逡巡
そろそろ上に顔でも出してこい。吸い終わったタバコを靴裏でぐりぐりとしていた狭霧に、ベネットがかけた言葉がそれだった。
もともと対人間の軍事基地だったこの基地で、二人がいるのは空爆対策の地下空間にあたる。現在地上の基地では、今月何回目かという祝勝会が開かれているに違いなかった。カルロがここで少女の監視を買って出ているのも、そこで酒に酔ったジャックにノリスに絡まれたくなかったためである。もちろん、彼女の存在を、正体を目撃したのが彼だけだった、その事実こそ、狭霧にとっては重要だったのだが。
普段は乗り気でない狭霧も、すっかりヤニ臭くなった吐息を吐くと、不思議と乗り気になった。普段は面倒なジャガイモ頭を肴に安酒を飲むのが、きっと今日には合うだろう。
地上にドアだけがせり出した基地の隅。開いた扉がフェンスに当たって、がしゃりと鳴った。それに振り向く守衛も今日はおらず、彼を迎えたのはひんやりとした夜気ばかり。狭霧の目の前にある宿舎、その裏から洩れる喧騒や明かりの中にいるのだろうと、狭霧は小さく鼻を鳴らした。
土埃の匂いが強くなる。風が吹いてきたのだ。煽られる炎を手で覆い、新たなタバコに火をつける。鼻先に見える小さな灯に導かれるように、狭霧は歩いて行った。
「おっ、隊長! どこ行ってたんですか?」
「ばっかお前、俺の代わりに死人に小便かけに行ってたのよ!」
「さっすが鬼の狭霧! やることが違うねぇ」
宴の会場に辿り着くのに、そう時間はかからなかった。彼らが昼間に陣取っていた塹壕の、森林を挟んだ反対側。そこの草地を四角く切り取って陣取った基地の、その車両用出入り口から続く中央の広場に陣取っているのだから、当然だった。
足取りも怪しく近づいてくるジャックにノリスに関して、狭霧の周りからはさりげなく人が引く。狭霧にとっては見慣れた光景であり、座るスペースが確保できるものだから、好ましくさえ思っていた。今日も彼は、先客のいた木箱にどっかりと座り込む。
「隊長が来るなんて珍しいじゃないですか!」
「いつもはこんな安酒は飲めないって、やって来ないのに!」
「そんなことは言ってないだろう……」
彼らの言葉にいくらかの視線が反応するのを感じて、狭霧は呆れを漏らす。別にどう思われようと気にしない彼だが、無関心ではないのだ。中隊長という立場上、最低限の信頼は欲しかった。ジャックとノリスは、狭霧のそんな考えなど知ったことではなかったが。
「とにかく、今日はその安酒の気分なんだ。たまには上官への敬意というのを見せてくれないか」
「何だ? 隊長は相変わらずよくわからないことを言うなぁ、ノリス」
「馬鹿だな、ジャック。酒を持って来いってことだよ」
「あぁ、そういうことか! 早く行って来いよ、ノリス」
「あぁ? お前が行くんだろうが」
そうしてジャックとノリスは喧嘩を始めてしまう。さっさと持ってこいと言いたいところだが、それで巻き込まれてもかまわない。
狭霧はタバコを口から離し、あぁそういえばと、自分を嫌う兵士にとっては見せつけるようにタバコを吸うのも嫌味だったのだろうなと考える。しかしその考えも、吐き出す紫煙に乗って夜空に溶けた。
代わりに彼の頭の中を占領したのは、少女のことだった。
彼女の最後に言った言葉。「お父さんを探しに」という一言。
彼の口の端は笑おうと歪み、そして何かに耐えるように歪み、結果として生まれたのはいびつな表情だった。ジャックとノリスが喧嘩をやめて、「おい、隊長の顔やべぇぞ」「あぁ、今までになく怒っているのかもしれねぇ」と言い交し、慌てて走り去るくらいには得体のしれない表情だった。
――彼女は、鈴なのだろうか。
探しに来た『お父さん』とは自分なのではないかと。ニコチンに霞む脳内にその考えは甘く広がった。もう一度煙を肺に満たし、満足げに吐き出す。しかし戦場を生き続けた狭霧の思考は、否応なしの現実を突きつける。
黒魔。ついに大陸国家統一を果たした大帝国エスペランザ、その首都を地下から急襲した漆黒の悪夢。対人兵器の通用しない彼らを、しかし人類は舐めていた。首都だからという理由で空爆による一掃の選択肢を放棄し、その間に自己進化を果たした黒魔は対空能力を持つ個体を生み出してしまった。
首都機能が壊滅してからの人類対黒魔の戦争は一方的だった。軍人として仕官していた狭霧も、その絶望の戦場で奮闘していた。これが家族を守ることにつながると信じて、それ故に、彼は数年前までの敵国を守るために戦えた。
狭霧の祖国、その人々が黒魔の元凶として憎悪のターゲットにされ、避難の囮に使われたことを狭霧が知った時。それは狭霧が瓦解した戦線から命からがら逃げだして、分断されたエスペランザの一つ、シルルに逃げる最中のことだった。大陸統一の際、最後まで反抗したのが、狭霧の祖国だったから。それだけの理由。
彼が何度、引き返そうと思ったかわからない。何度自死を考えたか、何度神風を考えたか。
その全てを逃げと断じて、逃げて、逃げて、その先で戦って、今の狭霧になっていた。
「ありえないんだ……」
その声は、周囲の喧騒の中では蟻よりも非力だった。そして、それは彼の家族であっても変わらない。
もう、十数年だ。狭霧が戦い続けた年月。そして、狭霧が家族を待ち続けた年月。
最初の一年ほどを置いて、黒魔の支配領域から帰還したものはいないという。それはこのシルルという国においても、通信だけが繋がっていると政府が報道する、他の二国においても同じだった。
狭霧には逃亡の中で培った黒魔との戦闘技術という土産があっても、家族にはなかった。政府のばらまいた差別意識の強かった当時に、非難が受け入れられたとも狭霧には思えない。
つまりは、あれが鈴なら、彼女は狭霧の戦場よりも過酷な環境で、十数年を生き残ったことになるのだ。
まだ長いタバコを、狭霧は指でピンと弾く。遠くにいてもわかるジャガイモ頭の騒がしさが近づいてきていたのだ。酒があれば、タバコは要らなかった。
けれど、可能かもしれない。あの力があれば可能かもしれない。
狭霧が目をつむれば、あの少女の異形の姿が目に浮かんだ。彼女が戦い方というのを知っていたなら、狭霧は負けていただろう。裏を返せば、それだけの力があるということで。
その力こそ、彼女が鈴であると認められない理由だと、狭霧は気付いていなかった。気づこうとしていなかった、と言うべきかもわからない。
だから彼は、だったらあの若さは何だと、本来二十歳に差し掛かっているはずだと、別のことに頭を悩ますのだ。
「隊長! 持って来やしたぜ!」
「あれ、どうしたんです、隊長。珍しく顔色が悪いじゃねぇですか」
「ほんとだ。あれだな、悪酔いしたカルロみてぇだ」
「うるさい。お前らの声は頭に響くんだ」
ぎゃははと笑うジャックの手から、狭霧はジョッキを奪い取る。前線では貴重品として扱われる、しかしその実、大量生産のアルコールを薄めて着色しただけの安酒。酔うことだけを考えたそれが、奪い取った勢いでジョッキを零れ、狭霧の手を濡らした。
彼が思い出すのは、上に行けというベネットの言葉。
息を漏らすように一つ笑って、狭霧はジョッキを煽った。わざとらしい琥珀色が流れ込んで、狭霧の喉をアルコールで焼く。良くも悪くも酒らしいその匂いが鼻から抜けていく中、狭霧はごくごくと喉を鳴らし続け。やがて大きく一息つきながらジョッキを掲げた。
「おっと隊長、明日は雪ですかい!」
「いやさ。隊長がこんなに勢いよく飲むなんて、槍が降んなきゃ割に合わねぇ」
おどけていた二人だが、狭霧の視線を感じると、また次の酒を取りに走っていった。今度は狭霧が何杯で潰れるか、賭けをしながら。
そんな彼らを遠目に見やって、狭霧は後ろに手をついて空を見上げ、今度はアルコールにまみれた息をふうと吹き出すのだ。
――また、聞きに行けばいい。
十数年待った彼にとって明日は一秒先より近い未来だった。明日会って、そして聞き出せばいい。彼女の名を。
そう、彼女の名を聞けばいい。
彼女の名が鈴だと聞きだせば――。
その先は、狭霧の意識の外だった。