三二話 文化祭の朝
波に揺れる小舟の上で仰向けに寝転び、眩しい光を薄目で見ている。何度も揺れる船体から、もうすぐ嵐が来るかも知れないと感じる縁。
ざわざわとした波音がする中で、縁は少しずつ目覚めた。
起き上がろうとするその腕に、吉原先生ががっちりと絡まっている。反対側からは寧結の足が縁の頬を踏みつけるようにある。
縁はそれを静かに退かして、寧結の寝相を確認した。
寧結は隣に寝ている折紙先生のおっぱいを枕にして、真横になって縁の顔面を足蹴りしていた。
体に絡まるそれらを外して、上半身を起こして状況をみる。時刻は朝の七時半。いつもならとっくに起きている時間だ。
「痛っ。頭が……」
寧結に蹴り揺さぶられたからではなく、二日酔いの様なその感じは、間違いなく夏風邪の初期状態であった。
昨日の夜、疲れ切った体にムチを打ち、半裸にびしょびしょで寧結を探し回った結果だ。おまけに、風呂前や捜索中は半分夢の中にいたのだ、体調が崩れて当然。
具合の悪さを感じながら起きなければともがく縁。そんな縁を嘲笑うかのように寧結の寝ぼけた夢遊拳法が襲う。眠りが浅くなっている証拠だ。
普段は何度も寝返りをうち、毛布を剥いだり寝間着を脱いだりと、日によって違う技を出す。
今日はワインでも作っているのか、それともサイクリングしている夢でも見ているのか、足癖が半端ではない。
それに加え、たまに折紙先生の胸に頭を乗せたままブリッチをしている。怖い。
ボーっとしながらそれらを払いのけていると、突然床についた、軸にしている手を肘ごと引き抜かれ、思いっきり抱き寄せられる。
吉原先生だ。
どうやら寝ぼけているようだが、縁は折り曲げられた肘を引かれた拍子に、吉原先生の上に身をひねりながら半分ほど覆い被さる。どうにかフリーの手で地面を支えて、ぶつかりはしなかったが、もう少しで大事故だ。
どうにかして、片手だけで体勢を立て直そうとする縁だか、綱引きでもするように自分へと引き込んでいく吉原先生。起きているのではというほどのパワーだ。
縁はその引きに負けて、先生の胸へと吸い込まれた。その瞬間、食虫植物の葉が閉じるように縁を抱え込む。
縁の首と頭に吉原先生の腕が絡み付く。
「ぐっう、ちょ、っと。先生。先生? 起きて下さい。先生?」
頭痛がする中、ノーブラのやわらかな雪山で雪崩事故にあって窒息寸前になる。もがきたくても顔を動かせない。そんなことをすれば大変な事態になる。
目覚めてくれるのを願いながら、小声で呼びかける縁。だがまったく起きてくれない。それどころか絡み付きがアナコンダのように激しさを増していく。
このままでは丸呑みにされてしまう。
仕方なく縁は、幻のツボ押し、脇腹フィンガーシックスを出した。
両手の人差し指と中指と薬指の六本で同時に突く技だ。これは軽い不感症程度の者でも、悶絶させることのできる縁の裏ワザ。
言うことを聞かない寧結に使う、くすぐり技の一つ。
「きゃあ。アッァ。……。……。……ん? ん? あっ床並君? おはよう」
あまりの刺激に悶えたあと、眠たそうに重たい瞼を開ける。
眉毛だけをあげて薄目で縁を見る吉原先生。
何度か瞼を開く素振りをして……瞳を現した。ようやく起きたようだ。
縁は先生の反応を見て、いくつか不思議に思う。
それは寧結の寝ぼけ方と全然違う所にだ。大人と子供はこうも違いがあるのかと感心する。更にもっと驚くべきことは、吉原先生が怒りださないこと。
縁は先生のおっぱいに顔をうずめていたし、解放されたとはいえ覆い被さっている状態でもある。
これが寧結なら、触っていなくともチカンだなんだと騒ぐし、キスしたとかそれこそ冤罪を作りたてる。なにせ寝ている時の記憶が全くないのだから。
記憶喪失並みだ。
だが、吉原先生は縁のこの状況を見ても悲鳴一つ上げない。驚きもない。
逆にぐっすりと寝ていたよと言っているような態度だ。寧結のように怒って叱りつけてこない。言いがかりもない。なぜ?
不思議そうにしている縁に「あ、ごめんねなんか。寝ぼけちゃって」という。
縁も「いえ、こちらこそスミマセン」と謝り、ようやく退いた。
ヘタすれば退学かもと怯えていた縁は、全く訳が分からない。縁もまた寝ぼけていて、まだ頭の回路が正常に機能していない。
もしかして……?
色々疑問はあるが、女性の寝ぼけや酒に酔っているかは、本人の意思に従うしか仕方がない。そうだと言われれば男性側にそれを覆す術はない。
世の中は女性主導型オセロ。
黒でも白でも女性の思うままにひっくり返る。逆に男性のオセロは犯罪に問われやすい。
具合悪さと先生への申し訳なさを感じながら縁は起き上がった。見渡すと昨日のメンバーは全員くっ付いて敷布団の内へと納まっている。
縁は、寧結を起こそうと軽く揺らした。
と、目覚めた途端、寧結が驚きで目を見開く。
「あああぁ~。兄ぃ~、ドコ? ココどこなの~。ナンでぇ? イリュージョン」
叫ぶ寧結の口を急いで押さえ「落ち着け寧結! 学校だ。ここは学校の剣道場だ」と小声で説明する。が、縁の塞いだ手の中でごにょごにょと叫んでいる。
周りに迷惑をかけたくなかった縁だったが、その場で眠る全員が、寧結の特大目覚まし砲で目覚めた。
「おはよう。どうしたの? 何かあったの?」
「おはよう。ごめんねなんか……。妹が寝ぼけちゃって」
これが縁の知っている本物の寝ぼけだ。理性の欠片もない雄叫び。
寧結にあるのは、ドコだという疑問だけ。
普段も色々なパターンはある、まだ眠たくてぐずるパターンもご機嫌なパターンも不機嫌な暴走も、とにかく寝起きは普通じゃないのが普通。
一斉に起き上がりそれぞれが挨拶する。とそこに濱野と裏画が来た。
「ええ? まだ寝てたの? 逆に凄いな。もう七時五十分だよ。マジか」
「朝から裏画のくせにうるさいわよ。先生にそういう口を利くのは百三十七億光年早いわ」
吉原先生がけだるそうに裏画を睨む。この朝の眠気を全て他人のせいにして八つ当たりする感じは、寧結の寝ぼけ具合に少し似ていた。
起こし役はいつもとばっちり。
「兄ぃ。顔がビリビリのガサガサだよ。なんでクリーム塗ってくれなかったの?」
「寝る前に塗ってあげたぞ? どれ。ん? そんなにカサカサか?」
「ああぁ~お風呂入ってないンでしょ? それだよ」
「ばかなぁ。入ったよ。お前覚えてないのか? ったく」
端に寄りながらそれぞれが着替えていく。
縁と寧結のおとぼけた会話を聞きながら、幼い子供の本場の寝ぼけ具合を、皆が楽しむ。そして自分の幼い頃を思いだし、確かに何も覚えてないなんてことあったなと懐かしむ。
そんな中、昨日の支度同様に、濱野と裏画が布団をたたみ少しずつ運び始めた。お互いに競争するように道場外へと運んでいく。本気で競っている。
今の二人にとっては何事も勝負に感じてしまうようだ。
どっちが男として上なのかと。
寧結をトイレに連れて行ったあと顔と歯を洗い磨く。女子達はノーメイクを隠すようにトイレや部室へと向かい、それぞれがメイクをする。髪の毛は後回しで急ぐ女子達。
「床並君、寧結ちゃん連れて先に美術室に行ってくれるかな。朝ごはんそこで食べるから。たぶんもう用意してあると思うわ」
折紙先生も洗い終わった素顔に化粧水をペタペタと染み込ませ、両手ですっぴんを器用に隠して言う。
縁は廊下を歩きながら、寧結にクリームをつけていく。おでこと両頬と鼻と顎、それと首筋と両手の甲へ。それを自分で塗り伸ばしながら「お腹空いたよね~」と笑う寧結。
美術室に入るといきなり葉阪と寺本のマネージャーコンビが迫ってきた。
「部長! お泊りするならなんで言ってくれないんですか? 私達だけ仲間外れなんてさびしいンだけど」
「そうですよ~。超泊まりたかったです」
悔しそうにする二人に言い訳する縁。朝食の支度をしながら駄々をこねる二人。縁も手伝いながらそれをなだめていく。そこへ濱野と裏画が入ってきた。
「お~い、御飯とかお湯とか持って来たよ」朝から明るい。
大きな机に沢山のおかずが並ぶ。寧結が座る場所の御飯だけお弁当類ではなく、チンした御飯にレトルトの具だくさん親子丼がかかっていて、温めたレトルトチキンハンバーグ、更にサラダにたっぷりソース。カップの豚汁。フルーツにパックの牛乳などが並ぶ。
「いいなぁ寧結。俺もお前と同じのがいいよ」
「なんで? 兄ぃは皆と同じでイイでしょ? 同じナンだからさ。私は寧結だよ。見てよほら、どう見ても違うでしょ? だって寧結だもん」
「は~ぁ。どういうこと? お前は育ちざかりのお子様だからだぞ。何か勘違いしてないか? 俺はお前のこの先が少し心配だよ。友達とか……いる?」
「いるよいっぱい。幼稚園の時からの子も入れたら――」
そう、寧結はなぜか友達が沢山いた。それが何故かは分からないがクラスの中心人物として沢山の女の子が勝手に集まってくる。
嫌われものになってもおかしくないほど目立っているのに、どこへ行っても人気者だった。
偉ぶることや暴力を振るっての牛耳りではなく、皆が勝手に崇めてくれている。まるで女王蜂のように。
女の子の人間関係性は複雑で、未だによく分からないが、寧結がというより皆がそうしているといった感じ。
つまり凄く慕われていた。……女子の心理は分析不能。
ゾロゾロと皆が美術室へと集まり、大分遅れて折紙先生と吉原先生が来た。
「先生遅いですよ。御飯冷めちゃいますッ」
「先生達は化粧に時間がかかるんですよね? 仕方がないよ」
お腹を空かせた女子部員達が愚痴る中、裏画がトドメを刺す。と。
「何を生意気なこと言ってるの。先生達は職員室に行って、皆の出席の確認を各クラスの担任にチェックしてもらっていたのよ。ホント、こんな態度なら遅刻に訂正しようかしら」
変な態度を取った生徒達が一斉に媚びて謝る。
「あらあら、吉原先生はまるで生徒の為だけに職員室に行ってあげたみたいな口ぶりだけど、本当は自分の出席確認を済ませたかっただけよ」
折紙先生の横槍に、吉原先生も勢いを落とす。そして生徒達も少し荷が下りた。
「頂きます」
ほんの少し急ぎつつ食べながら、文化祭という今日をどう過ごすか話す。
「兄ぃは文化祭か。私は……あれ? 私って今日さ、何時間授業だろ?」
「確か第四土曜日だから……二時間だろ」
未蕾小では、土曜授業は二時間、三時間、四時間の三種類の時間割があり、基本休みはない。ただ金曜日もしくは月曜日が祝日の場合のみ連休を作る為に、土曜は休みとなる。それ以外の土曜休みはない。進卵学園も土曜日は四時間授業があり、未蕾小同様に、祝日の関係で土曜日が休みとなっている。
「二時間かぁ~。学校終わったらどうしよっかな……」
「ん? 萌生ちゃんとかお友達とこっち来て遊べば。ま、部活でダンスの練習するもいいし、お前の好きなように過ごせよ。こっちに来るなら多分、お昼とか食べなくても平気なくらいお腹いっぱいになるぞ、ま、何かあったら一年F組においで」
「分かった。そんじゃ、友達と来る」
それぞれが今日の予定を話していると、突然、教室内にあるテレビがつき、校長先生の朝の放送が流れ始めた。
「えー、生徒の皆さんお早う御座います。今日は待ちに待った文化祭です。昨日遅くまで残って作業した人も多くいると思いますが、今日は一日怪我なく事故なく楽しく過ごせるように、皆で気を付けて生活するようお願いします。それと――」
長い話が続く。
一般生徒は、文化祭仕様になった教室など各自の場所でそれを聞く。そしてそのテレビ放送が終わると、文化祭の始まりとなった。
学校中が一気に動き出す。チケットを持参したお客もそろそろ入校する。
剣道部員達は、お腹いっぱいになった状態で、お茶やコーヒー、ジュースなどを飲み少しくつろぎながら他人事のように笑っている。
これも全て、吉原先生がしてくれた出欠の事前報告のおかげである。
「兄ぃ。そろそろ学校行かないと私遅刻しちゃうけど」
「もうそんな時間か。よし、それじゃ送ってやるから……あれ? 鞄は?」
「かばん? 知らない。剣道場かなぁ? 部室だぁ~きっと。あっ、違う。兄ぃの教室かもしれない。でへへへぇっ」
「なに無邪気に笑ってんだよ。マジで遅刻すンだろう。ほら急ぐぞ」
「床並君、剣道場は私達が行くから、教室に向かって」
皆が手分けして探してくれることになった。
時刻は八時二十五分。
美術室を飛び出すとそこに今込が走り寄ってきた。肩には寧結の鞄がある。
「おお、いたいた。このかばん、寧結ちゃんのでしょ?」
息切らす今込がホッとする。どうやら縁を探し回っていたよう。
「ありがとう助かったよ」
「サンキュー今込君。遅刻しなくてすむぅ」寧結も嬉しそうに感謝した。
鞄を探す手間が省けた縁は礼を言い、寧結を連れて進卵学園と未蕾小を繋ぐ一階中央通りへと向かう。
多くの生徒達が行き交う学園を抜け、一気に寧結のクラス手前まで送る。
「兄ぃ、もうここで平気だよ」
「そうか。そんじゃ俺行くけど、ちゃんと勉強しろよ」
「分かってるってば。あまり言うと勉強したくなくなるから」
「あー分かった。とにかく良い子でな」
別れの挨拶をしていると、そこへ寧結の担任の先生が走ってきた。
「あら、おはようございます。寧結ちゃんが少し遅れるかもしれないって今職員室に連絡入ったところだったけど、間に合ったみたいね。良かったわ」
「あ、なんかすみません。迷惑ばっかりかけちゃって」
「うふ、そんなことないわよ。寧結ちゃんは面白いし、勉強も凄くできるし、先生の言うことも一番聞いてくれて、クラスの皆をいい方に引っ張ってくれるリーダーみたいで私としては大助かりです。ねぇ寧結ちゃん、頑張り屋さんだもんね?」
寧結は照れて下を向く。
「本当ですか? ……だとイイですけど……」
先生の言葉が全く信じられない縁。若くエネルギッシュな縁でさえ、手を焼くじゃじゃ馬だが。
しかし、子供というのは家で家族に見せる顔と、学校で皆に見せる顔に二面性を持つケースがある。特に女の子は。そして寧結も別人であった。
更に思春期になると、男子の前でも別の顔を持つのが普通となる。
寧結は一年生にしてすでに女の子として多面性を操っていた。だからこそ萌生やクラスの子と数多く友達になれている。今の所は、であるが……。
少しの間、担任の先生と雑談していたが「あ、そういえば今日は文化祭だったわよね? ごめんなさいね足止めさせちゃって」と会話が終わった。
先生にお辞儀し、先に教室に入って自分の席につく寧結に手を振る。その前の席に座る萌生にも笑顔で手を振り、縁は進卵学園へと急いで戻った。
中央通りのドア前では、今込と濱野と裏画が待っていた。




