3)獣医師。ヴェテリナ
ギャー、ギャーという獣たちの声が響き渡る空間がある。ここは研究用動物園だが、一部は国民のために開放して、この国の数少ない娯楽施設の一つとなっている。
私たちの国の動物の種類は限られている。はっきり言って動物園にいる種類ですべてだ。小さな昆虫を除いて、野生動物はいない。3400万年前に人類と共に地下空間への移動を許された動物が限られていたからだ。4000万年前までオーストラリア大陸と地続きだった南極大陸にはオーストラリアと変わらない動物や植物が棲息していた。当時は有袋類動物を中心にした400種類の哺乳動物、900種類の鳥類、500種類の爬虫類、200種類の両生類、4000種類を超える淡水・海水魚類が大陸や周辺海域にいたが、移動を許された動物の種類は非常に少ない。せいぜいでそれぞれの動物種で10種類未満だ。
地下への移動は檻付きの箱、金網付きの箱、そして水槽などを利用して移動したようだ。動物たちの移動方法が後世に伝わり、私たちの先祖が関わったメソポタミアで起こった大洪水の際には、現地の人間に動物たちの保護に利用する方舟のヒントになったという。
しかし、この数千万年という時代の流れは、私たち人類にも進化や退化を及ぼしたが、人工太陽球の地下環境という限定された過酷な環境の中で、連れて来た動物たちにも進化と退化、そして多くは絶滅という運命を強いらせた。
現在、私が勤務する動物園で飼育されている動物種は人類の英知と努力によってかろうじて次の種類が生き残っている。哺乳類ではカンガルー、コアラ、ヒツジ、それと地上では絶滅したフクロオオカミ。特にヒツジとカンガルーは食用にも利用されるため牧場形式で数多くが飼育されている。しかし、鳥類はセキセイインコのみだ。爬虫類もトカゲのみ、両生類もアマガエルだけで、魚類に至っては数千万年も前に地下世界からは消滅している。いずれも進化の過程で小型化し、背骨は成長するに従い湾曲してくる。動物の世界にも自然の太陽の恵みによる骨の成長と維持が妨げられ、骨粗鬆症が蔓延している。かつては陸続きだったオーストラリア大陸の同種動物とはかなり形態が異なってきているのは確かなようだ。
「ヴェテリナ先生。いますか?」
飼育員のブリードが私の研究室の中に入って来た。ブリードは私の姿をみて安堵した様だ。
「フクロオオカミのミカが出産しそうなんです」
「今、行くわよ」私は白衣を着ながらフクロオオカミの雌のミカのいる動物舎に向かった。
フクロオオカミも3400万年前の地下大移動の際にはいなかった種だ。彼らの素になった小さな有袋類動物が地下生活の長い歳月の中で進化してフクロオオカミとなったのだ。従って、地上のフクロオオカミとは進化の過程が異なっているため、外観には違いはある。もっとも地上のフクロオオカミは絶滅している。
有袋類動物は交尾をしてから受精後、1カ月頃には膣から胎児が出てくる。わずか1g程度の未熟児状態で、母親の腹にある育児嚢と呼ばれる袋の入り口まで這い上がり中に入る。中に入った胎児は育児嚢の中にある乳首に吸い付き、栄養を補給することができる。母親は胎児が自分の育児嚢に入るまで盛んにフォローをするが、リスクは付きまとう。また、育児嚢に無事入ったとしても、あまりに小さい未熟児状態では死亡するリスクは常に高い。私は有袋類動物の出産の度に付き添い、膣から出てきた胎児を直ぐに育児嚢に入れる作業をしている。少しでも生き残れる確率を増やすためだ。
出産間際の動物たちは気性が荒くなっているので、若干の麻酔をかける。強い麻酔薬は胎児に悪影響を与えるので避けなければならない。1g程度の小さな胎児が膣から尿や血液に混じって出てきていた。有袋類動物の雌は多くの場合、膣と尿道が途中で合流している。雄が射精管と尿道が途中で合流しているのと同じだ。
私は慎重に、育児嚢へ行こうと盛んに手足を動かしている胎児を育児嚢の中へ挿入した。育児嚢に中にある乳首に吸い付いてくれさえすれば、胎児は順調に生育してくれるはすだ。
後片付けも終わり自室に帰ると庶務係のジェネアから電話が入った。
「ねえ。ヴェテリナ、やっと産休要員の獣医が来てくれることになったわ」
ジェネアの声はいつも甘ったるいので私は嫌いだ。
「あら。やっと私は休めるのね」王立動物園とは言え、いざとなると人の補充は難しい。
「ごめんなさいね。ぎりぎりになっちゃって。赤ちゃんの様子は順調?」
余計な話はしたくない心境なのだが仕方ない。
「昨日検診に行ったら12cmの推定60gというところだったわ」
「あら。順調なんだわね。明日朝、代用獣医が来るから、それまで持たすように赤ちゃんに言っといてね」甘ったるい笑い声を残して彼女は電話を切った。
妊娠5カ月という臨月になっている私はいつ赤ちゃんが生まれても不思議ではない状況だった。お腹もわずかに膨らんできている。明日朝に代用獣医に引き継ぎをしたら、そのまま産科医院に急行になるかもしれない。
その夜、夫のクレーチャーが久しぶりに家に帰ってきた。なんだか今夜の出産を予感したという。彼は生物学者だが反重力飛行体の搭乗員で地上生物の研究員でもある。最近の防護服は機能性や耐久性に優れており、大体1ヶ月間の地上勤務に耐えられる。1週間予定を前倒しして帰還した計算だ。
「なんだか今夜あたりに何かありそうな予感がしてね」
クレーチャーは地上で調達したという珍しい果物をテーブルの上に用意してくれた。ニッポンという国の、人間の横顔のような形をした島の一部で採れるマンゴーという果物だそうだ。地上人にとっては結構高いものらしいが、くすねてきたという。音の響きが私の出産にも縁起が良いだろうという、彼らしくない下ネタも披露してくれた。私はもちろん彼のために手料理を振舞ったことは言うまでもない。
その深夜、「何か変だわ」ダブルベッドの隣で寝息を立てていたクレーチャーに声をかけた。神経が過敏になっていた彼はすぐに私の顔を見て察してくれた。産婦人科医院にこれから行くという連絡を彼がしてくれている間に、私は出産用に準備していたものを入れたバッグを玄関先に運んだ。ジェネアにはメールで連絡を入れた。直接引継ぎをしなくても大丈夫だろう。大体、臨月間際まで私を引っ張る管理者が問題なのだ。
自家用車で5分程度にある産婦人科医院に到着するや直ぐに、担当ナースが私をストレッチャーに乗せて分娩室に運んだ。まもなく膣口から胎児がヌルリと出てきた。体長は10cm程度、体重も50gあるかないかで、ようやく人間としての形態を持ちだしたところだ。従って、陣痛はあるものの、お産自体の痛みや苦しみはほぼないと言ってよい。
産まれた胎児は小さな手足をもがくように動かしている。私が担当している有袋類動物たちの胎児たちは、ここから母親が体毛に塗り付けた唾液の道筋を辿って育児嚢へ這い上るのだが、人間の場合は体毛が退化してしまって無い。従って、人間が育児嚢の中へ、直接胎児を挿入してやる必要があるのだ。自分で対応も可能だが、あまりに未熟で生まれるため、何らかの事故が起きる可能性も高い。だから、産婦人科で出産する人が多い。
「まだ、男女の区別はつかないわね」
産婦人科医のオブステット女医が残念そうな口ぶりで私に言った。
「この時期はしかたないですわね」
私も獣医だから、この時期の男児の睾丸が、それと分かるほど体内から下りてきていないのは知っている。
オブステット女医は、この道20年のベテランらしく、ていねいに、かつ手際よく胎児を私の育児嚢の中に滑り込ませた。出産と同時期に育児嚢の入り口が開きやすくなるが、時々、開きにくい場合もある。そのような場合は若干の切り込みを入れる帝王切開術が行われる。
挿入されて、まもなく育児嚢の中にある乳首に胎児が吸いつく感触が伝わってきた。
「どう?」オブステットが私を心配そうに見つめる。
胎児が乳首に吸いついたかどうかを確認しているのだ。
「元気よく吸ってますわ」
私は安堵の表情を浮かべながら答えた。
オブステットは晴れ晴れとした顔になって「順調にいけば明後日には退院できるわ。旦那さん、良かったですね」
突然、話をふられたクレーチャーがどぎまぎしながら「ええ」とだけ答える。生物学者だから動物の出産シーンは見ているはずだが、どうやら人間の出産シーンは初めてだったらしく、ましてや自分の子供の出産となるとかなり緊張していたようだ。
わが子は私の育児嚢の中で、あと半年近くを過ごすことになる。育児嚢の中で育つ子供の成長と共に育児嚢は膨らんでくるのでインファント・ドレスがこれから必要になる。5カ月を経過すると子供が育児嚢から頭を出すようになるのでインファント・ドレスのお腹の部分には切れ込みがいれてあり、子供がそこから顔を出す光景は中々可愛らしいものがある。
地上の生物に詳しい夫のクレーチャーが笑い話のように話をしてくれる。地上の人間にはお腹の真ん中には穴の痕跡があるというのだ。一部の国ではヘソと呼んでいる。地上人の子宮の中では胎盤というものが出来て、その胎盤から血管が胎児のヘソの部分につながっており、その血管を通じて栄養分を補給し、かつ老廃物を外に排泄できる仕組みになっているというのだ。
私たち人類には胎盤が無い。受精卵は子宮の中にしみ出してくる栄養分を、ほそぼそと吸収して細胞分裂を繰り返す。最初の成長具合は地上人類より遅いとされている。ただ育児嚢に入ってからの成長は私たち人類の方が早いとクレーチャーは言う。私たちは胎盤から栄養分の補給を受けないので、母体との結合部位であるへそは無いのだ。女性には出産時に特に顕著になる育児嚢に通じる穴はあるが、男性の腹部は全くなにもない状態だ。
地上の女性は胸部に乳首があるため、乳房と言う組織が発達しているという。クレーチャーは最初に地上人類の女性の裸体を見た時には、何か異形の生物を見るようで気味が悪かったが、地上の雄は胸の乳房の大きい雌に発情するのだと言ってたいそう不思議がっていた。私たちには進化の過程の悪戯なのだろうか、胸の両側に痕跡程度の乳首が男女ともについている。女性の胸だけが特別に大きいという事はない。敢えて下ネタを許してもらえるならば、私たちは下半身のみで感じあっている。
出産3か月後、育児嚢はかなり大きくなり、定期検診によると中にいる子供は男の子だった。クレーチャーはスペーシーと名付けた。メンタミア語の古代語で宇宙を意味する言葉だそうだ。将来は宇宙飛行士にならせたいらしい。既に1000万年前に反重力型飛行体を完成させていたメンタミア人は500万年前には地球外の宇宙へも進出していた。しかし、宇宙へ行ったきりで帰還できる確率はかなり低かった。100%の確率で帰還できるようになったのは、実はこの100年の間だった。現在では、宇宙飛行士は安全な職業として認識されている。
出産5か月後、スペーシーはインファント・ドレスのすき間から顔をよく出すようになってきた。ときおり、泣くようにもなっている。出産後6ヶ月から7ヶ月の間に大抵の子供は育児嚢から出る。スペーシーも体重が3.5kgになった時に育児嚢から出てベビーベッドに移した。育児嚢で成長しすぎると母体に対するダメージが大きくなるためだ。その後、半年近くは胸から出てくる母乳で育てることになる。育児嚢から子供が出る時期は、母体の胸にある乳首が発達する時期と一致する。地上の人類の雌がもつ乳房というのではなく、乳首のみが発達して乳汁が分泌するのだ。そして、乳首から母乳が出なくなる頃あいから離乳食が始まる。
メンタミアはいくつかのドーム状の空間から成り立っている。それぞれを州と呼んでいる。一つの州には10万人単位で人が住んでいるが、私たちが住んでいるフォッシル州には王都があるため人口は50万人を超えている。子供たちの多くは州立の保育所、州立の子供学校、州立の少年学校、州立の専門学校に進む。20歳になると専門学校を卒業し、各企業に就職するのが一般的だ。
スペーシーを保育所に預けてから、私は獣医の仕事に復帰した。そして、クレーチャーは相変わらず地上生物の研究者の立場で飛行体隊員の一員としての一月の大部分、家を空けている。
それでも一人息子のスペーシーは順調に育ち、メンタミアでトップレベルの王立専門学校を卒業して、クレーチャーの希望通りの宇宙飛行士になった。