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No.17 鎖雨樋

 鳴り響いた軽快な電子音が、読んでいた小説の世界から現実へと私を引き戻した。見上げれば壁の時計の針が三時を指している。箱から飛び出した小人たちは、それぞれがそれぞれに定められたコミカルな踊りを黙々とこなしていた。

 薄暗いリビングに人形たちのワルツと、振動する水槽のモーター音が響いている。その隙間を縫うようにして細い雨粒の音色が混ざり込んでいた。

 開いていたページに栞を挟んで小説をテーブルに置く。隣に置いてあったカップを見て、コーヒーを淹れていたことを思い出した。一口も口をつけなかったドリップコーヒー。とっくに冷めきっているそのコーヒーを私は手に取った。

 黒々とカップの中で揺らめく液体を見つめる。波紋の中にじっと私を見上げる顔が浮かび上がる。精気のない疲れ果てた顔だ。虚ろな瞳でじいっと、私の奥を見返している。さざ波に隠した大海のうねり。

 カップをテーブルに戻した。少し気分が悪くなっていた。目を閉じ、深く空気を吸い込んで、身体中に酸素を行き渡らせる。吐き出す息に堆く積みあがったもやもやが、少しでも乗って出てくれたらいいなと思った。

 暗闇の中で時計の音が止んでいるのに気が付いた。目を向けると、小人たちはまたまあるい木枠の中へ帰ってしまったようだった。ぶーんと、水槽のモーター音が少しだけ大きくなったような気がする。こぽり。水面に浮かび上がった熱帯魚が声を発した。

 テーブルに肘を突き、添えてあったスプーンでコーヒーをかき混ぜると、コーヒーはぐるぐると勢いよく渦を作リ始める。これなら私の顔など見えなくなってしまうだろう。そう思うとなんだか安心した。私は私に見つめ返されたくない。怖いのだ。私という全てに対して疑問を投げかけられているような気分になってしまう。

 ため息を吐き出すと、何処からともなく言いようのない徒労感が這いずり上がって来た。私の手から開放されたスプーンとぶつかってカップが小さな悲鳴を上げた。

 私は雨が嫌いだ。あの音が嫌いなのだ。だから、雨が降るといつも憂鬱になる。全てを壊したくなる。どうしてもこの世界を憎らしく思ってしまう。それはひとえに私の中で雨が決して消すことの叶わない幼い日の記憶と強く結びついているからなのだと思う。

 全て過去の、過ぎ去った遠い傷跡だというのに、未だに覆われたかさぶたの下で傷は疼き、痛みが蠢くのだ。

 目を閉じれば今でも鮮明にあの日のことを思い出すことが出来る。次第に大きくなる雨の音。暗闇の奥から近づいてくる記憶のスクリーン。そこに焼きついてしまった光景は、特にこんな雨の日だと簡単に再生出来るのだ。

 浮かび上がる、酒に酔い、叫び、昂ぶった感情をそのまま暴力に替えていた父の姿。そして、その矛先にうずくまる母の背中。まだ幼かった私は、そんな一方的な力の行使に対して何も対抗しうる力を持っておらず、ただ時が過ぎるのを怯えながら待ち続けていた。音を立てて床に散らばっていく食器の数々。なぜかテーブルの上から落ちなかった一升瓶。謂れのない罪に対して謝罪しながらうずくまっていた母の姿は、まるでいもむしみたいに弱く醜くいものだった。

 ゆっくりと目を開く。両腕をさすって、鳥肌が立っているのを確認する。忌まわしい記憶は、その内容が忌まわしければ忌まわしいほどにひどく鮮明に、そして形をもって私の中で保存されている。

 時計を見ると、時刻は二十分を回ろうとしていた。そろそろ息子の大輝の迎えに行かなければならない。私はコーヒーカップを手にシンクへ向かうと、コーヒーを全て捨てた。排水溝に向けて、傾いたシンクの表面を黒い液体が流れていく。カップをシンクの底に置き、蛇口を捻って水を流した。

 こうやって、全て流れてしまえばいいのにね。

 カップに注がれ、止めどなくあふれ出す流水を見つめながらそんなことを思った。


 開いた傘を雨が絶え間なく叩いてくる。柄を握る右手が微かな振動を感じるくらいだ、思ったよりも強く振っているのかもしれない。少し大輝のことが心配になった。

 梅雨時の雨というものは、にじりにじりと降り続きふと気が付いた時にはもう河川を猛らせんばかりに増水させたりするから厄介だ。きっと、まだ幼稚園の中で友達と一緒に遊んでいるのだろうとは思うが、子を持つ親としては正直気が気でない。もし万が一なにかあったら……。もう少し早く家を出るんだったと、今更ながらに後悔した。

 歩調を速めて目的地へと急ぐ。と、目の前から小さく話声が聞こえてきた。傘を少し上げ、視界を開く。道の向こう側からやってくる親子の姿が目に入った。距離が狭まるに連れて、会話の内容がはっきりと聞こえてきた。

「うわぁ。すっげえみずたまり。ねえママ、すごいみずたまり!」

「ちょっと靖矢。入らないでね。靖矢の服買ったばかりで新品なんだから」

 そんな母親の忠告など何処吹く風、男の子は意気揚々と水たまりの中へと入っていく。加えて中で飛び跳ねてしまった。着地と同時に飛沫が円状に拡散する。男の子はさることながら、一緒に歩いてきていた母親にも水がかかってしまった。

「コラ靖矢! 濡れちゃったじゃない」

 そんな二人の横を通り過ぎる。すれ違う際に、二人に会釈をした。肌の若い優しそうな母親が柔和な笑みを湛えて会釈を返してくれた。

 雨の道を歩きながら様々な物事を目にする。先ほどの親子に然り、時折目に留まるアジサイに然り、私にはあまりいい印象のない雨だけれど、いたるところに素敵な場面があることを私は知っている。たくさんあるのだ。

 そしてそれはきっと幼稚園に通う子供たちの方がよく知っている。水溜り、雨の音、傘を打つ断続的なリズム、カエルの鳴き声。それら全てに対して、彼らは驚きを表し、がむしゃらに楽しむことが出来るのだから。見るもの感じるもの全てが新鮮で楽しくて、心の底から毎日を謳歌している彼らの世界は、きっととても素晴らしいものなんだろうなと、時々考えてしまう。私にもあったはずの幼い煌めき。一体どこへ行ってしまったのだろうなと、どうしようもなく虚しくなる時があるのだ。

 それでも、失くした分だけ得たものがあるのだと今の私は自らに胸を張って言い聞かせることが出来る。

 幼稚園が近づく。歩調は更に速くなり、門を通り過ぎるや私はすぐに玄関の受付に顔を出した。髪を後ろでまとめた保母さんは少し驚いた後、季節を先取りしたひまわりのような笑顔を浮かべて大輝の名前を呼んだ。私はそのまま玄関で待つ。保母さんは奥から大輝を連れて来てくれた。

「今日は大輝くん、お外で遊べなくて少し残念だったみたいです」

 そう言って気持ちのいい笑顔を向けてくれる保母さんと二、三言葉を交わしてから、私は大輝の手を取った。

「帰ろうか」

「うん」

 たったそれだけの言葉を交わすだけで、私の心に花が咲く。前歯が抜けた、少しへんてこりんな顔が満面の笑みを浮かべてくれるだけで、暗い影を落としていたわだかまりや悩みがどこかへ飛んでいってしまう。

 いや、どこかへ飛ばさなければいけないのかもしれない。

 繋いだ手。小さな温もり。これが今の私の宝物なのだ。私が手に入れたもの。手放さない、守りたい、大切な煌めきなのだ。

 雨の中へ二人で足を進める。大きな傘の中に、合羽を着た大樹と二人きりだ。

「でね、しょうこちゃんがひけるっていったから、だいきもひくっていったの。でもしょうこちゃんひかしてくれなかった」

「残念だったねえ。次は翔子ちゃんが座る前に席取っちゃわなきゃ。でも、翔子ちゃんもうピアノ弾けるのね」

「だいきも。だいきもできたもん」

「ああ、ごめんごめん。大輝もだね。大輝もピアノ上手」

 そんな会話をしながら二人で歩いていく。繋いだ手をぶらぶらさせて、ゆっくりと雨の音色を楽しむかのように。本当のところ、大樹の黄色い合羽はかなり目立つのだけれど、大切な宝物だから全然恥ずかしくない。ちょっと離れて後ろから見ると、小さなロボットが懸命に歩いてるように見えて結構可愛らしいのだ。

「ねえおかあさん、あしたはれるかなあ」

「んー難しいねえ。まだ雨降りだと思うよ」

「そっかー……」

 そう言って露骨に肩を落とした大輝の反応が気になった。明日、明日は何か予定があっただろうか。

「どうしたの? 明日晴れなきゃダメなことでもあるの?」

「……ぼく、あめきらい」

 言葉を聴いた瞬間、脳裏に父の面影が再生された。母を否定する罵声。繰り返される暴力。一瞬にして肌が粟立つ。雨音が大きく聞こえ始める。動機が激しく、耳の奥で脈を打つ。

 思わず、繋いでいた左手に力を込めてしまった。

「おかあさん?」

 大輝がそれに気が付いて私を見上げてくる。澄み切った純粋な瞳だ。私はとっさに破顔し言葉を続けた。

「ねえ、どうして大輝は雨が嫌いなの?」

「え、だっておそとであそべないんだもん。つまんないよ」

 その答えに、私は一瞬思考が止まった。そして唐突に噴き出してしまった。

「なんだ、そんなことなのかあ」

「そんなことじゃないよ。あめ、だいきらい」

 そう言って頬を膨らます我が子の表情を心から愛おしいと思った。大丈夫だ。この子には絶対に私みたいな思いはさせないんだ。強く決意を固めた。もう、過去は怖くない。

「ああ。おかあさん、はやくいえにかえろ」

「ええ、どうしたの?」

「ハイパマンがはじまっちゃう!」

「ああ、そうね。じゃあ、走ろうか」

「うん。おかあさん、はやくはやく」

 この笑顔を守りたい。ずっと、ずっと。


「もうおかあさん疲れちゃった。大輝先行ってて」

「ええ、おかあさんもうちょっとだよー」

「ダメダメ。ね、おかあさんもすぐ行くから」

「……わかった」

「合羽だけしっかり玄関で脱いで部屋に家の中入ってね」

 頷き、駆けていく背中を見送る。隠し切れない興奮をあらわにする無邪気な背中が愛らしかった。

 比べて私の体たらくときたら。すこし走っただけだというのに、完璧に息が切れてしまった。情けない。思わず自嘲的な笑みを湛えてしまった。

 家の扉の前に辿り着く。開けっ放しの扉に思わず苦笑が零れ落ちる。そう言えば扉を閉めなさいとは言わなかったような気がするわね。こちらの落ち度かと、玄関の中に入った。

 妙な違和感を覚えた。いつもの玄関。傘を傘立てにしまい、靴を脱ぎ、見回してみる。何かが足りない気がした。決定的に足りない何かが存在していた。

 そうだ、合羽がない。先に帰ったはずの大輝が脱いだ合羽が、この玄関には存在しないではないか。どういうことだ。もしかして、言いつけを守らずに合羽を着たまま家の中に入ってしまったのだろうか。

「ちょっと大輝。合羽は脱いで上がるよう言ったはずでしょ」

 声をかけながらリビングへと向かう。だが、開いた扉の先に大輝の姿はなかった。テレビはおろか電気すら点いてない。私が出た時のまま時間が止まっていたかのような錯覚に陥った。

 なんだ。なにが起きたのだろう。慌てて、私はリビングから飛び出す。再び舞い戻った玄関には、よく見れば大輝が履いていたはずの長靴の姿もなかった。

「大輝、大輝。何処にいるの。隠れてないで出ておいで」

 声を荒げ、家中を探し回る。寝室。子供部屋。トイレ。押入れ。けれどどこにも大輝がいない。どうしてだ。ついさっき別れたばかりだというのに。

 いないいないいないいないいないいない。

 どこにも大輝がいない。

 訪れた脱衣所から出て、ため息混じりに私は洗面台を見た。薄汚く汚れた鏡が目の前にあった。台の上に置かれたタオルを手に、まるで導かれるかのように私はその汚れを落とし始める。次第に輝きを取り戻していく鏡を目にしながら、私は知らず知らずの内に涙を流していた。

 鏡が全てを明らかにする。見えなかった家の中を、見えなかった私の実像を、見えなかった私の記憶を、全てを照らし出す。

 汚れを落とし切り、タオルをそっと台の上に置いた私は、目の前に映し出された私という実像を見て思わず顔を覆った。

 父ではなかったのだ。母ではなかったのだ。そしてあの時。あの記憶のスクリーン。私の後ろにもうひとりいたのだ。泣きじゃくる大輝。怒り狂った夫は、遂にその矛先を私からあの子へと向けて……。

 手を外す。目の前の鏡には独りの老婆。その眼からは大粒の涙が溢れていた。


 鎖樋に溜まった雨水は、静かに時を告げている。


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