スズ
ちかちかと明滅する蛍光灯。重い鉄の扉を押し開くと、目に痛いその光が狭霧を迎えた。
「おっ、狭霧さん! お久しぶりです!」
「相変わらず、上官への口の聞き方とは思えないな」
「そんなぁ、同郷のよしみじゃないですか」
「お前の思っているほど、それは万能じゃあない」
けちっと言って狭霧に向けた視線をついと戻してしまったのは、カルロと交代で見張りをしてもらっている巻島だった。狭霧や、特にベネットは隊長としてそれなりの事務仕事もあり長時間姿を消すことができないのだが、だからといってカルロが何日もここにいれば、それはそれで無駄な勘繰りを受けてしまう。それで仕方なく、巻島にも協力をお願いしたのだが。
彼女が乗り気で引き受けてくれたのは、狭霧にとって嬉しい誤算だった。
「だって、女の子ですよ!? このむさい基地で! 女の子!」
そう言うなり、喜び勇んで地下へと駆けて行ったのは、狭霧の記憶に新しい。元々優秀すぎてベネットの仕事まで押し付けられていた巻島であったから、ともすればカルロより適任と言えた。
そんな彼女がどこからか持ってきたあやとりを一緒にやっているのは――よくよく見るとそれは古い靴紐の端を結び合わせたものだったのだが――今では拘束衣を解かれたあの少女だった。拘束も当然解かれていて、椅子にちょこんと座っている。特徴的な白髪の毛先が切りそろえられていて、余計に無機質な可愛らしさが強調されていた。
彼女は慣れない手つきで巻島の手から紐をすくい、しかし失敗してぐちゃぐちゃにしてしまってから、ようやく狭霧の存在に気付いた。絡まったあやとりを巻島の手の中に丸め込みながら、緩慢に視線をあげる。
「……サギリ?」
「あぁ、待たせたか、スズ」
琴を弾いたような細い声、あるいは鈴の鳴るような声が狭霧の名を呼んだ。それはいかにも、その言語を読みなれないといったような、どこか訛りのある発音。
それでも狭霧は、この十数年見せたことのないような、柔らかな表情をしていた。
少女が喋り出したのは、彼女を拘束してから二日後のこと。そして拘束が解けたのはその次の日だった。
わかったことは一つ。彼女は記憶を喪失していた、その一事のみ。
嘘をついているとも考えられなかった。それだけ彼女の口調は幼く、だんだんと興味のままに動くようになった視線は単純で、その質問は純朴そのものだった。
あなたはだれ。どうしてそんな服を着ているの。なんで髪の色が違うの。おじさんたちの肌は、黒くないんだね。
狭霧を攻撃したのも、彼から攻撃を仕掛けたからであったらしく。狭霧が頭を下げると、別に気にしていないと、他人事のようにあっさりとしたものだった。
「サギリ、今日は何を持ってきてくれたの」
「あぁ、こいつだ」
声は平坦、表情は人形のよう。意思は疎通しても、感情だけは読み取らせない少女だった。
紙のこすれ合う音とともに狭霧が差し出したのは、茶色の包装紙に包まれた、おそらくは本だった。分厚くもなく、十数ページしかないような薄いものではあったが。
スズと呼ばれた、スズと狭霧に名付けられた少女は、拘束衣の代わりに着せられたぶかぶかの軍服に包まれた腕を伸ばし、その包みを受け取った。そしてしばらく、ひっくり返したり、ざらざらという表面を撫でてみたり、振ってみたりしてから、再び狭霧に視線を戻す。
「つまらない」
「あー、スズちゃん、これはね……」
すると、脇からさっと出てきた巻島が包みを受け取って、丁寧に包装をはがしていく。やがて出てきたものに、巻島だけがわぁと驚きの声をあげた。
「狭霧さん、これって絵本じゃないですか!」
「何だ、そう騒ぐものでもないだろう」
突然、巻島は宝石でも抱えているかのように、絵本の隅をもってなるべく手を触れないようにする。鉱物資源に恵まれず、故に強化兵という生物兵器に頼るシルルは、今に困窮に倒れそうなほどだった。他の生存権が過去の地下道を利用して地下通路を開通させようとしてくれている。それだけがシルル国民の希望であるほど。
つまりは実際のところ、絵本という富裕層への需要の少ない娯楽品は貴重品というにふさわしい。巻島の手の中の絵本は、最近刷られたものでないと一目でわかるくらいに、紙の一枚一枚が黄ばんでいた。
その夜空を描いた表紙には一羽の白い小鳥が飛んでいて、『かわいそうなことり』というタイトルがその頭上に書かれている。
「ベネットの無駄に多い伝手で手に入れてもらった。スズは字が読めないだろう。練習にでも使ってやれ」
「いやいやいやいや! こんな高価なもの、捲れませんって! カルロ君にでもやらせてください!」
「無理だな。お前、本当にあいつにできると思うか?」
「そこはまぁ、将来の可能性に期待というか……」
巻島の目が露骨に横に流れる。カルロだけはまだ、スズと話すことができないでいたのだ。問題はカルロの側にあり、ありていに言えば、怖気づいていた。
狭霧に対するのと同じようにスズに接するベネットも、姉のように世話を焼きたがる巻島も、スズの本来の姿を見てはいない。あくまで聞いただけであって、そこがカルロとの相違点。
そんなものだから、カルロがスズの見張りをしている時には、スズは狭霧が来るとすぐに反応するくらいには退屈しているのだ。
「とにかく、そいつはお前の仕事だ。いつもベネットから押し付けられているものよりも楽だろう」
「それはそうですけどー……。あれはベネットさんだからというかー……」
ぶつくさと言い始める巻島。しかし、しびれを切らした者がいた。
スズだ。彼女は巻島の手から絵本を奪い、膝の上でぺりぺりという音を立てて開く。ページ数など知ったことかと真ん中のページを開き、にらめっこを始めた。それも長くは続かず、隣の巻島の袖をくいくいと引っ張る。
「なんて書いてあるの」
「あぁっと、それはですね」
なんだかんだと言いながら、時折ページを破りそうになるスズに悲鳴をあげながら、巻島はスズに絵本を読んでやる。
そんなスズを見て、またも狭霧は表情をほころばせ、そして部屋の中を見渡した。やはり殺風景な部屋でこそあれ、今では寝袋や置時計、巻島の持ち込んだあれこれで多少の生活感を獲得していた。とても防諜室とは思えない、砂埃色の秘密基地。その出入り口付近に置かれた一枚のプレートの上で、狭霧の視線は止まった。
「あぁ、それですか」
今では膝の上にスズを乗せてやって、読み聞かせていた巻島が、物憂げに言う。「マキシマ?」と名前を呼んで続きを催促するスズを、狭霧は不安げに見やった。
「やっぱり、お口に合わないみたいです。合成食料ですからね、仕方ないですよ」
「そうは言っても。もう何日だ」
「聞かなくてもわかってらっしゃるでしょうに」
「あぁ、そうだな……」
そこに、巻島らしい明るさはなかった。
プレートに乗っていたのは、狭霧がこっそりと持ち出している食事である。全くおいしそうに見えない高タンパクバーに、ついでとばかりの高カロリーバー。唯一料理と呼べる野菜スープを合わせて、この基地のちょうど一食分。別に狭霧がこの防諜室でこっそり食べようととってあるのではなくて、これは本来、スズの昼食だった。
スズは、この基地に来て以来何も口にしなかった。喋るようになるまでは首を横に振り、近ごろははっきり「いらない」と言う。だというのに、もう一週間になろうというのに、スズの身体が痩せてくるだとか、その頬がこけてくるだとか、そういったことはなかった。それこそ人形のように、この部屋に座り続けていた。
今も、すっかり読む気をなくしてスズの頭を撫でるばかりの巻島に愛想をつかしたのか、スズはページをめくり返して思い返すように音読していた。
狭霧の頭には、一つの推論があった。けれど彼はそれを信じたくはなかった。それを信じてしまうことが怖かった。
だから、彼は読み聞かせをしない。スズに声をかけない。信じる材料が万に一つでも出てきてしまったら、『スズ』が崩れてしまうから。
だからといって、巻島がそれを知るはずもなく。
「ねぇ、スズちゃん。そろそろ、何で食べないのか、教えてよ」
スズが絵本から目をあげて、巻島を見上げる。その金の瞳にどんな思いが渦巻いているのか、狭霧にはまったくもってわからない。
少しばかしの間をおいて、スズは何でもないように口を開く。
「教えたら、続き、読む?」
「――うんうん! 読む読む!」
あぁ、やめろ。
狭霧のその声は、声になることはなかった。なぜスズが急にしゃべろうと思ったのか。きっとそこに理由はない。だからこそ狭霧には不意打ちで。
「だって、それ、ご飯じゃない」
「えっ?」
聞き返す巻島に、スズはむしろ首を傾げる。
「私の食べ物、あの、黒いヤツ」
まるでパンか何かのように、何となしに、さらりと。
狭霧の拳が強く握られた。零れ落ちる何かを掴み止めようとするかのように、強く。