プロローグ 前
「くそっ、くそっ……!」
ただそれだけを口にして、彼は夜闇を疾走する。繰り返される罵倒自体に意味はなく、止まりそうになる自分の足を前へと押し進めるため。擦れる木々の枝が彼のほほに赤い筋を引くものの、それに気づく余裕すら残されてはいなかった。
後方で断末魔が上がるたび、彼の狙撃銃を握る手に力がこもる。不気味な咀嚼音が響くたび、背負った背嚢を捨ててしまおうかと、彼は迷う。刻々と迫る血の匂いが、彼の心臓を捉えて離さない。
来る、来る、来る。
その恐怖は予感であり確信。この長い逃亡の中で身に着けた生存本能が生ずる二律背反。
――甲高く。
振り返り様に掲げられた狙撃銃が悲鳴を上げる。
それは、夜闇よりも暗い暗黒の肌の人型の、その血液を滴らせる爪の一撃を防いだ故。
「――ふっ!」
曲芸のように回る狙撃銃。半瞬の後に突き付けられる銃口。
乾いた銃声一つ残して、黒い人型はぐらり、崩れ落ちる。
彼は目の前の死体を蹴り倒し、踵を返して駆け出した。新たな弾倉を取り出そうとして、一つ舌打ちし、狙撃銃を投げ捨てる。数多の粗暴な足音に、すぐさまそれは踏み砕かれたようだった。
「死んで、死んでたまるか」
腿のホルスターから銀の拳銃を取り出しつつ、彼は食いしばるようにつぶやく。それは愛する家族からもらったもの。今では唯一となった想い出。
身を守るために抜いたそれが、彼に嫌と言うほど思い出させる。自分の背負う罪。自分の愚かさ。そして、自分に残された、唯一為すべきことを。
――そう、だからこそ。
「せめて、俺は死ぬわけにはいかないんだ……!」
◇◆◇
幾度となく踏みつけにされた短な草々を撫でつけるように、乾いた風が頼りなく吹き抜ける。遠くに霞む山と、大地にギザギザとうねる塹壕の後ろ、むせかえる濃緑の森林。それらを置いて遮るもののないその平原は、塹壕の中から見れば天まで届く大山脈が指と指の間に覗き見れるほど、広い。きっとここは、ある種の寂しさを思い出させる、雄大な自然と呼べるものだったに違いない。
そう、違いない。
「隊長、隊長! そろそろ!」
「……やかましい。基地のおんぼろスピーカーの方がまだましだぞ」
塹壕にもたれ、所々塗装の禿げた狙撃銃を抱くように丸くなっていた中年の男。隊長と呼ばれた彼の、野戦服からのぞく首筋などは、周囲の白人とは違って黄色。特段大きいわけでも険しいわけでもないのに、その黒い瞳には冷たい威圧感があった。
彼は、耳元の大声を遮るようにぼそりと漏らす。当の本人はどこ吹く風。隣に座っている瓜二つの男と、隊長のたとえを受けて下品に笑いあっている。筋肉質な彼らの丸刈りでごつごつの頭が揺れるさまは、ジャガイモが二つ転がっているかのようだ。
「隊長、すみません。一応、僕は止めたんですよ……」
「馬鹿にするな。そのくらいそこのミミズだって知ってるだろう」
隊長から見て、彼らの反対側。狙撃銃にすがるように座り込む金髪の青年が、軍人にしては線の細い青年が、申し訳なさそうな顔に気弱そうな声で囁いた。隊長は彼のそんな様子に呆れたようにため息をつき、その端くれを聞きつけたジャガイモ頭二つが振り返る。
「おいおい、そりゃあねぇぜ隊長!」
「そうだそうだ。あいつらに俺たちが見せたのなんて、アレくらいなもんさ」
そう言って、再度ゲタゲタと笑う二人組を、金髪の青年だけでなく、同じように塹壕の中に待機する誰もが顰蹙を目で投げつける。
「またポテトヘッズか」
「あいつらがいなけりゃあ、あの小隊もまともなんだけどなぁ」
「まともなもんかよ。サルの率いる隊だぜ」
「やめとけって。俺らだってそのサルに率いられてんだからよ」
嘲弄と悪意。過ぎ去った退屈と迫る危険からくるストレスのなれの果て。
その本質を知るからこそ、隊長と、そしてサルと呼ばれる男、狭霧京は涼しい顔で聞き流す。ポテトヘッズと呼ばれた二人、ジャックにノリスは聞く価値などないと笑い続け、ただ一人、金髪のカルロだけがひたすらに身を縮こまらせていた。
そう、彼ら四人こそ第二〇三強化兵中隊の中核をなすアリス小隊。狭霧はそのアリス小隊の隊長であり、つまりは中隊の隊長でもある。
『あー、聞こえてるか? ……はいはい、わかったよ』
電子的な雑音とともに塹壕内の各員に通信が届く。インカム越しのその声はあまりにものぐさで、何者かの叱責を受けるほど。
『大隊長より各位。ブラック・インバウンド。繰り返す。ブラック・インバウンド。防衛線術はプランAだ』
「おうノリス、プランAって何だっけか」
「何言ってんだジャック。ほら、あれだよ、あれ」
「なんでそんなふざけてられるんですか……! いつも通りってことですよ!」
声を裏返らせて言うカルロに、えへらえへらとしたジャックにノリス。若干名を除き、空気が切り替わる。どんよりとした退屈をたちまち払いのけ、肌を刺す緊張感が支配する。
ムカデの足が這い出るよう。身に沁みついた訓練に従って一糸乱れず、誰もが塹壕から狙撃銃を覗かせる。表情一つ動かさない狭霧も、にやにやしたジャックも、ノリスも、そしてわずかに銃身を震わすカルロも。
そして、それらは来た。
いや、すでに見えていたのだ。平原のかなた、山々との境界を示すようにすうっと伸びていた黒い線こそ、それらであった。
思考なきキルマシーン。殺戮の行進曲。
無限と思えるほどに分厚く並ぶ悪魔的なそれらは、大地を揺るがすほどの暴力的な足音の群れは、そう呼ぶにふさわしい。
黒魔。筋骨隆々、人の形を模倣し、しかし頭部はなく、代わりに腕をもう一本生やした三つ腕の怪人。光沢を放つ黒い肢体で四つん這いになって、ゴキブリか何かのように地を這ってくる。頭についたもう一本の腕はと言えば、掌についた黄色く濁った瞳をこちらに向けていた。
「攻撃、開始」
横に広いこの防衛線戦において、中隊長の指揮権は強い。狭霧の指示が無線に乗ると同時、彼の周囲で数多の銃声が轟いた。
過去の戦闘で息絶えた同胞を踏み越える黒魔の津波に、乱れが生じる。一定の間隔を置き、黒魔の眼球が潰されていったのだ。視界を失った個体は二足歩行に切り替えて、残り二本の腕で視界を確保し、結果速度が落ちる。
もはや、狭霧たちに機関銃で銃弾をばらまく余裕などなく、だからこその妨害戦術だった。
壁を一撃で打ち砕くのではなく、亀裂を入れ、爪を突き入れ、踏破するための。
黒魔たちはもう、どの個体もその二足で走っていた。三本の腕を広げ、腹に大きく開いた口から、いびつに並ぶ鋭い牙を見せつける。一分もあれば、それは狭霧たちの首元に突き立つだろう。
「アリス、ベアトリス、クリス、ダイアナ、そしてエリザ。各小隊に告ぐ」
スコープ越しに彼我の距離を探りつつ、機械のような正確さと淡泊さを見せていた狭霧が耳元のインカムに手を伸ばした。それに対する各人の反応は。
あるものは笑みを深め、あるものは絶望を深め、多くは、覚悟を決めた。
「突撃開始」
「「「了解っ!」」」
鬨の声。抜き放たれるナイフの擦過音。投げ捨てられる狙撃銃の悲鳴、悲鳴。
十数倍はいようかという黒魔の群れに、十数の兵士が吶喊する。彼らの耳元をかすめる援護射撃が黒魔の群れをまばらにしても、それはあくまで誤差に過ぎない。
「よくやった。混戦に移り次第、残りの部隊も近接戦に移れ」
しかし、それがこの戦場の常だった。
インカムを離れた狭霧の手が、胸に差したナイフを放つ。風を切り、先頭の黒魔の掌に突き立ち。
すなわち、視界が消える。
狙撃もあって目を一つしか残していなかったその個体が狭霧を視界にとらえたのは、その掌を裂き、彼がナイフを再び掴んだ時だった。
一突き。回転を伴った突き込みが黒魔の胸を貫く。黒魔唯一の弱点、再生核を砕いたのだ。
ナイフを抜くついでに蹴り飛ばされた黒魔が宙を飛び、後ろの個体をよろめかす。そのわずかな時間をもって、狭霧は中隊に発破をかけた。
「いつも通りだ。ノルマは二十体。生き残った奴には酒をくれてやる。死にやがった奴は、そうだな、ノリスの小便でも飲むんだな」
「そうはいっても隊長は安酒しかくれねぇ」
「そうだそうだ。俺は小便をかけるなら隊長にかけたいぜ」
もちろん、ジャックとノリス以外に返事をする余裕のあるものなどいない。これが強化中隊の『いつも通り』。強化手術を受けた対黒魔兵器、強化兵による、対黒魔防衛戦術。
カルロの弱音が聞こえるのを気に留めず、狭霧は敵へ向き直る。否、耳に入っていないという方が正しいか。
――どうでもいい。
この戦闘はいつも通りだ。危機のようで、まだ危機でない。劣勢のようで、まだ劣勢ではない。いつも通り戦死者が出ても、それは必要な犠牲に過ぎない。
――どうでもいい。
そのための訓練だった。狭霧が部隊を訓練するにあたり、手を抜いたことはない。この時のための、万全の準備だ。
彼がこの戦場において、指揮官として最低限の働きをすれば済むようにという準備。
彼が発破をかけ、その後に落としたため息は、『面倒』であり、『待望』であった。
そう、つまり。
彼はこの戦場を、愉しんでいたのだ。
黒魔の黒光りする爪から削り出されたナイフが弧を描く。血しぶきが舞い、けれどもそれは、けして狭霧のものではない。
黄色く光る眼が裂かれる。黒い腕が切り飛ばされる。蹴り折られた牙が胸に突き立つ。
声をあげて笑いながら。戦闘を楽しむジャックやノリスの派手な殺戮とは違う。職人のような、静かな、それは作業と呼ぶにふさわしい。
徐々に、しかし確実に、狭霧は他の隊員に先行していく。敵の懐を掻っ捌きに行く。その事実に気付かないほど、狭霧は『作業』に没頭してしまうのだ。
だが、先行していた彼だからこそ、気づけたものがあった。
「なんだ……?」
またも黒魔の死体を蹴り飛ばした時に狭霧の見た光景、それは彼の興を冷ますに十分だった。
「おい、カルロ。見えてるか」
「な、何がですか! そもそも隊長が見えませんよ!」
「そうか」
震え声で叫ぶカルロでも、優秀には違いなかった。狭霧直属のアリス小隊には、狭霧にとって放っておいていいやつしかいないのだ。そんな彼が追い付いていないのでは、自分しか対応できるものはいないのだ。狭霧はそう判断した。
彼は一人で、集団の奥も奥、あの軽々と黒魔を投げ飛ばす何かに、相対せねばならないのだと。