白の少女
「いやぁ、まさかね。お前にあんな趣味があったとは驚かされたよ」
「人聞きの悪いことを言うな。別にそういうわけじゃない」
「知ってるか? 世間じゃそういうのを照れ隠しって言うんだ、狭霧」
「……なら、もうそれでいい」
申し訳程度に傘をかぶった、裸電球が揺れていた。薄暗い廊下、その灰色をしたコンクリートの壁を、二人分の影が滑っていく。どこからか吹き込んだ砂埃の匂いがわずかに漂い、コツコツとした軍靴の足音だけが、人影のない廊下で軍服二人に追随した。
一人は、黄色人種らしい顔つきをした男、狭霧であり、もう一人、彼の横を歩く金髪は、ベネット・コールマンと言った。
ベネットはこの基地の司令官であって、狭霧の中隊が所属する大隊の大隊長でもあった。階級は大尉で、中尉である狭霧の一つ上にあたる。あたるのだが、その飄々とした態度はとても相応しいものではないと、基地の誰もが思っていた。金髪のオールバックに、歳を重ねてもなお、いやむしろ渋みを得て魅力を増した甘いマスクが、余計にそう感じさせるのかもしれない。
隣で楽しそうにくつくつと笑う彼に、狭霧は苦々しくため息をつく。数年来の付き合いになる彼らの間で、幾度となく見られてきた光景だった。
「すまないな。無理を言って」
「本当にだよ。まったく、あの部屋を用意するのに俺がどれだけ手間をかけたと思ってやがる」
「今度、何かしら礼をする」
「そういって何かもらった試しがないんだが?」
ニヒルに笑うベネットに、狭霧は肩をすくめて見せる。狭霧に礼をするつもりがあっても、ベネットに贈る品がないのだ。前線の軍人にとって嗜好品と言えば酒にたばこと相場が決まっているのだが、この男はどちらも嗜まない。かといって少し気を利かせてみれば、「こんな洒落たものは気に食わない」と文句を垂れる。
骨董の部類に入る古い軍事兵器を集めるのが趣味である彼は、その手腕でもって欲しいものは大概手に入れてしまっているのだった。
「あっ、狭霧さん。こっちです!」
彼らの何の身にもならない話が続く中、通路の先で不愛想な鉄の扉が開いた。そこから顔を覗かせたのは、愛想たっぷりの笑顔を振りまく女性だ。そこに下品さはなく、ただただ好ましく狭霧には感じられた。
「すまないな、いつも。面倒ごとに巻き込む」
「いえいえ、同郷のよしみですよ!」
「お前ずるいよなぁ。俺のが苦労してるのにマイちゃんには甘いんだから」
手を通路にぶつかりそうなほどに大きく手を振る彼女に、狭霧は軽く手をあげることで返した。身体の動きに合わせて茶色のポニーテールを揺らす彼女は、巻島マイ。ベネットの副官であり、狭霧と同郷の女性士官である。
開いたドアのところまで二人が来ると、彼女はすっと身を引いてドアの内側に二人を招いた。最後に部屋の中をちらりと見た彼女の横顔に、さっと陰りが走る。
「さっき目を覚ましたところですよ。それにしても、どうして?」
「なんでもない、気にするな」
「むぅ、狭霧さんは何を聞いたってそうです」
むくれっつらの巻島だったが、狭霧は気にせず中へと入る。ベネットはこの先は自分の入るべき場所でないとばかりに立ち止まり、「狭霧は人の心がないからなぁ」と巻島に冗談を言っていた。
鉄の扉が、閉まる。
防音加工の扉は重い音を立てて閉まり、部屋の中には気まぐれに明滅する蛍光灯のちかちかという音のみが残された。
その下で照らされる顔を見て、狭霧の足が一歩下がりかけた。かけたで済んだのは、ちょうど敬礼をするカルロが目に入ったから。
「起きたか」
「……」
返事はない。あの時と変わらない、冷たい視線だけが無関心を投げつけている。
あの少女だった。狭霧が戦場で見つけた、異形の少女。いや、異形だった少女と言った方が正しいか。
白い拘束衣を着た彼女は肌の露出こそ少なかったが、白い肌をしていた。背中から生える腕を失った彼女は、人間の拘束衣を難なく着ている。その姿はもはや、ただのいたいけな少女でしかなくて。髪から何まで真っ白の少女は、人間的でありながらどこか無機質な美しさを孕んでおり、唯一金色の瞳はどこまでも澄んでいた。
だからだろうか。彼女の縛り付けられた椅子の後ろ、そこに控えるカルロの表情は頼りなく、自分の行為への不安に平常心を覆いかぶせている。
変化が起きたのは、彼女が気絶してすぐだった。黒魔のようであった腕は液体と化してぬるりと崩れ、漆黒の肌はぽつぽつと染みが広がっていくようにして白皙に変わったのだ。これ幸いとベネットのコレクションしていた拘束衣を着せ、ベネットが秘密裏に用意していた防諜室に連れ込んで、現在に至っている。
狭霧は息の詰まりそうな立方体の部屋の片隅に置いてあった丸椅子を引き寄せ、座り込む。そして真正面から覗き込むように、少女と相対した。
「名前は」
「……」
狭霧はいつもの仏頂面を崩さないが、内心では何を聞くべきか、定めかねていた。
そもそも、目的があって捕らえたのではないのだ。殺してはいけないと感じたから、否、彼は殺せなかったから、彼女をここに連れてきた。
だからといってただで開放するわけにもいかない。狭霧たちがいるのは最前線であり、最終防衛線。この先の地雷原を越え、シルル社会主義共和国の内側深くで暴れられでもしたら、目も当てられない。また、治安維持軍に見つかるのもまずい。国籍のない彼女が見つかれば、密入国からスパイ容疑に結びつき、処刑か労働施設送りかの二択だ。
だからこその尋問であり、だからこその防諜。権力の肥大した治安維持軍に対しては、警戒してもしすぎはない。
「出身は」
「……」
しかし、彼女はこの通り、何もしゃべらなかった。狭霧は軍人であり、ベネットも、巻島も、カルロだってチキンであるが軍人である。このまま安全が確認できなければ、誰かが彼女を殺すだろう。それが仕事なのだから。
何もわからずとも、殺すのだけは避けねばと、狭霧は不思議と考えていた。
そうはいっても、どうすれば安全が確認できるのか。
質問と沈黙の応酬が続き、狭霧の声にいら立ちが募り始めた時だった。
「ここへは何をしに来た。動機は、理由は」
「……理由?」
うとうととしかけていたカルロの背筋が伸び、狭霧が椅子を倒して立ち上がる。琴を弾くような細い声。それはたしかに、転がる丸椅子を目で追いかける、この真っ白の少女から発せられたものだった。
「隊長?」
我に返ったカルロの意識が向けられたのは、しかし少女でなく、狭霧であった。少女すら奇妙なものを見るように、彼を見上げる。
視線に気づいた彼は、不意に頬に触れ、そして気づいた。自らの頬を、一筋の涙が伝っていたことに。彼は掌でさっとそれを拭い去ると、椅子を拾い上げて座りなおす。
「理由、そうだ理由だ。お前はどんな理由でここまで来た」
「探しに来た、多分」
「多分……?」
「お父さん、そう、お父さんを探しに」
◇◆◇
ぎぃぃという軋みを伴って、鉄の扉がゆっくりと開く。
「おう、やっとか。マイちゃんなんか待ちくたびれて帰っちまったぜ」
「そりゃ、お前に押し付けられた仕事が溜まってるからだろう」
そんなことはしないとおどけて見せるベネットを尻目に、狭霧は閉ざしたドアにもたれかかる。後ろ手に閉めたから、彼が再び部屋の中を見ることはなかった。
「あっ、おいお前。こんな密閉したところでタバコなんて――」
「……あぁ、そうだった。うっかりしていた」
狭霧は言われて初めて気づいたようだった。呆然と胸ポケットから取り出したタバコとライターを眺めて、再びそれを押し戻そうとする。
押し戻そうとするのを、ベネットが奪い取った。
「仕方ねぇなぁ。今回だけだぞ?」
ベネットはタバコを二本取り出し、片方を自分の口へ、もう片方に火をつけて、狭霧の口元へと持って行った。
「今回だけは、見なかったことにしてやる」
ベネットは何をとは言わなかった。狭霧も何をとは聞かずに、口でそのタバコを受け取る。肺の中を不健康な灰色で満たし、吐き出す。蛍光灯に照らされて、その煙がうねりを見せた。
「すまないな」
「気にすんな。礼なら貰ったからよ」
彼は咥えたタバコをくいっと持ち上げて言った。そしてそのまま火をつけて、狭霧の胸ポケットにライターとタバコを押し込む。
ベネットも同じように煙を吸って、吐いて、そして言った。
「あぁ、くそまじぃ」