二三話 高揚の季節
夏休みも終わり新学期が始まった。
君鏡と日野はクラスの変化を感じ取っていた。いや、D組だけではなく他クラスも全てである。
もっと言えば一年だけではなく、学校自体の雰囲気が様変わりしている。
「なんか変だよね」
「うん。夏休みだったから、皆、大人になっちゃったとか?」
日野と君鏡は顔を見合わせてちょっと照れる。女子にはよくある話だ。
確かに、何処の学校でも夏休み明けには変化はある。そしてこの進卵学園も数名の退学者が出ていた。殆ど一年生だが、二年生にも少し出ていた。
違法なハーブやドラッグ、または、お酒やたばこが原因のトラブルを起こしていたり、それこそ学校に通うのが嫌になったという理由の者もいる。
ただ、君鏡と日野が感じているモノは、そういったこととは少し違っていた。
一方、F組の縁と今込と園江と百瀬は、クラスの変化も学校の雰囲気も気付かず、じきに来る文化祭の係仕事をどうしようかと話し込んでいた。
他の生徒達は、当番制で夏休みも学校へ来て作業していたのだ。
夏合宿を理由に一度も参加していない四人は、九月半ばにある文化祭までの残り期間、出来る限りクラスの一員として頑張らなければならない。
F組の四人以外、ほとんどの者達が雰囲気の変化に気付いている。異変の原因はいくつかあるが、それはやはり不良グループの衰退によるピラミットが崩れたことが大きい。そして、剣道部の合宿がどのようなものであったかが漏れたこともその要因だった。
個人でエンジョイしている者になら、仕方ないと我慢のしようもあるが、部活としてなら話は変わる。同じ学校の生徒として部活にも合宿にも参加することが出来たかも知れないからだ。
「ねぇ、なんで皆が合宿のこと知ってるわけ? 一体どこから漏れたの?」
岡吉と雨越が話し込む。
似たようなことが各クラスの剣道部同士で交わされていた。そのことに気づいてないのは一年F組の四人だけだった。
「私そんなこと言わないし」
「私だって」
皆が違うと言い訳する。そう、部員達は誰一人嘘をついていない。そして、誰も合宿のことを公言してはいなかった。なら何故?
答えは簡単だ。それは折紙先生。
先生がネットにつぶやいたりブログに載せていたのだ。
いかに楽しくて、美味しくて、くつろぎパラダイスだったかを。
日々、部員達が楽しそうに練習していることや、夜には花火をしたこと、スイカ割りも。
部員達で水風船当てしてはしゃいだことも。それこそ挙げればキリがない。
それが生徒達に広まったのだ。
先生的には剣道大会のことや合宿での監視役も兼ねて、校長や学校側へ報告しているつもりで載せていたのだ。当然、悪気はない。しかし、思いのほかそれが化学変化を起こして、学校を屈折させていた。
子供達は退屈を持て余している。何か楽しいコトはないか、自分だけ時間を無駄にしているのではないかと。一分一秒も無駄にしたくない。
何もすることがない日は、テレビをつける……が、イイ番組がなくチャンネルを回すだけ。そしてテレビを捨て、インターネットへと移行する。
お決まりのサイトなどネット内を泳ぎ回る、何かないかと探し回る。そこで見つけたのが、折紙先生の合宿報告という訳だ。
しかも、同じ学園の生徒が沢山訪問していて、愚痴を言いまくる。
夏休みは長い。特にやることがない者達には大損した気分だけが募る。皆が笑い楽しみ恋をしているのに、自分だけが……一人、孤独。
友達とメールしても、たまに会って携帯ゲームしても満たされない。その場限りの癒しで終わる。何度も言うが、夏休みは長い。
高校生だからこれで済んでいるが、寧結や萌生の様な小学生にはもっと長く感じていた。あんなに楽しい場所でさえ新しい遊びを欲するほど貪欲であった。これは医学的にもそうらしいが、感じる時間の長さが大人と子供では本当に違うらしい。
二週間弱の合宿も、寧結と萌生には数ヵ月に感じていたはず。萌生の剣が上達したのも、小学生という特殊な時間の流れで言えば当然の結果とも言えた。
三時限目の理科の時間、移動先の理科室で先生から声がかかる。
「床並君。あなたに大事な話があるからホームルームが終わったら、部活には向かわずに、先生の所まで来なさい。話があります」
少し怒っているような雰囲気だ。
縁は、まったく身に覚えがないことにキョロキョロと辺りを見渡す。今込と目が合うと、肩をすぼめて「何かしくったの?」と口パクでジェスチャーする。
縁はほっぺたをブルブルと振った。
夏休み明けということで、午前中だけの短縮授業。
あっという間に、帰りのホームルームが始まった。そこでの議題はやはり文化祭の準備についてだ。
「え~、少し準備の工程が遅れ気味です。当番になった人は、サボらずにきちんと居残りして下さい」文化祭実行委員の二人が前に出て仕切る。
と、縁が手を挙げた。
「どうしたの床並君。確か今日は当番よね? まさか、部活に行く気じゃないでしょうね」
「いや、違くて……。えっと、なんか生物の先生に放課後、呼び出されてて」
「ええっ。なんでぇ。一緒に準備するって約束したでしょ? あんなに念を押したのに」
少し怒っている女子。だが、理科室でのやり取りを聞いて知っている生徒が縁の言葉が真実であると立証した。……元から縁が嘘を付いてサボる訳はないが。
「仕方ないなぁ。それじゃ急いで戻って来てね。五時までは平気なんでしょ?」
縁はつい癖で頷いたが、返事した後、寧結も午前中で終わると思いだし、焦って今込に妹のことをお願いした。
寧結のおてんばぶりが少し心配であるが、この忙しい状況と携帯電話の使えない学校内では、今込を頼る以外なかった。
ホームルームが終わると、教室以外の掃除が始まる。教室は文化祭準備の作業が終わった後に、片付けと掃除をするのだ。
縁は職員室ではなく指定された理科教員室へと急いで向かった。
妹の不安を振り払い急ぐ縁。そして目的地へ着くと、ドアをノックし生物の先生である吉原麗菜が出てくるのを待つ。
十秒ほどでドアが開き、顔を覗かせると「先に理科室に入って待ってなさい」と言ってドアを閉めた。縁は言われるままに理科室へと入る。
そして理科室での、いつもの自分の席に座って先生を待っていた。
一体自分は何をしでかしてしまったのだろうと考える縁。
まだ夏を思わせる日差しが入り込む部屋で、理科教員室と理科室を繋ぐ準備室のドアを見つめる。と、一分もしないで先生が現れた。
「床並君、帰らずによく来てくれたわね。エライわ。ところで、今日、なんで呼ばれたか分かる?」
吉原先生はそう言いながら黒く重いカーテンを前から順番にしめていく。
まだ昼時だというのに映画館のように暗くなっていく。教室内をコの字に曲がり廊下側のドアの小窓も塞いでいく。そして、前まで戻ると黒板横の照明スイッチを調節しながら縁の顔を見る。
薄暗い。夏だけに、今から怖い怪談話でもしそうな雰囲気だ。
「床並君。そんな所で座っていないで前に来なさい。話があるから」
そういって黒板と大きな先生用テーブルの間に椅子を並べた。縁が傍まで来ると、吉原先生は縁の腕を掴みその椅子へと座らせた。
薄明りの中目を凝らす縁、まるで子犬のように先生を見上げる。吉原先生は後ろへ回ると、縁の両肩を普段今込が揉むような感じで触り、ゆっくりと話し始めた。
縁はくすぐったがり屋だからくねる。
「ねぇ、なんで呼ばれたのか分かったの?」
「いえ、ちょっと分からなくて。ちゃんと考えてはみたんですけど……」
縁は悩む。すると縁の首筋に信じられないほど柔らかな感触が当たってきた。
「本当に分からない?」
縁はコクンと頷くが、一度下げた頭を戻した時に、柔らかな山にぶつかり、何もしていないのにバウンドしてもう一度お辞儀する羽目になった。
縁はその恥ずかしさと自分の間抜けさにちょっと照れている。
「床並君さ。ストレートに聞くけど、先生のこと嫌いでしょ?」
縁はその問いに「そんなことないですけど」と即答し首を横に振った。が、またも山脈が後頭部を刺激しておかしなことになっている。
「先生、あの……いや、何でもないです」
「なぁに。本当は嫌いってこと?」
「違います」
おっぱいが首筋と後頭部に当たっているとは言えない縁。一瞬言おうと思ったが、縁にとって先生という存在とそんな会話をするのは無理であった。
「じゃあなに? 嫌いだから授業もちゃんと聞いてないんでしょ? 床並君が他の勉強をしていることは、先生ちゃんと知っているのよ」
縁はようやく先生が気にしている趣旨が理解できた。
「誤解です。俺、先生の授業はちゃんと聞いてますよ。他の先生方のよりは、ですけど。俺大学受験するから自分で勉強してて、それで色々誤解させてしまったかも知れませんけど、先生が嫌いとかそういう態度でいた訳じゃないです」
必死に授業態度を説明する縁。だがしかし、縁は授業中どの教科でも静かだし、他の生徒達のように騒いだり茶化したり時に立ち歩いたりする者と比べれば、パッと見は、熱心に授業を受けているように映るはず、その点が不思議だ。
「ん~そういうことじゃないのよね」腕組みする吉原先生。
「あ、あの、俺、生物の授業は体育の授業よりも好きです。虫とかも苦手じゃないし、生き物についても興味あるし。家では小鳥と熱帯魚も飼ってます」
縁は必死に繕う。もちろん嘘はいっていない。縁は虫もそれほど苦手ではないし動物の世話も大好きなタイプである。かつて君鏡に図鑑を見せたように、鳥、魚、犬や猫、虫や珍しい動物等々の本を沢山所持している。ネットでの画像や情報ではなく、わざわざ図鑑で持っているのだ。
「そうは言うけど、先生のことが苦手なんでしょ?」
吉原先生はそういうと、縁の首に完全に腕を回してきた。縁はそれに驚きその手を上手にすり抜ける。
それは、とんでもないスライムインパクトが縁を襲ったからだ。
年頃の縁には到底耐えられる刺激ではない。要するに、そのくすぐったさに悶えるように避けてしまったわけだ。
「ほら。嫌がってるじゃない」
「違います。あれ? いや、違うっていうのは、そっちの意味ではなくて、あの、違くないって思ってる訳でもないけど、あ、真面目な意味では違うというか……」
この状況を嫌がっていないという意味になってしまったと思い、やらしい気持ちはないということを伝えたいようだが、パニックで上手く説明できない縁。
先生のことは本当に嫌がっていないのに、どう説明していいのかこんがらがる。
『なら』と、くっ付いてくる吉原先生。薄明りの中で、白衣のブイゾーンから女性の実りの山々と癒しの谷が覗いている。ガキの縁は対処できない。
一体何がどうなって、この大人空間に迷い込んでしまったのだろうと、縁は現実逃避を始めていた。それほどに混乱している。
なにせ、吉原先生を嫌いも何も、まともに話したのは今日が初めてなくらいで、好き嫌い言うほど接点もない。
とはいえ一般論でいうなら、文字通り肌が合わないとか生理的に受け付けないということは、誰しも一人二人はいるはず、そういう相手とは出会った初日でそう心に染みつく。したがってまだ一学期分しか経っていないので、先生をよく知らないからという答えでは切り抜けられない。
「先生。ちょっと、どうしたンですか? 俺そんな、先生が思うほど変な授業態度をしてるんでしょうか? なら謝ります。本当に誤解ですから」
密着する吉原先生の体をどうにかすり抜けようと体を動かすが、無理だ。普段の縁ならこういった身のこなしは得意だが、むやみに動けない理由が幾つもある。
吉原先生の胸が当たっている状態で動くことも、下手すると顔と顔が触れてしまうかも知れない。
じっとしていればそうならずに済む雰囲気があるだけに、自ら逃れる為にそんな危険を冒すのができないのだ。
「誤解? 誤解な訳ないでしょ。先生を避けているのは明確よ」
確信を持っている先生。理数系的な筋道と論理で確信している。
縁はそんな態度は決してとっていないのだが、知らぬ間になにかしたということなのだろうか?
「そんな。絶対にないです」
真剣な言葉でぶつかる縁。本当にそんなこと断じてない。先生を差別したり嫌ったりなど、今のところはない。断言できた。
縁の真っ直ぐなセリフに顔を覗き込んでくる吉原先生。キスされてしまうかもと怯える縁だが、避けずに必死に耐える。ドキドキと恐怖が襲う。食べられてしまうかもと。
「じゃあなぜ? なんでアタシじゃないの?」
「は? え? ……何がですか?」
「ほら誤魔化した」
「いや、そうじゃなくて何がですか? 本当に、なんのことを言ってるのか分からなくて」
「顧問に決まっているじゃない。剣道部の顧問よ。なんで私じゃなく、折紙先生なのよ。あの人は美術部の顧問でしょ。それをわざわざ兼任させて。私へのあてつけ以外ないわ。私が理系女子だからどうせって馬鹿にしてるんでしょ? 授業も聞いてくれてないし。普通、部活受け持ってない私に頼むのが筋でしょう、なのにおかしいじゃない。全然意味が分からないわ。これで嫌いじゃないならどういった意味なのよ、教えなさい床並君」
吉原先生のマシンガン理論に打ち抜かれて、あたふたする縁。
くっ付かれたドキドキからのハチの巣状態。ビックリした内臓がウナギ昇る。
適当な理由やアニメ的な展開の、セクシー空間に迷い込んだのかと思っていたら、完全なる理由の元で、怒ってらっしゃったのだ。
よく聞けば、吉原先生だけが、部活の顧問をしていないと。元々は天文部か生物研究部が受け持ちたかったのだが、理科教師達の取り合いに敗れてしまったと。
そしてここ数年、一人だけ顧問なし。
都立校ではどうか知らないが、私立進卵学園の先生達の中では部活を受け持っていないことで、雑用を一手に押し付けられて、イライラが募っていたようだ。
そして――。
「先生が顧問をされていないって知らなくて。それに、剣道だから……体育会系というか」
「だから、今言ったじゃない。なんで美術部の折紙先生は良くて私はアウトなの? いいのよ正直に言っても。私がツンとした科学者っぽくて嫌なんでしょ? 理系だし。大学時代から理系の女子はそういう目で見られてるから慣れてるわ」
「そんな目で見てないですって。折紙先生にお願いしたのは、担任の先生だったし、最初は剣道部を同好会で復活させる話の相談をしてたんです。でも、話している内に、何故か分からないですけど、美術部で絵のモデルをしてくれたら同好会の顧問くらいなら兼任で受け持ってもいいという流れになったというか。強引に運ばれたというか」
「……担任の先生だから? ホントにそんな理由? じゃあ聞くけど、よ~く考えて答えてね。折紙先生と私とどちらが美人。あっ、美人はこっちで可愛いはあっちみたいなズルはなしよ。床並君が思う、女性として魅力がある方はどっち?」
その問いに縁は困る。白黒はっきりつけてと迫る吉原先生。どちらが上か?
「どうしたの床並君。言えないの? この場で言えないということは折紙先生の方が上って思っているのね」
結論を出すのが素早い吉原先生。女性だからの言葉攻めかそれとも理系だからか分からないが、男は女性からこういった二択攻めをされて困ることがたまにある。ただ、何度も言うが、縁にはまだ早いというか未熟過ぎて対処できない。
「なんで折紙先生の方がいいのよ。私のどこが負けていると思うの? 参考までに教えてくれるかな床並君。先生ももういい年だし、勉強したいから男性目線でアドバイスしてくれる」
早い。次から次へ問いかけてくる。動揺する縁に更に畳み掛ける先生。
縁はお手上げ状態で押し黙る。が、必死に口をこじ開けて話す。
「先生は折紙先生より下じゃないし、どっちが上とかないと思います。二人共素敵な女性だし、魅力的だと思う」
縁は渾身のダブル褒め攻撃を繰り出した。縁なりの超必殺技であった。真面目に答えたし感触的には決まったと感じていた。だがしかし――。
「はあ? 何? それ。もしかして同情。私が可哀そうでフォローしてるの?」
怒っている。縁の辞書にはここでキレられる説明書きはない。だが、女性の殆どは縁の台詞にこういった感情が沸く。それが全員とは言い切れないが、こういった状況下では普通の女性心理はそう。
深く難しいことは謎のままだが、この程度なら女性によって解読されている文献もある。
つまり、ここでの無難な答えは『折紙先生より吉原先生の方が美人だし魅力的だと思います』という意味の言葉だ。
女性の前で二人を同じに褒めたり、相手女性を良く言うなどありえない。それで機嫌が良くなる女性がいるはずがない。この世で一番してはいけないのは女性の前で別の女性を褒めること、それと別の女性と同等扱いもアウトだ。
同時に褒めた縁は完全に失策であった。それで吉原先生の気分が良くなるわけがない。吉原先生は顧問というちゃんとした理由で怒っているのだ。
「床並君。夏休みに合宿行ったでしょ。そこで随分と折紙先生に良い思いさせて、おまけに、良い男を紹介したでしょう?」
縁は吉原先生の言葉に疑問符が浮かぶ。何度も考えるがそんな記憶は無い。
「イイ男? 御馳走はしましたけど……男性を紹介なんてしてませんけど」
「とぼけちゃって。出会いからお付き合いするまでの成り行きも何となく分かってるし、今日の朝、その例の彼の写真を見せつけられたわ」
凄く怒った口調だ。
しかし、縁は完全に理解した。吉原先生は顧問のことは四割か三割であとの六、七割は折紙先生の彼氏自慢に怒っていたのだと。
だが縁のパーセンテージの読みはまたも外れていた。
百%、つまり十割がた自慢されたことに怒っていた。
この進卵学園で数年前まで新人の美人教師として持てはやされていた吉原先生。そこに可愛い美術教師として遅れて入って来たのが折紙先生だった。
まったくタイプは違うが、そこにいざこざがあったのは誰にでも想像がつく。
先ほどの吉原先生の言葉の中にも見え隠れしていた。美人はこっちで可愛いはあっちでという言葉など、まさに二人の歴史かも知れない。
おっとりタイプの折紙先生。美術教師で、絵や本が好きという雰囲気が柔らかな服装にも出ている。
その真逆で、白衣にセクシーな体を隠し、長い髪と縁なしのメガネ。頭の良さと美人さを掛け合わせた吉原先生。
二人は今日まで、職場の先生達や生徒達の視線と人気を密かに奪い合い、そして自ら格付けし合っていたのだ。
どちらがよりモテて、イイ女であるか。
この学園の中限定だが、意中の男性教師も結婚を視野に誘惑し合っていた。
そんな中、折紙先生は今回の合宿先で、勝手に運命の出会いを果たし、まるでこの学校の男性教師など初めから眼中になかったわといった態度で勝ち誇ったのだ。
年齢的にも二つ上の吉原先生には、どうしてもそれが許せないことだった。
更に、二十代で結婚したい吉原先生にとって、あと一年半がタイムリミットであった。
彼氏もいない。夏休みもほぼ登校。それなのにネットの中ではそんな吉原先生を置き去りに、剣道部とはしゃぎ沢山の男性と出会っていたと。許せる訳がない。
女性のそういった恨みや妬みがどれ程かは分からないが、男が考えているような次元で済むかは歴史的事例で見ても紐解けない。
そんな深く重い理由があるとは全く分からず、縁は、薄暗い理科室で吉原先生の怒りの標的にされていた。
「床並君が私さえ選んでくれていれば、私は二週間もバカンスして、顧問も彼氏も、もしかしたら結婚相手にも会えていたはず。なのに。もう、床並君が、私を貰ってくれる?」
顔をブルブルと横に振る縁。
「じゃあ、今からでも折紙先生を解任して、私を顧問として任命しなさい」
「俺がですか? 先生が自分で直接、折紙先生に話されたらいいと思いますけど。俺はただの生徒ですし、それに……」
縁の言葉を遮り先生が言う。
「とっくに言ったわ。兼任だし二学期からは私が代わりますってね。校長先生にも私から言っておくからって言ったら、あの人なんて言ったと思う『床並君に直々に頼まれたし、教育者として途中で投げ出すわけには絶対に行かないわ。だから、床並君が卒業するか、もし仮に中退することでもあったら、その時は、リボン付けてお譲りします』だって。何それって感じでしょ。あの人、皆の前ではおしとやかで通ってるけど、私の前ではそういう嫌味でキツイこと言えるのよ。したたかでしょ? 分かる?」
縁には、したたかの意味も吉原先生が訴えていることも、全く分かっていない。よほど相手のことが嫌いなんだなと、上辺の伝わり方しかしていない。
「でも、一生徒の俺がどうにかできる話じゃないので……」
「もう。床並君は部長だし、休止状態の剣道部を再建した発起人なのよ、床並君がお願いすれば全て丸く収まるわ。さっきから説明してるでしょ、私だけ顧問が無いのよ。床並君、私のこと嫌いじゃないって言ってくれたじゃない。ねっ、お願い」
吉原先生はそういうと縁にベッタリとくっ付く。縁はそのエロさにタジタジになっていく。
密着しながら耳元で「お願い」と囁く。完全にアウトのラインを踏んでいる。
これはいわゆる色仕掛けだ。他にお願いの仕方がない、といえばそれまでだが、教師には許されない方法の一つである。とはいえ、他にどういう説得法があるかと問われても、なかなかいい答えもない。
もうダメだと縁が崩れそうな所で、助け船のような放送が流れた。
「一年F組の床並君。至急第三会議室へお越し下さい。生徒会がお待ちです。大至急お願いします。部長会が開かれてますので。一年F組の――」と繰り返された。
抱きつかれる縁は、先生の腕をするりと避けながら「行かないと」と呟く。
「平気よ、部長会なんて出なくても。剣道部は予算いらないって突っぱねてるんでしょ? なら行かなくていいわ。行っても意味無いもの。そんなことよりこっちの件の方が余程重要でしょ。ねえ、折紙先生を解任して私を顧問に」
一度離れた体がまたもくっ付く。大きな胸を揺らせてまで強引に振りほどいたのに、すぐさまくっ付かれてしまった。
だが、そんな二人のいる理科室へと、バタバタと大きな足音が近づいてくる。
「ほら早く開けなさいよ。絶対ここよ」折紙先生の声だ。
ガラガラとドアの開く音がした。
カーテンが閉まっているのでまだ見えていないが、下と横の隙間から、明かりが漏れる。するとカーテンがめくれて誰かが入ってくる。
逆光の中、黒い影が数人見えた。
「暗っ。何コレ。ちょっと床並君、いるんでしょ?」
後ろのドア付近から声がする。動けず佇む。
まだ暗闇に目は慣れていないようだ。
「あ、ここ。今行こうと思ってて。部長会があるって知らなくて」
「ちょっと吉原先生、こんな所に床並君呼び出して何を話してたんですか? それにこの部屋暗いわよ。何これ? 何かのマインドコントロール? 洗脳ですか?」
少し怒った感じの折紙先生がいた。
その周りに園江と三好の美術部兼部コンビもいた。更にマネージャーの葉阪。
先生を含め計四人。
「床並君に顧問の変更についてお願いされてたのよ。ねえ床並君。確か、床並君が言うなら代わるのよね? 約束も破棄ということで、美術部の顧問に戻りなさい」
「ダメよそんなの。勝手に約束を破棄とかいうシステムないから。そんなのあったら、逆に私が途中で勝手に辞めて顧問不在で廃部みたいな状況だって、あったことになるじゃない。私も先生として、教師としてそんな中途半端な態度は駄目だし、床並君も剣道部を始めた発起人で、今は部長として皆のリーダーなのよ。私と床並君が勝手にどうこうしてしいわけないのよ。だから絶対ダメ。来年また一緒に合宿に来ようって最後の日に約束したじゃない。床並君は先生の言いたいこと分かるわよね?」
「あ、はい。分かります」
「何言ってるのよ。騙されないで。よく考えて。変じゃない。兼任してる顧問じゃなくて、どこの顧問もしていない私に替えた方がいいって指摘してるのよ。あの人あんなもっともみたいなこと言ってるけど、それじゃ、剣道部の顧問として、何かしてる? それどころか美術部に対しては? 夏休み中、美術部は無視。床並君、他の部を犠牲にするなんて、正解じゃないわよね? もっともらしいこと言ってたけど、中身はないわ。私が顧問を代わるのに不都合ある? 床並君、よく考えてみて。イイことづくめじゃない」
ベッタリと縁に抱きつき離さない体制で後ろへ隠す。
折紙先生と生徒達が、薄暗い中を手探りで進んでくる。
「いいから床並君を返しなさい。何がしたいのよいきなり割り込んで来て『顧問にさせて』って騒いで。子供じゃないんだから。教育者がそういう子供じみたわがまま言わない方がいいですよ。生徒達は見てますから」
縁まで無事に辿り着いた折紙先生が、縁の腕にしがみ付いて、引き剥がしにかかる。完全に折紙先生の胸やお腹に腕が挟まっている。
「ほら、あなた達も手伝いなさい。床並君は部長会に行かなきゃならないのよ」
折紙先生の指示で園江と三好と葉阪も縁にくっ付く。
おっぱいだらけだ。
縁の体を無理やり引き剥がすというより、ただ単におっぱいや体を押しつけているだけだ。それに縁にしがみ付くのではなく、吉原先生にしがみ付けばいいだけの話で、この人数でそれをすれば難なく一件落着するはず。
だが、しばらく縁に絡み付く。いい香りのする三好の髪が縁の鼻下をくすぐり、葉阪の顔が縁の胸元にピタリと付く。
頑張っているようには見えるし、何となく剥がしにかかっているのかなとも感じれるのだが、体を密着させているだけとも思える。
「一年F組の床並君。学校にいるのであれば至急会議室までお越し下さい」
またも催促の放送が流れた。
「俺、呼ばれてるし行かないと」
「別に無理に部長会行かなくていいのよ。私が後で説明してあげるから。顧問の件でどうしても抜けれなかったって」
「だ、か、ら、いい加減にして下さい吉原先生。何なんですか? 剣道部の顧問は私なんですってば。そうまでして顧問がしたいのであれば、一から立ち上げて同好会なり部活動なりにすればいいんですよ。こんな横取りみたいな真似して。おかしいですよ」
おかしいのは覚悟の上。吉原先生はとっくにアウトのラインを踏みつけていた。折紙先生が写メってきた彼氏らしき画像を見た時から、完全に自棄を起こしていたのだ。
もちろん折紙先生もこの現状を見ればそのことに気づいている。
何も分かっていないのは巻き込まれている縁、それと今この場にいる女子部員とマネージャだけだ。
まさか学校の先生が、常識の歯止めを取り外すほど自棄になっているとは思っていない。一応は先生だ。
薄明り? 当然、洗脳モードだ。
吉原先生は理系で知識豊富な先生で、おまけに美人でセクシーである。
それを駆使しない訳がない。ここで縁を落として顧問になれるのと失敗して今まで通りに生活するのでは、天と地ほどの差がある。片方は最低三年間の顧問人生と沢山の男性との出会いが保障されている。
もう片方は雑用と蔑みと、本当は好きでもない妥協した同僚教師を、それも必死に媚びへつらって落とすだけの寂れた人生。それさえ上手くいくとは限らないし。
二十代での結婚も泡と消えそう。いや、実際もう無理かなと何度も諦めて生活をしていた。
大学時代の友人から飲み会や合コンの誘いがある訳でもなく。しかも教師という職業は遊ぶ時間がないほど忙しい。
それでも、役職が付いたり自分のすべきことが増えるとそれだけ楽が出来て自由が増えるのだ。
普通に考えれば逆に思えるが、実際は忙しいのではなく、自分で決められる時間イコール、ズルが出来る機会が増えるという図式になる。
折紙先生のケースで言えば、美術部では大好きな絵を描いて、たまに生徒をチェックしたり、好きな美術館に部活動として見学しに行く。
資料として好きな本を選び、おいしいコーヒーで一息つく。更に剣道部を兼任したことで、今までよりも雑用を他人に押し付けやすい立場を獲得したようなもの。おまけに剣道部は縁のおかげで顧問が自ら動いたり計画したりの作業もほぼない。つまり学校に居残る時間帯は先生皆同じ位だが、その時間で何をしているかが唯一の救いとなる。
もちろん目的を持って夜遅くまで部活に付き合い、生徒と共に夢に向かっている先生もいる。例外は他にもあるだろう。
でも普通に考えれば、学校の雑用を夢や青春だとするなど……ありない。雑用は部活と違う。
更に、役職が付くということは給料も違うのだ。
まぁ、仕事だから当然の仕組み。しかし、雑用に手当はない、まして他の先生方の代行に請け負う流れモノばかり。
剣道部の活動や色々な特典に気付いた先生達は、吉原先生に限ったことではなく、皆が折紙先生を羨ましいと思っている
特に今回の夏合宿など。
「冗談じゃないわ。私は先生方の細かな雑用を請け負う為に学校に来てるんじゃないのよ。顧問が出来る状態なのに、アナタが兼任し続ける方がどうかしているわ。それに何よその顔は? ほっそりしてるのが売りだったんじゃないの? ブクブクじゃない、むくんで」
「あら? そう? 私は丁度いいわよ今くらいの体型で。適正よりまだ痩せてるし。吉原先生の方が太られたンじゃないかしら、夏だし」
「私は変わってないわよ。ホント失礼な人よね」
縁も女子部員達もビビっている。でも、女子は女性がどういった生き物かそれなりに知っているから、驚きとしては、先生でもいがみ合いや口論があるんだなといった気づきのレベルだ。もちろんこの状態にはビビッてはいる。
それに引き換え縁の驚きは、たまたま軽く蹴とばした空き缶が原因で、玉突きの事故が起きて、映画さながらの大事件になってしまったくらいのビビリと驚きを感じていた。
見たくない表情と聞きたくない声が飛び交う。ドキッとする。
全く埒が明かない。吉原先生と折紙先生の会話の脱線ぶりからしてきちんとした筋道を進んでいくことはないと分かる。
と、縁はあることを思い出す。困った時の究極呪文。悪いことが見つかった時の寧結の十ある逃走手段の一つ。
「あ、先生、ちょっと、あの、漏れそう」
「どうしたの床並君」先生二人共が縁を見る。
部員達も遅れて「どうしたの?」と縁を心配する。
「こんな状況だから言い出せなくて、終わるまで我慢しようって思ってたんだけど、もうダメだ。漏れそう。と、トイレ行かせて下さい」
「あ~、ゴメン。ごめんね。大丈夫? 分かったわ、急いで行っておいで。本当にごめんね。でもちゃんと戻って来るのよ。まだ話終わってないからね」
吉原先生が縁をあっけなく開放した。これで開放せずにお漏らしさせるケースなどほとんどない。
他の者も手を放す。そして、あっという間に光の中へと消えて行った。




