11)昆虫学者、ネッティー・マリア・スティーブンス
「どうして今更そのような事を気にするのかな」
優しい眼差しの宗次郎はミユを見つめた。
「だって、隠されていることは知りたいじゃない」
ミユは素直に答えた。
「つまり、人としての本能というわけだ」
宗次郎は一呼吸おいた。
「一子相伝という言葉があるだろう。知っているかな。親から一人の子へと重要な一族に関わることを伝えることだが、逆にいうとその一子が次の一子に伝わらい状況になったら、その重要な内容は永久に歴史から消え去ってしまうという意味でもある」
ミユは黙って宗次郎の口元を見ていた。
「幸いにして我が柏崎家では気の遠くなるような歳月に渡って途切れることが無かった。1953年、今から64年前、ワトソンとクリックが遺伝子本体のDNAの二重らせん構造を提唱した。わしが26歳の時だった」
ミユは唐突に外国人の名前やDNAなどという名前が出てきたので面食らってしまった。
「すでに1905年にネッティー・マリア・スティーブンスという女性研究者が初めて昆虫だが男を決定する遺伝子Y染色体を報告した」
宗次郎は淡々と話を続ける。
「おじいちゃん。どうしたのよ。急に」
ミユは呆れて宗次郎の顔をみた。
「おや、言ってなかったかな。わしはこの堀ケ野村で埋もれるのが嫌でな。農家の長男だったが、家出同然にここを飛び出して、働きながら京都の大学へ通っていたのだよ。専門は生物学だった。卒業後も研究職で残っていたから、知っているのだよ。ワトソンクリックのモデルは衝撃的だった」
宗次郎の眼は遠い昔に向いていた。
「父親も倒れて、わしも将来に夢を持てなくなって30歳の時にここに戻ってきたのさ」
宗次郎は苦々しい顔になった。
「で、私は何を聞けばいいのかしら」ミユは笑顔で宗次郎を覗き込んだ・
「そうだったな。大昔、それは今の人類が生まれた頃にまで遡るのかどうか、それは今となっては誰も分からないが、我々の祖先の女性は奇妙な人類の男性と交わったという逸話がある。それ以来、人が忘れた頃に、女の子に限って奇妙な子供が生まれてくるようになったという。それは現代でも続いるようだ。わしもこの目で見た事がある。女児の胸に乳首が退化して、臍がなく、腹部に袋が付いているのだ。それはまるで人の顔をもったカンガルーのような生き物だ。そして生後1ト月も経たないうちに必ず死んでしまう。大昔は、その姿を忌嫌って生後間もなく殺害してしまったともいう。神道が日本に定着してきた頃に、これまで死んだヒルコ達を神格化して神社が造られた。それがこの村にある恵比寿神社だ。ヒルコは蛭子という漢字で書き、別の読み方が恵比寿にもつながるので、恵比寿神社と古来から言われてきたという。見た事があるだろう。神社の狛犬がカンガルーだってのを」
「え、あれって、てっきり私、狐だって思ってたわ。だからなんで稲荷神社じゃないのかなって」
ミユは驚いた。自分が幼い頃から見てきた神社の狛犬は確かに狐の形をしていた。しかし、それは雨風の洗礼を受けて丸みを帯びたカンガルーだったのだ。
「我が家に代々受け継がれてきた古文書にも、その内容は書かれている。日本にまだ文字が無かった時代からの言い伝えともある。Y遺伝子は男子だけに受け継がれる。太古の昔、奇妙な人類の男性のY遺伝子は、男系の子孫が途絶えない限り、受け継がれていく。そして、Y遺伝子の中に女性の体に影響与える劣勢遺伝子が組み込まれていたのだろう。XとYの性決定遺伝子が減数分裂する際に、Y遺伝子の劣勢部分がX遺伝子の上に偶然転座して、男性の転座X遺伝子と女性のX遺伝子が組み合わさった時に、ヒルコが生まれるのだろう。これはわしの推測だけどな」
宗次郎は真面目な表情で解説した。
「随分、科学的すぎて分からなくなったわ。とにかく我が家の家系は親戚筋も含めて男系家系だと、数十年に1回の確率で突然女児にカンガルーみたいな子供が生まれるということよね」
ミユは自分がどうなのだろうと思いながら確認した。
「ミユの場合は大丈夫だ。赤ちゃんの頃にあったお腹の横線跡があったが、それは何らかの昔の名残が残っていたのかもしれない。この血統については世間の誰も知られていない。わしらの一族の表に出してはいけない秘密だ」
ミユは自分の腹部にある横線の跡には幼い時から気が付いていた。しかし、ごく薄い跡で特別気にもしていなかったし、それ以外は特に変な部分はない。
宗次郎は傍らにある和箪笥の引き出しから一冊の書籍を取り出した。
「これは神社の本殿に納められている古文書のコピーだ」
宗次郎はある場所を示した。
そこには人の絵が描かれていた。一筆描きのような簡単な絵だったが、髪の長い女性に見えたが、胸に膨らみはなく、臍もなく、下腹部には袋状のものがあり、その上部の切れ込みからは小さな顔がのぞいていた。陰部付近に男性器がないことから女性であろうと推測はできた。
「この古文書の原本は写しだ。古くなっては転写されてきたようだ。はっきり言っていつの時代から記録が始まったのかは分からない。わしには理解のできない年代が書き込まれている。日本に文字文化が発達する前に入ってきた可能性すらある。だから、この女性像もいつ生まれたのかは分からない」
宗次郎は淡々と説明をする。
「この女性は明らかに大人よね。成人になるまで生きていた人もいるのね」ミユは怖いもの見たさの感覚で、不思議な生物を見ていた。形相は何に怯えているのか恐怖で歪んでみえる。
「わし達の先祖の女性が太古に奇妙な男性と交わったとされる時代から、どれくらい経っているのだろうか。遺伝子情報は変異もしてくる。ヒルコが成人化するために必要な遺伝子も希釈されて、少なくともこの数百年は成人に達するヒルコはいなかったようだ」
「ねえ、おじいちゃん。この古文書のコピーをまたコピーさせてもらっていい?」
ミユは宗次郎をみた。
「それはできない。この秘密は一子相伝になっている。わしが言えるのはここまでじゃ」
宗次郎は話題を替えて、ミユ達一家の最近の様子を聞き出そうとした。
ミユは祖父の家を出ると、恵比寿神社に向かった。先に来ているはずのスペーシーと会う約束になっていた。外は霧雨状態が続いていた。雲の上では日も傾きかけており、周囲は薄暗さを増していた。
ミユは幼い頃から見慣れていた恵比寿神社の前に立っていた。祖父、宗次郎から聞かされた話を思うとこれまでただ懐かしい思い出の場所であった神社の姿が違って見えた。狛犬の前に立ってみた。これまで狐だとばかり思っていた像が、確かにカンガルーが少し立ち上がった姿に見えてくるから不思議だ。表面が摩耗しているが確かに腹部にはカンガルーの子供が頭を出しているような姿に見えた。
「ミユ」
本殿の中からスペーシーの声が聞こえてミユは我に返った。
ごく自然に二人は軽く抱擁をした。スペーシーの防護服とヘルメットが邪魔をして密着感はない。それでもミユはスペーシーの肌のぬくもりを感じた。
スペーシーは部下にミユとの話の内容を聞かれるのを恐れて、飛行体との交信スイッチを切っていた。
「スペーシー、私の遠い遠い先祖は、どうやらカンガルーみたいよ」
ミユは冗談っぽくスペーシーに言ってから、神社の本殿の中で祖父との話の内容を聞かせた。
「これが、ミユのお祖父さんが言っていた古文書だよ」
ミユの話を聞き終わってから、スペーシーは古ぼけた一冊の本をていねいに傍らから取り出した。
「既に、中は写真を撮ってデーター化してある。これだよ。君が言っていた女性像は」スペーシーはあるページを示した。そして、厨子に納められていた御神体を取り出して並べた。
「罰が当たるわよ・・・」
そう言いかけたミユだったが、現実に御神体を見て唖然とするばかりだった。
古文書の姿は、この御神体を写し描いたものだろう。そして、御神体はミユが思うカンガルー人間だった。
「明らかに、これは私たち人類の姿だ」
スペーシーはぽつりと言った。
「ねえ、そろそろ、あなたの正体を教えてくれない?どこの地底人で一体何者なのか?そして、私の先祖とどういう関係があるのか?」
ミユはスペーシーの青い瞳をじっと見つめた。スペーシーはミユの瞳に吸い込まれそうになり全身の力が抜け落ちそうになるのを感じていた。