二話 セツナ
君鏡は教室の窓から外の景色を覗いていた。梅雨も明け、六月もそろそろ終わりそうな感じだ。
床並家に初めて行ってから一ヵ月ちょっと、何度も担任の先生の元を訪ね、書類はないのと尋ねるが、お使いが出来たのは、たったの二度。
毎日寂しくて堪らない。
教室の雰囲気は徐々に受験色に染まり出したが、それでもまだ二年生気分が抜けない者が多くいる。
このまま夏休みに突入するのかなと、君鏡は深く溜息をついた。
自分の家からすぐ近くにあるのに、行きたくても訪ねられない。あれから床並家の前を通らない日はない。
一日に三回は素通りしてみる。それでも、一ヵ月と少しの間に偶然出くわせたのはたったの一度。家に入ったのは最初の時を入れて、計四回。
幼稚園の送り迎えの時間帯を狙うのはまず不可能だった。元々それが可能なら、縁は普通に学校に通っている。
朝早くに自転車で送り届け、一時間目終わりか二時間目途中に来ることになる。そして昼休みが終わる頃から五時間目途中には下校しなければならない。
まともに授業を受けられるのは三、四時間目と給食くらいだ。
だから普通には通えない。そんな状況から、縁はたまに図書室へと来て、密かに出席日数を取っていた。
何をしていても縁のことばかり考えてしまう君鏡。まるで病気だ。
家を素通りするのだって、悪く言えばストーカーともいえる。そうなっていないのは、縁と寧結が君鏡の存在を認めているからだ。だからこそ君鏡も、声が聴きたくて何度も無言電話をかけてしまいそうになるのを、ギリギリで止まっていた。
――会いたくてしょうがない。
お使いする機会もなく夏休みが訪れた。
そろそろ受験勉強を始めないと君鏡の身も危ない。高校受験だけでなく、人生はそんなには甘くない。
大体の者はこの時期スタートを切る。もちろん遅過ぎるスタートだ。それでも、そうなる。
結局、学校で友達と会い慣れ合う環境では本気になれず、夏休みが来て、一人になってようやく受験生だという立場に気付くのだ。
徐々に不安になり、今まで親に急かされていた小言の意味が、ようやく耳に届き始める。
子供とはそれほど環境に流されやすい。
夏の夏期講習に参加したりと、一気に勉強ムードが漂う。この波に乗れなかった者達は、チャンスというか機を逃したと、志望校に落ちてから気付く。
君鏡は完全に波をスルーしていた。勉強どころか漫画さえ手につかない。遊んでいる場合ではないのに、床並家の前を何度も行き来していた。
そして夏休みを宿題と課題しかせずに終えてしまった。
しかしイイこともあった。何度も素通りし、時には張り込んだおかげで、夏休み期間に、五度も床並家に遊びに入ることに成功した。
受験生なのに何をしているの? と問われそうだが、君鏡にとってそれ以外何もみえていない。なにせ、今までカッコイイと毎日眺めていた漫画やアニメのキャラクター達さえ、すでに霞んでいた。
重症な病とも言える状態で、二学期に突入し、運動会、学芸会、合唱と、様々なイベントが過ぎていく。
十一月には修学旅行も来る。
当然、縁は来ない。寧結を一人残して参加する訳がない。
君鏡も、出来ることなら参加せずに床並家で遊んでいたいと思っている。しかし――。
あっという間に時計の針は回って、中間テスト、修学旅行、期末テストと流れ、君鏡は五十点という微妙な成績で二学期を終えた。
寒い冬が来る。お正月が終わればもう、すぐに受験が始まる。それでもまだ君鏡は勉強が手につかない。破滅の足音にさえ気づかない。
一月九日、三学期が始まった。その日は君鏡にとって、いや、クラスにとっても少しだけビックリする出来事が起こる。それは――。
「明けましておめでとう。今日から三学期、皆、受験日に向けて気を引き締めて、集中してね。それと、風邪など引かないように、しっかりと体調管理にも気を付けないと――」
軽い挨拶の後、担任の先生から受験生の過ごし方がダメ押しされる。
冬休みが明けたばかりとはいえ、もうそういうギリギリの時期だ。
久しぶりに再会した朝のホームルーム。体育館で行う全校集会前のほんの一時。するとそこに、ガラガラと後ろのドアを開けて誰かが入ってきた。
「おはようございます。遅れてすみません。俺の……席、ありますかね?」
一斉に振り返るクラスメイト。皆、目が点になっている。
そんな中、君鏡だけは心臓が張り裂けそうになっていた。肘から指先へと震えが伝い、この先の状況を見守る。
「え、え? と、床並君?」
「はい。願書の書類のことで来ました。ま、他にも色々用が」
明るい声と笑顔に、全員がキョトンとしていた。
そして一部の女子が「カッコイイよね」と騒ぎ出したことを皮切りに、徐々に室温が上昇していく。
先生も縁の姿に驚きが隠せない。たまに図書室に来ているらしいということは、担任として耳にしていたが、姿を見たのは初めてであった。
キョロキョロと教室を見渡す縁。しかし、縁の席はない。当然と言えばそうだ。ただの不登校ではなく、中一からで、おまけに、来ても図書室と決まっていれば、そうなる。
出席簿にも床並縁の欄は全て斜線が引かれていて、出欠は縁が提出した課題などで取っていた。
「えっと、席は、ちょっと今はなくて……、体育館に行っている間に用意するね」
焦る先生。
縁は、お手数ですが宜しくと軽く微笑む。その表情を見て先生が戸惑う。
「そ、それじゃ皆、廊下に並んで~。体育館に向かうわよ」
生徒達が男女で二列に並ぶ。
縁は、名前順なのか背の順なのかも分からない。どこに並べばいいか分からず、君鏡の横に並ぶことにした。
「おはよう箱入さん」
「おはよう、床並君」
そのやり取りに、またもクラスメイトがざわつく。二人が知り合いなのも疑問だし、誰とも話さない君鏡が明るく挨拶を交わしているのも、異様な光景だった。
君鏡と縁の他愛無い会話を、周りの生徒達が聞き耳を立てて盗む。担任の先生も、その光景をチラチラと振り返り覗く。
そして、なぜ君鏡が何度もお使いを申し出たのか、その要因が、縁の顔を見てはっきりと分かった。
「は、箱入さんって、床並君? のこと知っているの?」
いきなり他の女子が君鏡へと話しかけた。君鏡は、声は出さずに少しだけ頷く。表情も、縁に見せる笑顔とは全く違う。
この学校で三年間過ごしてきたいつもの仮面だ。
そしてそれが通常の君鏡。
「へぇ。もしかして幼馴染とか? 初めまして、私――」
男子と話慣れた感じで自己紹介していく。そのすぐ後を「なになに」と待っていたかのようなタイミングで、次々と声が掛かった。
君鏡には到底マネできないフレンドリーさだ。日頃から明るく生活していないととてもじゃないが無理。
「どうも、初めまして」明るい声と笑顔の縁だが、自らは話さない。
縁を囲む輪からずらされていく君鏡。しかし、透かさず縁は「ちょっと箱入さんドコ?」と探しだした。
「俺さ、学校のこと分からないし、心細いから」と君鏡へ頼る。
君鏡も少し照れたようにコクッと頷いて見せた。が――。その光景を周りで見ている女子が、一斉に話かけた。
「大丈夫だよ、私が色々教えてあげるから。床並君はさ――」
「何でトモなのよ。よりによってあんたはないわぁ。天然だし、音痴だし、テストの点も鬼低かったでしょ。ここはクラス委員の私が責任を持って――」
「はぁ? トモもみぃタンもダメでしょう。どう考えても私ジャン」
「ずっるぅエリカ。なら私だって――」
土砂降りのしゃべりが縁を襲う。
縁は囲まれたまま君鏡を見るが、君鏡は、どうすることもできず、大人しく下を向いていた。縁の知っている君鏡はそこにはいなかった。
そこには、物静かでか弱い一輪のつぼみが、ぽつんとしな垂れていた。
縁にとっての君鏡のイメージは、明るくて笑顔の大輪を咲かせた、不登校の自分にも世話を焼いてくれるそんな頼りある女子に映っていた。
しかし今、何かが違う雰囲気。
圧倒的な勢いで話し続ける女子に押されながら、体育館へと入っていく。
「ほら、ちゃんと並んで。もう静かにしなさい」
担任の先生が最後に注意をして、教員達が並ぶ体育館隅へと向かった。
皆が自分達の位置へと戻り、綺麗に二列に並んだあと、縁は君鏡に「分からないことあったら教えてね」と呟いた。
君鏡は「はい」と小声で頷くのが精一杯だった。
校長先生の話が終わり、各学年主任の先生から連絡事項が言い渡された。決して静かに聞いているという雰囲気ではない。うるさくはないが、至る所で生徒の話声がする。
途中、何度も「静かに」と注意があるが、先生の言うことなどまったく聞く気がないようだ。
先生と生徒の関係や学校の状況は、こういった関係性から少しだけ読み取れる。
時間が経つにつれ、真面目に聞いていた生徒達もだらけ始め、姿勢が崩れる。
それがピークに達する手前で、丁度全校集会が終わった。
もしかすると毎回こうなので、先生達も、いや、生徒達もそういう流れになっているのかも知れない。
先生が各クラスの学級委員へと指示をだし、静かに教室へ戻るようにと伝える。
後方に位置する三年生から順番に、体育館を後にした。
その途中で、他クラスの者達が縁の存在に気付くと、転校生でも見るように反応を示す。それが少しずつ増えていく。
教室へと着いたが、縁の席はまだなかった。縁は仕方なく君鏡の席横で、立ったまま待機する。
他の生徒達も席には座らず、友達と話し込み、立ち歩いているのが殆どで、そのおかげで縁が立っていてもあまり違和感はない。
「皆、この後大掃除だからね~。そんで――」
学級委員から指示が出る。とそこに「先生ぇ遅れるから、先に掃除に取り掛かってだってさ」とクラスメイトが飛び込んできた。
ゾロゾロと皆が動き出す。縁はそれが不思議でしょうがない。皆が何をするべきか分かっているということが驚きなのだ。
しかし、物静かにしていた君鏡も迷いはない。皆が動けば動く。
クラスになじんでない者も焦った様子はない。戸惑っているのは縁だけ。
「箱入さん。どうするの? 俺? 何する?」
縁の緊張ぶりに、君鏡の仮面がポロリと外れ、いつもの笑顔が咲いた。クスッと微笑んで「大丈夫、一緒に掃除しよ」と誘う君鏡。
縁も、自分の知っている君鏡を感じ、笑顔で頷いた。しかしまたも他の女子が寄って来て「床並君、ウチの班と同じ場所の掃除行こうよ」と誘う。
別の女子も似たように誘う。
さすがに制服を引っ張るまではしないが、それに近い強引さはある。
縁にとって、誰がイイとか嫌だではなく、それこそ転校生よりも学校に不慣れな今、君鏡以外はありえない状況なのだ。
他人からはそう見えなくともそうなのだ。
実際、君鏡以外に付いていったとして、一瞬でも掃除に集中したら、もうその場にいる誰が誰で、どの顔の子が同じクラスかさえ分からなくなるに決まっている。何せほぼ初対面。
いくら自己紹介されても名前も覚えられないし、顔と名前も一致しない。つまりそういうことなのだ。
必死に君鏡にすがろうとする縁だったが、群がる女子にモップを渡され「こっちだよ」と強引に誘導されていく。囲まれながら廊下へと押し流される。
女子達は、理科室だ、家庭科室だと自分達の持ち場へと導こうとするが、結局、廊下途中にある多目的ホールで、ジャンケンして決めると立ち止まった。
それを君鏡が少し離れた位置で戸惑いながら見ている。
体育館では縁に『分からないことあったら教えてね』と言われ、ついさっきは『一緒に掃除しよう』と告げた矢先だ。それがこんな状況になっている。
けれど、君鏡に何かを言い出すなどできない。相手はクラスでも、いや、学年でさえも目立つ子達。自分みたいな日陰の子がどうこう言える感じではない。
約三年間、一人静かに本を読んで、嫌なことにもじっと耐えてきた身。
些細なことだと反論せずに流して来たというのに、こんな大それたことで出しゃばるなど……できるわけがないし、ありえない。
これがまだ、君鏡自身の何かであるなら、どうにか言えそうなほど高まっているけど、縁、つまり男子のことでとなれば……言いづらい。
間違いなく「何?」となる。それもクラス中から。
もうあと少しで卒業だし、何かあっても耐え抜く自信はあるが、何より自分自身が異性のことで前に出るのをためらっている。
君鏡は爪の先をいじりながら、自分の不甲斐無さと戦っていた。今日までに染みついた臆病さが、一歩踏み出すことを拒む。
「おお、こいつか」
「そう。今日いきなり教室に現れてさぁ」
見るからに柄の悪い者達がゾロゾロと集まってきた。この中学校の不良達だ。
どうやら同じクラスの不良が、仲間に話したようだ。
「ほぉ、お前、女子に囲まれてヘラヘラしちゃって、調子乗ってるとシメんぞ」
鋭い目が縁を刺す。
さっきまで騒いでいた女子達がどうしようと静まり返っていた。
普段は男子同士がいざこざになっても女子特有の感じで、ヘッチャラで見ているのだが、今は、緊張が走っていた。
「シカトしてねぇで、なんとか言えよ」
縁を取り囲み、ゆっくり周りをふらつきながら品定めしている。
昭和のような不良は今時居ないが、この学校の不良達は特に悪く、三年になるまでに、既に名のある他校の不良を全て潰し、実質、一番強く怖い者達と悪名を轟かしていた。
蒲田と大森の間に位置する学校。通称、梅中。
街自体治安も悪く、もっぱらテレビや小説の事件現場として使われるほど有名な地域。
とはいえ、実際には波がある。年度によって穏やかで住みやすい時もあり、逆に、最悪な年もある。街自体がそうなので、当然、その周辺の学校もそうなる。
地域に根付く歴史。昔悪かった子が大人になり親にもなる。その子供なり何なりがヤンチャになるケースである。
そもそも大人が、子供以上にワルだったりもする。
どこの県や地域にもそんな場所はあると思うが、ここは特に酷い。
普通なら都心部へ引っ越しするとか結婚して出ていくが、交通の便が良く、品川まで電車で約十分ちょっと、横浜まで約二十分ちょっとで着く。全ての分岐点であるその二駅にすぐ着くこと、そして羽田空港にも早い。
廃れていく商店街が多い中、まだ盛んであったり、駅ビルや有名店、国道も充実していたりと便利なのだ。そういったことから地元に根付く者が多い。
つまり世代によって荒れている時期と平和な時期との二面性がある。そしてここ数年は最悪年の波が来ている。
「ちょっと、やめなよ~。床並君今日来たばっかりよ」
ようやく落ち着いた女子達が、縁を庇うべく不良達に声をかけた。しかし――。
「うるせぇな。黙ってろよ。関係ねぇンだよ」
まるで火に油を注いだよう。だが、女子はこれでいい。なぜならこれがパターンだから。テレビや漫画の中ではなく、誰もが何度も経験する女子の迷惑行為。
悪気があるのかないのかは知らないが、いつでもどこでもややこしくして、逆に悪化させる。
不良達の苛立ちが少しずつ上がっていく。目つきも鋭さを増す。
「おい、これ以上シカトしてンなら、マジでボコるぞ」
自らの台詞に更にブチ切れていく。
縁は、そんな荒れ狂う不良達をただ見ていた。
するとそこへ、別の者が走り込んで来た。
「おいおい、何やってンのお前ら、やめろバカ」
そこに居る皆が、一斉にそれへと視線を向けた。久住貴志。この学校で二番目に強いとランクづけされている少年だ。
だが実際は、まともなケンカなら一番強いと言われている。
「あ、久住君。いや、違くて、聞いてよ。なんかこいつが調子乗っててさ、女子と浮かれてジャレてて、そんで……」
「はぁ? そんなことはどうでもいいンだよ。俺は、床並君にふざけたことするなって言ってンだ。分ったらさっさっと散れ、邪魔だ」
久住の一方的な仕切りに、不良達も、周りで聞いている皆も、まったく意味が分からない。何より久住の態度が不自然過ぎる。
「久住君、こいつ知ってるンすか?」
その問いに久住が「ああ」と頷く。が――。
「久住、悪いけど、俺はコイツと喧嘩すんぜ。さっきから調子こいて、ずっとシカトきめ込んでるしな」
不良達の一人が、一歩前へと出てきた。
どうしても縁の態度が気に食わないようだ。
確かに、色々な言葉を言われても一切怯えた目や怖がる仕草もない。
そんな態度だから、ナメていると取られてもおかしくはない。
これがまだ、少しでも伏し目がちであったり、演技でも怯えてくれれば引っ込みもつくが……。仮にも他校の不良達と喧嘩で名を馳せた者達にとって、この態度は屈辱でしかない。
「聞こえないの? 俺はやめろって命令したンだけど。もしかして、俺のことナメてる?」
久住が前に出て来た者に一歩踏み込む。今にも手が出そうな雰囲気だ。
「な、なんで。ナメてねぇけど……。なんでコイツの肩持つワケ?」
「コイツ? オマエなぁ、マジでいい加減にしろよ。はっきりいってこの状況で、床並君とやっても、この学校の男子全員で襲っても勝てないから。断言するわ」
久住の言葉に、またも周りがポカンとする。
そして縁を見る。そのあとに久住を見る。
周りの皆も似たような素振りで久住の真意を探る。
ありえない。それが皆の答えだ。
目の前に居る久住の身長は、およそ百七十八から九センチ。一方縁は、大体百六十五か六センチ。背だけじゃなく骨格も体重も筋肉も何もかもが違い過ぎる。
何より、顔つきや目つきが違い過ぎる。
久住はまさに不良でも怖がるほどの怖い目と雰囲気を持っているが、縁は小学生の様な無邪気さしかない。そのせいか、実際の身長より相当小さく感じる。
「それじゃコイツは、築道さんよりも強いってことでいいわけね」
築道歩。この中学校で一番強く、いわゆる頭だ。
「そうだよ。言ってンだろ、しつけぇゾ安斎」
安斎忠清。一歩前に出た少年だが、この学校で三番目に位置する者だ。
とはいえ、他校の不良との喧嘩の際、殆どこの安斎が相手校の頭を倒している。つまり、この安斎がどこか別の学校へ転校したなら間違いなく頭だ。
久住の言葉に安斎はもう一度だけ縁を見た。そして首を傾げ納得いかない様子。
「それじゃ、俺、こいつと喧嘩して試してもいいよな? 本当にそんな強いかよ」
安斎は声こそ抑えているが、完全にキレている。
「あ? 殺すぞテメェ」久住が安斎を睨みつける。
「あ? アんだよ、っんのか?」安斎も睨み返す。
と、次の瞬間、安斎が久住に殴りかかった。だが、その攻撃と同時に久住の膝が安斎の腹部に突き刺さり、安斎の体がくの字に持ち上がる。
たった一撃で勝負は着いた。しかし、更に久住の重い拳が、中腰になった安斎の顔面を貫いた。
肉ではなく、骨のぶつかるような鈍い音がすると、安斎は気を失いそのまま床に顔面から沈んでいった。
目を白黒させ鼻から血を垂らして痙攣している。
圧倒的な久住の強さに、皆が息を飲む。けして安斎が弱いわけではない。間違いなく強い。
たったの二撃だが、もしかしたら安斎が死んでしまうかもと、皆に恐怖が過るほど、床に横たわる現状はグロテスクであった。
とそこに、何者かが現れた。
「久住? そんなにそいつは強いのか?」
久住も縁も皆も、その声の者へと視線を向けた。
そこには築道歩が立っていた。
久住とさして変わらない背丈だ。白に近いアッシュ色の髪に、青いコンタクトを入れている。
「居たの? ああ、メチャクチャ強い」
「久住より?」
「俺? ああ、分身が出来ても敵わない」
久住と築道の会話は異様であった。普段、絶対に他人の強さなど認めない二人。そんな二人が縁についてありえない話をしていた。
築道は「ふ~ん」と頷いているが、この学校の者達は色々と知っている。二人が一年生だった頃、先輩である二、三年の不良相手に大喧嘩したことを。
そして、先輩と繋がりのある、他校の先輩やOBまでも巻き込んで、約一ヵ月近く続く抗争が起きたことを。
まだ幼い中一。背が大きかったことで二人は目を付けられた。安斎はこの時期、まだ不良ではなかった。何人かいる一年も全て先輩側についていた。当然の流れ。
今でこそ抗争となっているが、元々は先輩によるシメの儀式だった。
目立つし、生意気だから軽くシメるというどこにでもあるもの。実際は、それで終わる。そうならないのは漫画だけ。
しかし、先輩自体も想定外の抗争となり、のちに、後悔してもし切れない結末を迎えた。そういった経緯や、これまでの他校とのいざこざも噂で知っている。
もちろん細かくは知る由もないが、その強さと怖さはネット上で噂されるほど。
「そっか。久住がそこまで言うならやめとくわ。安斎みたいになりたくないしよ」
築道はそういうと安斎を軽く揺する。
平気かと声をかけると、少しずつ意識を取り戻す。
顔を殴られた痛みより、床に打ちつけたおでこや鼻、何より腹部が痛むようで、どうしようもなくもがいている。
「オマエな、これで何度目だよ。久住が本気でやってたら鼻とか歯とかベッコベコだぞ」
手加減してもらって良かったなと言わんばかりに安斎を起こす。
安斎は痛がりながら、築道の言葉の意味を噛みしめていく。
そして苦痛に顔を歪めながら。
「久しぶりだから忘れてた。結構、イケるかなって」鼻から血を垂らし、ニヤリと笑う安斎。
「バ~カ。忘れた? なら忘れないようにノートに、その鼻血で書いとけよ」
冗談とも思えない口調で築道が言い、今一度縁を見る。安斎も、そして多目的ホールに群がった生徒達が縁を見た。
けして小さくはない。でも小さくは感じる。
百七十三、四ある安斎や、他の不良達と比べても明らかに弱そう。いや、弱くしか見えない。不良達の中の誰かと喧嘩するか縁とするか選べと問われれば、誰しも縁を選ぶと分かる。
騒ぎ好きの生徒が大勢集まっているが、その誰でもそう思う。喧嘩など見たことない女子ですら、圧倒的な見た目の差で順位は分かる。
しかし、久住がそう言うのだから仕方がない。
不良達は口を閉じ、そして縁への狂気を抑えて様子を覗う。
「ごめんね床並君。なんか変なことに巻き込んじゃって」
久住の台詞に首を横に振り、その後、笑顔で頷く。久住は少しほっとしたように笑う。
「今日は図書室じゃないンだね。嬉しいよ。あ、そうだ。俺、修職工業の機械科を受験することにしたからさ」
「それは良かった」縁の顔が園児のように微笑む。思わず周りが釣られるほどだ。
「床並君に勉強教えてもらったからさ。この前の試験も国数英は六十点越えてさ。ところで床並君は決まった? 高校?」
久住と縁の会話に、何となく二人の関係性が見えたような、見えないような。
周りは必死に二人の小声を聞き取る。
知り合い? 友達? 皆の疑問は募る。
ただ、不良達もその場にいる女子や野次馬達も、誰かが縁に手を出せば、間違いなく久住の制裁が下ると分かった。
「今日、寧結ちゃんは? これからも普通に通えるの?」
「いや、今日は願書とか色々あって、それでつい……」
学校が混乱したことに、少しだけ反省する縁だが、久住はなるべく来られる時は教室に来た方がいいと促す。もうすぐ卒業だしと。
必死に聞くがやはり二人の関係性ははっきりとしない。しかし、君鏡だけは何か違ったものを感じて取っていた。それは寧結というワード。更に、久住がテストで自分より高い点を取っていたこと。
君鏡にとって笑い事ではないが、三年間ろくに勉強せず遊んでいたはずの久住が三教科とはいえ五十点以上を取ったということは、ただ事ではない。
安斎と築道、その他の者達も皆、久住と縁が少しだけ仲の良い知り合いなのだと決め、今回のことに終止符をうった。
こういったケースもよくあること。
実際、築道にも、一つ下に、近所の子が居て、その子が虐められないようにしてあげたことがある。
縁と久住もまたそういうことなのだと納得する。ただ、皆がここまで不思議がる理由は、久住の態度と縁の態度。
堂々とした縁、畏まる久住。まるで師弟関係でもあるような。しかし、話からすると、勉強を教える教わる関係? やはり答えはでないが、何か二人にあるとしか言えないだろう。
しばらく縁と久住が話し込むと、築道と安斎が「それじゃ、俺達行くわ」と別々の方向にはけて行った。他の不良達もそれぞれの教室へと戻っていく。
「俺もそろそろ掃除に戻るよ。高校受かったら改めて報告しに行くから。そン時は約束通りお祝いしよう」
「うん。必ず。それじゃあウチでパーティーかな」縁が笑う。
カッコ良く立ち去る久住。先程安斎を殺しかけた面影は一ミリもない。
久住は、都内で恐れられているグループ、ウイルス・モンキーの二代目を受け継ぐ男と言われていた。だが、それを築道に譲り、高校を受験することを選んだ。
本当なら千人の仲間を引き連れる頭になる者。
悪の道を歩み続けていた少年。
「怖かったね。でも良かった~何にもされなくて。掃除しよっか~」
女子達がまた騒ぎ出す。
縁は先ほどの不良達よりも厄介だといった困り顔を見せる。
君鏡は縁のそういったところにも、不思議さを感じていた。なんであんなに怖い状況で、一ミリも怖がっていなかったのかと。
女子に見栄を張っている訳でもないし、そんなタイプでもない。
本当に怖くなかった? ということなのだろうかと。