
ドンは言った。
「せっかくいいアジトができたのに、手放すには惜しい。それに、この街は武器が豊富だ。退くわけにはいかない。武器の試し打ちや試し斬りも、まだまだ終わりそうにないしね。ひひ」
ドンは最後にこう言った。
「お引き取り願おうか。こっちも暇じゃないんだ。実のない話に付き合う気はない」
これがマフィアのボス――ドンの出した答えだった。
こうしてすべての答えが出揃ったわけだが、とんだ骨折り損のくたびれ儲けだった。なにせ、みんなそれぞれ独自の理由を持ち、信念を持ち、ここに滞在していて、それを二人は一日かけてただただ確認していったにすぎないのだから。
どうすればこの四つのグループは争いをやめ、そしてここを立ち退いてくれるのか。
考えれば考えるほど、コウの頭は空回りするばかりだった。
4
気づけば翌日になっていて、コウはぼうっと日の光を眺めていた。目の下には酷いクマができていた。一睡もできなかったせいにちがいない。
コウは昨日の夜からどうすればこの状況を打破できるか考えていた。だが、何も浮かばなかった。まったくといっていいほど打開策は生まれなかった。
この始まりの街に来てかれこれ三日経つ。早いものだった。そして、無駄足ばかり踏んでいた。というか、勇者というのは魔王を倒しにいく者なのに、どうしてこの始まりの街で身勝手でわがままな四つの集団を相手取っているのだろうか。しかも使っているのは口と足だけだ。とんだ食わせ者の勇者である。
それでも、この街を放っておくことはできない。なぜなら彼は勇者なのだから。勇者は一度決めたことを破ってはならない。それがどんなに難解であっても、はたまた強敵であっても、諦めたら勇者ではないのだ。
「お、はようございまぁす! 眠れない勇者のコウさん。ごきげんいかがですか?」
戸が開き、入ってきたのはもこもこしたピンクの寝間着姿のフシギだった。いつもはテルテル坊主のような白のワンピースなので、少しは大人っぽくみえていたのだが、今のフシギはただの小さくて無垢な子供だった。
「おはよう、フシギ。気分はまぁ、プラマイゼロってとこだな」
「どうやら私の寝間着姿が役に立ったようですね。ふふん。そろそろビジョ美女ママさんが朝ごはんをつくってくれる時間なので、いきましょう」
「……そうだな。というかそれだとビジョのことを呼び捨てにしてるぞ。いいのか?」
「まぁ、いいんじゃないですかね?」
その瞬間、戸がまたしても暴れるように開いた。
「よくないわよ! ばかなこと言ってないで早く朝ごはん食べなさい!」
「わぁ、ビジョさんのくせに生意気ですね」
「生意気なのはどっちよ! こんの! 待ちなさいよ!」
部屋の外で騒がしくドタバタと足音が聞こえる。
コウはそれを聞きながら、ゆっくりと部屋を出た。
「コウさん! 外に出ませんか?」
と言って誘ってきたのは、もちろんフシギだ。めいっぱいの笑顔を、いまだ寝ぼけているコウにこれでもかと降り注ぐ。コウは思わず目を細めた。
「……そうだな」
朝食を食べ終わり、このまま部屋に戻ったら、きっといつしか眠りにつき、気づけば今日一日を無駄にしてしまうことだろう。だからコウはその誘いに乗った。
今日もあいかわらず、良い天気だった。コウの鬱屈した気分を根こそぎ払ってくれるようだった。眠気の方は、どうしようもないが。
「おまたせしましたコウさん。ではいきましょう」
フシギはいつもの調子でコウの隣に歩み寄った。そこは、彼女のいつもの定位置だった。コウはふと、フシギを見た。
「うん? なんだそれは?」
フシギは、頭に見慣れない帽子を被っていた。丸い山形をしていてつばが広く、藁のようなもので編んでつくられており、山形になっている端に、ちょこんと淡い水色の花の飾りがついている。もしかしたらこれは、俗にいう麦わら帽子というやつではないだろうか。
フシギが視線に気づいたのか、こちらを振り返った。あご紐がぴったりと、フシギの顎に沿って結ばれている。
「ビジョ美女ママさんからもらいました。似合いますかね?」
「あぁ。少女が幼女になった感じだ」
「それ、褒めてませんよ? むしろ貶してます」
「いや、褒めたつもりだったんだがな……若く見えるみたいな」
「それを言って嬉しがるのはアラサーだけだと思いますよ、コウさん。まぁいいです、いきましょう」
「そうだな」
このとき、コウは初めてちゃんと街そのものを見た。色々な露店をまわり、当てもなく歩き回った。それだけで、なぜか楽しかった。気分が晴れ晴れした。
「それにしても、この街の中心にはなにがあるんでしょうね?」
「街の中心?」
「はい。だって先程からまるで、この街の中心を避けるようにして――ようは円を描くようにして歩いてるじゃないですか。いや、この場合、歩かされてるといった方が正しいかもしれないですが」
フシギに言われて初めてそのことに気がついた。たしかに、この三日間の中で、二人は一度も街の中心に行ったことがなかった。いうならば、四角いドーナツ型にくるくる歩いていただけだ。これはいったいなぜか。
その理由は簡単だった。この街の中心は更地だったからだ。ようは、行く必要がなかったから行かなかっただけだ。本当に簡単なことだった。この街の問題も、こんなに簡単だったらよかったのに。
「あ、見てくださいよコウさん。あそこで野球をやってますよ」
「野球?」
「野球です。ベースボールです」
フシギが指さした先には、たしかに十人くらいの子供たちがいて、野球をしていた。みんな、楽しそうだった。
「あ、あそこが試合結果のようですね……どうやら今は九回裏で、満塁、そしてツーアウト、ここでアウトなら試合終了、打って二点取れれば逆転みたいですね」
「それはまたとんでもないところに出くわしたな」
コウは、子供たちが送るこの試合を見ることにした。すぐ終わることだし。そう長くはかからないだろう。
そう思った矢先、ボールがぽーんと跳ね上がった。それは内野と外野の頭を超えたところでポトンと落ちた。
ようは逆転サヨナラ満塁ホームランだった(子供たちのルール上)。
「逆転しましたね」
「そうだな」
コウはその様子をじっと眺めていた。そしてしばらく黙考する。
「コウさん?」
「……そうか。なるほどな」
「あ、もしかしてなにかひらめいちゃいましたか? いいですねぇいいですねぇ、そのひらめき方。私、興奮してきました。さぁコウさん。部屋に戻って聞かせてくださいよ。コウさんが考えたアイデアを。この物語の、紡ぎ方を。ふふふ」
コウは、部屋に戻るまでのあいだ、色々なことを考えていた。思いついたのはいいが、果たして本当に実現できるのかどうか。結局、机上の空論なのではないか。たとえそうだとしても、そこからなにかヒントになるようなものがあるかもしれない。コウはそればかり考えていた。
「コウさん、しっかりしてください。もう部屋についてますよ」
「うん……? ほんとだ」
「完全に自分の世界に入ってましたよ。それより早く教えてくださいよ。そのためにデートを中断したんですから」
「ばかを言うな。あれは散歩だ」
「いやですねぇ、ジョークですよ。それより早く」
「……ようは、逆転の発想だ。『追い出そう』とするのではなく、『取り入れる』んだ。つまり、利用する。あの四つの集団が言っていた、魔物退治やスリルや金稼ぎや武器の試しがいっぺんにできるような――そういった施設をつくるんだ」
「ふむふむなるほど。ですがそれだと、根本的な解決にはなっていませんよ。たとえそのような施設がつくられたとしても、この街の状況はあまり変わらないでしょう」
「そうだな。だからここにある要素を取り入れる」
「ある要素、ですか?」
「そう。それは――」
「ちょっと大変なのよ! 手を貸してほしいんだけど!」
コウの部屋――つまり男性の部屋をノックもせずに大げさに開けたビジョは、大慌ての様子だった。なにか急な用件があるようだ。
「ノックくらいしろ」
「いいじゃないのそれくらい! それより早く来てよ! パパが! パパが大変なの!」
「大変?」
「そうなの! パパがね! 積み荷を卸してる最中にぎっくり腰になっちゃったの! だからあんたたちに積み荷を卸すの手伝ってほしいの!」
こんな申し出だった。だが、ぎっくり腰でそんなに慌てることもない気もするが。
「いいタイミングだ。さすがビジョ」
「え?」
コウは首を傾げているビジョではなく、フシギを見た。フシギもまた、きょとんとした顔で小さく首を傾げていた。この顔のつくり方を、ビジョにも見習ってほしいものだ。
「フシギ、ある要素というのはつまりはこういうことだ」
「……なるほど。御恩と奉公、というわけですね」
「そういうことだ」
いったいなんの話をしてるのか、ビジョには理解できなかった。
「つまり、あの更地に何でも屋をつくるわけね」
ビジョはとてもまとまった一言を言ってくれた。砕けた言い方をすれば、ようはそういうことだ。住民がなにかを依頼し、何でも屋が解決する。そしてその依頼に見合った報酬を渡す。これが一つの流れとなる。
だが、ここで問題が三つある。一つは、その施設を建てる資金。もう一つは施設を建てる許可。そして最後の一つは、
「この案をあの四つの集団が乗ってくれるか、だな」
とにもかくにも、これが一番の問題だった。たしかに理にかなっている気はするが、相手は幅を利かせた悪党たちだ。簡単な依頼は断るだろうし、ハイリスクローリターンの依頼ならば相手にすらしないはずだ。だから、厳密にいえば何でも屋というわけではない。『本当に困ったときに駆け寄るところ』みたいなフレーズのほうがしっくりくる。
「たしかにそこが一番の難所ではありますが、だからといってここで手ぐすねを引いていてもしかたありません。突撃あるのみです。それに、勇者は困難に立ち向かってこそ勇者なのです」
もっともな意見だ。
「立ち止まることは、勇者にとっても、そして――物語にとっても悪ですよ」
と、フシギは最後にそう付け加えた。
コウとフシギは、再び四つの集団のアジトに出向くこととなった。まわる順番は昨日と変わらない。初めはハンターからだ。昨日とはまた違った緊張がコウの体を駆けまわる。
ちなみに、ビジョにはこの街の偉い人にコウの案の旨を話し、建物をあの更地に建てていいか許可をもらう係にまわってもらっている。なんだかんだ、ビジョは良い奴だった。金の工面もいちおうは聞いてみてもらうことにはなっているが、そっちは期待していない。断られるのがみえてるからだ。それでも聞かないよりかはましだ。
ハンターのアジトはあいかわらずで、野外訓練もあいかわらずだったけれど、コウが提案した案には良い反応を見せた。
「面白いじゃないか。僕たちは意味もなく魔物を倒すのが嫌いなんだ。だから野外訓練も極力魔物には危害を加えないようにしていたんだ。だからその案はこちらにとっても好都合だ。もし正式に決まったらぜひ声をかけてくれ」
そこからとんとん拍子でヤクザ、盗賊のアジトにも出向き、話をすると、この二組も面白いように話に賛同してくれた。
ヤクザいわく、「人のためになるならば」と。盗賊いわく、「金になるなら協力する」とのことだった。
「コウさん、順調ですね。私はとても嬉しいです」
フシギは笑顔でコウにそう言った。「いやこれからだ」とコウは言ったが、まんざらでもなさそうだった。
「残るはあと一つ。マフィアだけですね。これが成功すれば私たちの案は通ったようなものですね」
というのは、盗賊のアジトを出た矢先、住民の一人がいきなり声をかけてきて、街のリーダーがこの街の中心にに施設を建ててもいいと了承してくれたのだ。
だからこそ二人は浮かれていた。そして気持ちが浮ついたままマフィアのアジトに入り、絶望するのだった。
「賛同できない……?」
「えぇ。住民は住民らしく、子猫のように震えていればいい。私たちと対等な立場になろうなんておこがましい。くだらない。ばかげてる。そう、お伝えください」
前と同じように白スーツを着て、どかりと不遜に座るドンは、ひじ掛けに肘をつき、さも同然のようにそう言った。
コウは慌てた。ここで簡単に引き下がるわけにはいかない。
「そこをなんとかお願いできませんか?」
「前も言いましたが、実のない話をする気はありません。お引き取りください」
ドンは取り付く島もなかった。それでもコウは引き下がれずにいた。ここまできて――そのおもいだった。
それを見抜いたのか、ドンはため息をついてからこう言った。
「いつまでもあんたらに関わってる暇はないんでね。まだごねるようなら、強行策をとらせてもらうよ」
ドンは指をパチンと鳴らした。すると、ドンの背後の暗闇から銃や剣などの武器を持った男たちがぬっと現れた。そして不気味に笑う。
コウの背筋がぞわりと震えた。きっとドンのいうことは本当だろう。これ以上ここに留まったら殺されてしまう。
それでも――いや、だからこそコウは前を向いた。
「死にたくはない。だが、俺は勇者としてここでそう簡単に引き下がることはできない」
住民の期待を背負っている。だからこそ、勇者として諦めるわけにはいかなかった。
その瞬間、背後の男たちが動く。カチャンと銃のセーフティーが外れる音が聞こえる。その音はコウたちの後ろからも聞こえた。
どうやらいつのまにか囲まれていたらしい。コウの心拍が体中を駆け巡る。
コウの頭の中は、いかにしてフシギを守るかで埋め尽くされていた。こんな愛らしい少女を巻き込むわけには――
「撃て」
コウがフシギの体を抱きしめるのと同時――
「待て」
ドンの声が甲高く部屋に響いた。
そして――
「少年、お前は勇者なのか?」
ドンの疑うような声がコウに届いた。
コウは事態がうまく呑み込めず、うまく声が出てこなかった。
「そうですよ。彼がこの世界の魔王を倒す勇者さまです」
コウの腕に包まれながらも、フシギはドンから目を離してはいなかった。むしろねめつけるような視線を送っていた。
「豪胆な少女だ。お前は何者なんだ?」
「私は物語の紡ぎ人ですが、この世界の人々にとっては何者でもないただのいたいけな年齢不詳の愛らしい少女です」
「物語の紡ぎ人? それはなんだね?」
「この世界の人々にとってはどうでもいいものですよ。それより早く話を進めてください。勇者とわかったドンさんは、なぜ手下の方達に撃つのを止めさせたのですか? それとコウさん、もうそろそろ解放してくださいよ。動きにくいです」
「あ、あぁ……すまない」
コウはゆっくりとフシギから離れた。そしてドンを見る。目が合ったような気がした。
「君は本当に勇者なのかね?」
「そうだ」
今度はコウはドンから目を離さない。暗闇に光るサングラスを、コウは穴があきそうなほどみつめた。
「ならば勇者。あなたに頼みたいことがあるんだ。引き受けてくれるかね?」
「頼みたいこと?」
「そうだ。そしてもしこの依頼を成功させてくれたら、私たちは喜んで君たちのその提案に協力しよう。なんなら、その施設を建てる金を工面してもいい。どうかね?」
それは願ってもない話だった。だが、うまい話には必ず裏がある。
「その頼みたいことってなんだ?」
「それはだね、ある宝玉を取ってきてほしいんだ」
「宝玉?」
「あぁ。この街を西に進むと、ココノ遺跡という遺跡がある。そこに眠る宝玉、それを取ってきてほしい」
「その宝玉を取り、お前に渡せばいいのか?」
「そうだ。ただし、この頼みごとには条件がある」
「条件?」
「まず一つ、遺跡には午前零時から午前二時までに入ること。二つ目、宝玉を手にしたらすぐにここへ持ってくること。三つ目、期限は明日まで。ようは、今日の夜しかチャンスはない。以上、この三つだ」
「……わかった」
「取り引き成立だな。成功を祈る」
こうして二人はマフィアのアジトを後にした。
「遺跡に眠る宝玉。それっていったいどんなものなのでしょうね」
帰り際、フシギは言った。
「楽しみですね、コウさん」
5
ココノ遺跡とは、古くからある遺跡で、なんの変哲もないただの古びた遺跡らしかった。調査は何度かあったらしく、特に宝玉がありそうな場所は無かったという。
「そしてここがそのココノ遺跡ですか。なんだかこじんまりとしてますね。ちゃっちいです」
午前零時、二人はココノ遺跡へと足を運んでいた。街からココノ遺跡まではそう遠くなく、歩きでも難なく来れる距離だった。
ココノ遺跡は、コケの生えた岩で入り口をつくっていて、地上にはその入口しかなく、どうやら地下に続いているようだった。
夜になるまでの間、コウはココノ遺跡の情報を調べたが、あまり成果は上がらなかった。ビジョいわく、取り立ててなにかあるわけでもない遺跡らしい。
ビジョは、コウにどこにでもありそうな刀を貸してくれた。そこはありがたいが、あくまでも貸しらしく、傷つけたら弁償らしい。もっと寛大な心を持ってほしいものだった。まあ、贅沢はいってられない。
「それではコウさん。さくっと宝玉を取りにいきましょうか」
「あぁ」
フシギはいつものように落ち着いていたが、コウは生返事しかできないくらい不安に襲われていた。果たして、こんな軽装備で遺跡に入ってもいいものなのか。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。ほら、コウさんあんなにこの遺跡のこと調べてたじゃないですか。危険はないんでしょう?」
「たしかにそうだが、魔物が巣をつくってるかもしれない――そういえば、俺が調べてる間、ちょこちょこいなくなっていたが、何をしてたんだ?」
「散歩ですよ。もう一生できなくなるかもしれませんからね」
「縁起でもないことをいうな。行くぞ」
コウは不安を吹っ切って遺跡の中へと足を踏み入れた。中は暗く、足元さえも見えない。失明した気分だった。
「大丈夫か、フシギ?」
「大丈夫かといいたいのはコウさんですよ。へっぴり腰になってますよ?」
フシギにそう言われ、背筋をピンと立ててからゆっくりと奥へと進んでいく。階段をおりる音だけが不気味に木霊する。
歩いても歩いても続くのは階段だけなのかと思うほど、階段だけがずっと続く。しかも、ずっと一本道だ。曲がり角もありはしない。
「いったいどうなっているんだ?」
コウが首を傾げたときだった。
ガコン! となにかが作動する音がした。
「なんだ!」
コウは壁に手をついて周りを見るも何も見えない。
「コウさん! 下です!」
「え?」
コウは慌てて下を見た。暗くてよく見えない――
「きゃ!」
フシギが小さく悲鳴をあげた。そして勢いよくコウにぶつかってくる。
コウは足に踏ん張りを利かせるが、なぜか滑った。
「は?」
その瞬間、カカカカカカカカカカと、ドミノが連鎖的に倒れるような音が響く。
コウはその音を聞きながら背中を地面に打ち付けた。だが、出っ張りはなく、すべて水平だった。
ドミノ倒しのような音が終わり、続いて響いたのは遺跡全体が揺れるようなゴゴゴゴゴゴゴという音。
コウは嫌な予感がした。
緩やかな下り坂が、急な下り坂に変化していく。
「うおぉぉぉ!」
コウはフシギを上に乗せて、まるでソリのように変化した滑り台のような道をつるつると滑っていく。その速さは、滑れば滑るほど上がっていく。
「おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
コウはもう叫ぶしかなかった。フシギはコウの上に乗りながら身を屈め、胸に引っ付いていた。
やがて、扉が見えた。
「コウさん! 扉です!」
「は?」
コウは声にならない声をあげたあと、
「うおぉぉぉぉぉぉ!」
叫びながら、闇色に染まった重厚な扉に突撃するのだった。
めまぐるしいとはこのことだた、コウは呻き声をあげてぼんやりと考えていた。
「コウさん、大丈夫ですか? 起きてください」
「うぅ……」
コウはうっすらと目を開けた。目の前には、フシギが心配そうな表情でコウの顔をみつめていた。どうやらフシギは無事のようだった。
それにしてもいきなり階段が滑り台のように変形したり、いきなる斜面が急になったり、そして扉に体当たりだったり、いきなり事態が急変しすぎである。
「コウさん、ぼんやりと過去のことを考えている場合ではありませんよ。後ろを振り返ってください」
言われるがまま、コウはう後ろを振り向いた。炎を灯した燭台が壁中にあるのは見てわかった。これがこの部屋を照らして視界を良好にしてくれているようだ。
だが、そんなことはどうでもいい。それよりも今は、目の前で鼻息荒く構えている『魔物』の方が重要だ。
野太い二本の折れ曲がった角。黄色い眼に尖った二本の牙。赤い体。そして十メートルはあろう巨大な体躯。片手には、岩をも簡単に砕きそうな斧を持っている。
「あれはミノタウロスですね。危険度的にはA級クラスの化け物並に強い魔物です」
フシギは解説してくれた。だが、そんな言葉はコウの耳には入らなかった。入るわけがなかった。
「う、うそだろ……」
事態が急変して、そしてそれをも呑み込むような緊急事態。コウの頭は真っ白だった。
「ウオォォォォ!」
ミノタウロスは唾液をだらだらと垂らしながら吠えた。まるで、目の前のご馳走を喜んでいるみたいだった。
「立ち上がってください、コウさん」
「なぁ、フシギ。あいつの――あいつの戦闘力はいくつだ?」
コウは立ち上がることもせず、フシギに縋るように聞いた。
「ミノタウロスの戦闘力は、約1000です」
フシギはそう言った。コウはあっけにとられた顔でフシギをみつめていた。
戦闘力の話は、この遺跡に来る前に話が戻る。こんな話だった。
「戦闘力? それはなんだ?」
遺跡へと行く道中、コウはそう聞いた。
「戦闘力とは、その人の『強さ』です。私はそれを測ることができます」
「そうなのか。なら、俺のその戦闘力ってどれくらいなんだ?」
「100ですよ」
「100? それは強いのか? 弱いのか?」
「普通の人よりはまちがいなく強いですよ。ちなみに私の戦闘力は10です」
「なら足し合わせて110か。よくわからんな」
「まぁ、しょせん数値ですから」
コウはそのことを思い出し、聞いて、そして絶望した。十倍の差があったからだ。目の前が真っ暗になりそうだった。
「勝てるのか? おれは」
「さぁ、どうでしょう。やってみなければわかりませんよ」
「そんな……」
コウは、ゆっくりと近づいてくる緩慢なミノタウロスをみつめた。即座に殺す気はないらしい。楽しんで食べる主義なのかもしれない。
仮に、ミノタウロスの動きがあのようにのろまならば、持久戦に持ち込めば勝てるかもしれない。あんなに馬鹿でかい斧を振り回せばすぐに疲れるだろうし、頭が悪ければうまく利用できるはずだ。そう思えば、やれる気がしてきた。
コウは立ち上がった。
「そうですよコウさん。コウさんは勇者なのですから、こんなところで震えていたら、勇者失格ですよ」
「そうだな」
フシギの言う通りだ。ただただ怯えることは、誰でもできる。でも、強敵に立ち向かうのは勇者であるコウにしかできない――そして倒すことも。
強敵を倒すのは勇者の役目だ。できなければただの人だ。
「うおぉぉぉぉ!」
勇者は駆けた。ビジョから借りた平凡な剣を持って、巨大なミノタウロスに挑む。
ミノタウロスは、近づいてきたコウを威嚇するように吠えた。そのあと、斧を肩にかかえて――跳ねた。
「は?」
コウはあんな巨体が軽々と跳躍する姿を見て、すぐに信じられず、立ち尽くしてしまった。
「コウさん!」
フシギの呼ぶ声で、どうにか降り注ぐ馬鹿でかい斧を回避するべき跳躍した。
だがそれはあまりに遅い回避で――
「ぐ――!」
斧から出る激しい風圧と、地面を叩き割った岩のつぶてがコウに降り注ぐ。
コウは岩のつぶてに視界を覆われた――前が見えなくなる。
「ウオォォォォ!」
突然の弾けるような衝撃。コウはわけもわからず燭台が並ぶ壁につっこんだ。
「コウさん!」
フシギがコウを呼ぶ声がした。だが、それがひどく遠く聞こえる。それに、手足も動かない。
また、ミノタウロスが吠えた。さっきまでばかでかいと思っていたその雄叫びも、今は遥か彼方のものに聞こえる。
ミノタウロスは歩き出した。地面が一歩歩くたびに揺れる。ゆっくりと目を開けたら、世界が血色に染まっていた。
コウは自嘲するように小さく笑った。結局、こんなものだ。戦闘力が桁違いの相手に勝てるわけがなかった。ありえない話だった。さきほどの自分をぶん殴ってやりたかった。
分不相応――今の自分にはこれがお似合いだと、コウは思った。
コウは目を閉じて、足音を聞いた。ずしん、ずしんと、カウントダウンを刻むように足音が聞こえてくる。はっきりと聞こえてくる。けれど――近づいてこない。というよりむしろ、遠ざかっていた。
コウはもう一度、目を開けて、血色の世界をもう一度よく見た。そして震えた。
ミノタウロスはゆっくりと、フシギに近づいていた。フシギは、腰を抜かしたのか、その場を動こうとしない。目は大きく見開かれている。
そして彼女の小さな口が開いた。
「コウ……さん」
コウは思った――フシギを守るために死んではならないと。
コウは悟った――本当に死ぬ瞬間まで、もがき苦しまねばならないと。
コウは信じた――勇者であることを。勇者ならば、死しても愛する者を守らなければならないと。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
全身の力を振り絞り、コウは体を動かす。まるで鉛のように重い体は、自分の体ではないようだった。あいかわらず、ミノタウロスの歩くスピードは緩慢だ。
コウはなりふりかまわず走った。たとえ四股が取れようとも、彼のスピードは止まらない。それくらいの迫力があった。
「フシギィィィィィィィ!」
ミノタウロスが斧を振り上げた。
そして無慈悲に振り下ろす。
コウはそれでも動かないフシギに体当たりするように――けれど傷つかないように優しく配慮して、腕の中にしまい、ミノタウロスの一撃を間一髪避けた。暴風と岩が容赦なくコウの体を叩きつける。
コウは気付けばまた横たわっていた。
「コウさん……体中血だらけですよ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。つばつければ治る」
「そしたら全身つばまみれですね」
「こんなはずじゃなかったんだがな」
ミノタウロスが近づいてくる。
「フシギ、逃げろ」
「いやです。たしかにミノタウロスの先には出口のような場所がありますが、あそこまでたどりつくのは私には不可能です」
「なら、俺が時間を――」
「その体ではもう動くことすらできませんよ」
「ならどうすれば……」
「死ぬしかありませんね」
「そんなこと、許されるはずがない」
「ならばコウさん、最後に私を抱きしめてくださいよ」
ミノタウロスの足音が止まった。死神はもう、すぐそこだ。
こんなはずじゃなかった。こんなことになるわけないと思っていた。ここで死ぬわけないと高を括っていた。死という恐怖を、味わってみたいなんて考えていた。
死神は、冥土へと送る鎌を悠々と振り上げた。死はすぐそこだ。
けれど死神の鎌は、二人を冥土に送るまでには至らなかった。憎々しげに、死神は吠えた。
「どうやら間に合ったみたいね。ヒーローならぬヒロインである私――ゼセーノ=ビジョ、華麗に参上よ!」
コウは思わず顔を上げた。そこには、馬鹿でかい大剣を肩に担いで、呑気にピースしているビジョの姿があった。
「な、なんでビジョがここに?」
「フシギに頼まれてたのよ。頼まれ物をつくっててちょっと遅れたけど、ぎりぎりセーフみたいね。だいじょうぶ、コウ?」
ビジョはコウに手を差し伸べた。だが、コウはそう簡単にその手は取れなかった。
「俺は今、死のうとしていた。あきらめていた。勇者である俺が、死を受け入れてしまった。俺に生きる資格はない」
「はぁ? あんたなに馬鹿なこと言ってんのよ! 生きてればそういうことくらいあるわよ! 勇者だって人間なんだから! 死ぬことくらい考えるわよ!」
「そんなことは……」
「あるわよ! だいたいね! 助かった命なんだからそれを無駄にしようとしたら、それこそ勇者失格よ! いやこの場合人間失格といってもいいわ!」
「……そういうものか?」
「そういうものよ!」
たしかにビジョの意見にも一理ある。だが、そう簡単に切り替えてもいいものなのか、コウにはわからなかった。
「まぁ、あんたはそこで休んでなさい。ていうか、そんな体じゃろくに動けないでしょうけどね」
ビジョはそう言って、前を向いた。ミノタウロスが低く唸る。警戒しているようだった。
「さぁ――いくわよ!」
ビジョは大剣を両手に持ち、駆けた。ミノタウロスも斧を両手に持ち、ビジョを迎え撃つ。
だが、ミノタウロスの攻撃は美女にはかすりもしなかった。
「せぇぇぇぇぇい!」
ビジョの大剣がミノタウロスの皮膚にかみつく。ズバンと気持ちのいい音がして、ミノタウロスの皮膚から真っ赤な血が噴き出す。ミノタウロスは悲鳴のような声をあげた。
ビジョはそのあともどんどんミノタウロスに傷を入れていく。斬られたところから絶えず血が噴き出し、まるで噴水のようにあたりに飛散していく。
「ちょろいわね」
ビジョは大剣をぶんぶんと振り回しながらも息一つ乱れず余裕そうだった。
その様子を、コウは信じられないものでも見るような目で見ていた。やがて、ぽつりと言った。
「いったい、ビジョは何者なんだ?」
「彼女は剣士ですよ。それもかなり才能のある」
フシギはその独り言を拾い上げて、言った。
「なにせ彼女の戦闘力は10000を超えてますからね。見たときは驚きました」
コウの百倍以上。どおりでこんな簡単にミノタウロスを圧倒するわけだ。ミノタウロスからみれば、ビジョは桁違いの戦闘力を持っているのだから。強者が勝つ。当たり前の話だ。
「どうして俺はこんなに弱んだ」
「コウさんが弱いわけではありません。ビジョさんが強すぎるんですよ」
そう言われても、納得できなかった。コウは悔しくて、拳をぎゅっと握りしめた。
「強くなりたいな」
「なれますよ。なにせあなたは勇者なのですから」
戦いはこれで終わった。
そう思った――そのとき、物語は蠢く。
「ウオォォォォオアァァァァ!」
今日一番の激しい雄叫びが部屋いっぱいに轟いた。コウは思わず体をすくませた。そしておそるおそるミノタウロスを見る。そしてミノタウロスの黄色かった眼が、真っ赤に染まっているのを見た。
「いったいなに! 負け犬の遠吠え? あれ、牛だけど」
ビジョがばかばかしいことを言ったそのとき、ミノタウロスが斧を振り上げ、振り下ろす。それは、誰もいない場所だった。
「血を流しすぎて前が見えなくなったのかしら?」
ミノタウロスはとにかく暴れ回った。まるで暴走した機関車だ。やたらめったらに飛び跳ねては斧を振り回し、また跳ねては斧を振り回しの繰り返し。そしてそれはビジョの真上だったり見当違いだったり――とにかく手あたり次第だった。
「あんたたちもっと離れてなさい! こんな無作為だといつあんたたちに突っ込むかわかったもんじゃ――」
その直後、ミノタウロスが軽快に跳ねてビジョの真上に斧を振り上げる。ビジョはコウとフシギに気を取られて回避が少し遅くなった。
だが、そうはいっても難なくかわした。
「いったいなんなのよ!」
ビジョが悪態をついたそのとき、事態は起きた。
ゴゴゴゴゴゴゴ! ガシャン!
突然、ビジョの足場が崩れるように割れていく。まるで耐久力のない土壁のようだった。
「え、嘘!」
ビジョは崩れ落ちる足場から逃げ出そうとするも、もう既に瓦解した足場は、力強く踏ん張っても下へと引っ張られるだけだ。ようはジャンプすることができないのだ。
「ビジョ!」
コウは無意識の内に走り出し、穴が開いていく地面へと走る。
「コウ!」
ビジョは下に吸い込まれながらも、コウへと手を伸ばす。もう少しで手が届く。
もう少し――もう少し!
互いの手が触れた。ビジョの手に血が付いた。そのままビジョは下へ下へと沈んでいく。
「届けぇぇぇぇぇぇぇ!」
腕が引きちぎれるくらいに手を伸ばす。
けれどコウには何も掴めなかった。彼女は暗闇の底に落ちていった。
「くそぉぉぉぉぉ! くそがぁぁぁぁぁ!」
コウはビジョを吸い込んだ暗闇をみつめた。暗闇も、彼をみつめていた。
「なんで! なんで救えないんだ!」
たったいま、強くなりたいと決意したばかりなのに。
「どうしてこんなにも俺は弱いんだ!」
こんなにも自分を殺したいと思ったことはない。
「どうして俺を一緒に落としてくれないんだ……!」
穴はコウを避けるようにして手前で止まっていた。ここで穴に落ちることができたらどんなによかったことか。自分の不幸な幸運を、コウは呪った。
ミノタウロスは急に上機嫌になった。うまくいったと喜んでいるのだろう。
「お前のせいだ! お前のせいで――!」
言って胸が痛くなった。なにかが胸につきささったようだった。呼吸ができない。苦しい。
ミノタウロスは、穴を挟んだ向かい側に立っていた。そこからでも、長い手とばかでかい斧があればコウをぺちゃんこに押し潰せるだろう。
押し潰されればどんなに楽か。このまま殺されればこの思いからは逃れられるのだ。けれどそれをしたら、自分は死んでもその行為を悔やみ続けるはずだ。そんなことはしたくない。だからコウはミノタウロスから目を離さない。睨み殺せればいいのに――なんて思いながら、コウは真上に振り上げられた斧には目もくれず、ただただ真っ赤な眼をみつめていた。
死んだ瞬間、呪い殺せるように。
「オン・スペル・バインド」
小さくか細く――しかしよく通るような声が、この部屋に木霊した。
その言葉のあと、ミノタウロスは石像のように硬直した。まるでなにかに縛られてるみたいだった。
「コウさん。この魔法の効力はあと三十秒です」
と言ったのは、フシギだった。いつものように、彼女はコウの隣にいた。
「コウさん、私はさきほど戦闘力の話をしましたね。そのせいでコウさんは本来の力を出せずにいる」
フシギは続けた。あと二十秒。
「戦闘力なんてものはただの数値ですよ。あんなのは当てになりません。勇者ならばなおさらです。勇者は戦闘力で戦う人ではありませんから。それに――」
あと十秒。
「たったの十倍ですよ。そんなものがひっくり返せないなんて、そんな人は勇者ではありません。魔王なんて戦闘力を測ることすらできませんから。そう考えたら、十倍なんてたいした差ではありません。大事なのは心ですよ、コウさん」
残り一秒。
「反撃開始ですよ、コウさん。目にものみせてやりましょう。あんな平凡剣士とは、比べ物にならないくらいのやつを」
そして拘束は解かれた。ミノタウロスの斧が動き出す。
コウの目に光が宿った。
「はあぁぁぁぁぁ!」
コウは斧の横っ腹を剣で叩き、軌道を逸らした。斧はあらぬ方向に軌道を変えられ、ミノタウロスはバランスを崩す。
コウは無我夢中で走った。このチャンスを逃すわけにはいかないからだ。
「おおおおおらぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
コウが狙ったのは、あの真っ赤に染まった眼だ。体勢が崩れたミノタウロスの眼に、剣の先をねじこむ。ミノタウロスは悲鳴をあげた。
コウはすばやく剣を抜くと、今度はミノタウロスの背中へと回った。ここならばそうそう斧があたることはない。そして首の後ろ辺りに剣を突き刺し、そのまま地面に飛び降りた。その重みで剣は首から背中に真一文字の傷をいれる。ミノタウロスの体がよろけた。
あと少しだと、そう思い、体の力が抜けた。その瞬間、ミノタウロスの手がぬいっと現れ、がしっとコウを掴んだ。
「くっそがぁ!」
どうにかして刀を突き刺そうにも、あまりに力が強く、コウは剣を落としてしまう。握る勢いがどんどん強くなっていく。
「あ……く……」
息ができず、体が弾け飛びそうだった。意識が断絶しそうになる。
「ま……だ……」
コウが呻いたその刹那――コウの目の前が淡い光に包まれた。
「オォ」
ミノタウロスが小さくいなないた。そして、足場が一気に崩れ落ちる。
ミノタウロスとコウは、ビジョのように奈落の底のような暗闇へと落ちていく。いつのまにか、コウはミノタウロスの手から離れていた。そしてそれは、意識に関しても同じだった。