閑話 アキラのこい
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ここは“忘れられし聖域”。
険しい山脈奥深くにあるこのダンジョンには人類種が探索にくることもなく、侵入者は野生動物ばかり。
聖域の名は伊達ではなく聖属性の結界によって守られており、邪悪なモンスターも現れない。
「前世のオレはなんでこんなとこダンジョンに選んだんだ?」
崖に彫られた巨大な神像を前に首を捻るアキラ。ヴァンパイアエンプレスである彼女はこのダンジョンのダンジョンマスターである。
アキラは吸血鬼ではあるが上位種であるため日光は弱点ではなく、ダメージを受けることもない。無論、聖属性の結界も同様だ。
「あの剣、お前に似てるよな?」
神像が右手に持つ剣はアキラの聖剣とは大きく形が違う。なにより、刀身に龍が巻きついていた。
それでもアキラは似てる、と思うのだ。
「うう、なんか思い出しそうでモヤモヤするぜ。この頭の奥で引っかかってんの、フーマにもらった基礎知識か?」
フレンドであるダンジョンマスターとお互いに眷属契約しあった時に、彼の知識の一部が必要な情報としてアキラに記憶されている。
だが、ダンジョンマスターは眷属契約への耐性ができてしまうためにその期間は一日のみ。もう記憶は薄れ始めていた。
「あー、なんかスッキリしねえ!」
神像のそば、崖を落ちる滝に目を向けるアキラ。かなりの落差を誇る見事な滝である。
「一泳ぎしてさっぱりすっか!」
滝つぼに向かって足を進める。
“忘れられし聖域”にはまだ浴場がない。アキラはこの滝壺で身体を洗うのを日課にしていた。
眷族にもそれを命じているせいか、最近はあまり匂わなくなってきた気がするアキラ。――〈悪臭耐性〉のスキルの力もあったのだが。
「ん? またいやがるな」
滝壺に潜む巨大な魚影を睨む。ここ数日、この滝壺に現れる謎の魚だ。
ここの水は飲めるぐらいに綺麗で澄んでいる。魚の姿もハッキリと見えていた。
「鯉、だよな?」
鯉にしてはあまりに巨大。3メートルはありそうな巨大魚だったが、大きさを除けばヒゲ等の特徴はフレンドからの基礎知識にあった鯉に似ている。
そして、彼の基礎知識には鯉の他の情報もあった。
「鯉こくか洗いか……血を飲むってのもあったよな!」
アキラの目が光る。生臭いという知識は抜けてしまっているらしい。
ペロリと舌なめずりすると、着ていた体育着を脱ぎだすアキラ。
全裸になるとそのまま勢いよく滝壺に飛び込む。流れる水にも弱いとされる吸血鬼だが、もちろんアキラにはそんな弱点はない。
飛び込んできたアキラに気づいたのか、巨大鯉が彼女に向かっていく。捕食しようというのだろうか。
面白いとばかりに微笑むアキラ。大口を開けて向かってくる鯉に拳を叩きつける。
水中にもかかわらず鋭いパンチが鯉の顔を襲う。予想外の攻撃にふらつく巨大鯉。その隙をアキラは見逃さず、今度はキックで巨大鯉を岸に打ち上げた。
なにが起きたのかわからないのかビチビチと尾を動かしてもがく巨魚。
「さあってと、直接口つけるとさすがに魚臭そうだし、どうやって血抜きすっか?」
愛用の聖剣を出そうとして思い止まるアキラ。なんか生臭くなりそうで嫌だな、と。さんざんゴブリン等のモンスターを斬っておいて今さらな気もするのだが。
「待ちなさい」
「ん?」
振り向けば、滝壺の上に大きな生物が浮いていた。蛇のように長い身体と無数の大きなヒレを持ち、頭部には角が生えている巨大な者が。
「龍? でも手足じゃなくてヒレみたいだな?」
「私はリヴァイアサン。水の管理者よ」
「そうか。オレはアキラ。ダンジョンマスターだ」
ぞわりぞわりと背筋がざわめくのを感じるアキラ。リヴァイアサンと名乗ったこの生物は明らかに自分よりも強い。それがハッキリとわかり激しい恐怖を感じ、と同時に狂おしいほどの喜びも感じる。
「やんのか? オレはいいぜ」
聖剣を取り戻してから、いくつかの邪神のダンジョンを攻略したがアキラは満足していなかった。
聖剣がない間は不安ばかりで救援無しにはボス戦を避けるほどだったのに、今は戦いたくて仕方がない。
「お前が私と? もっとレベルを上げてから言いなさい」
「んだとぉ!」
聖剣をアイテムボックスから取り出しアキラはリヴァイアサンに向かって跳ぶ。
ぎぃぃぃぃぃぃぃん。
金属と金属を強くぶつけたような強烈な音が鳴り響く。
アキラの斬撃はしかしリヴァイアサンにはかすり傷一つ負わせることもできなかった。
「そんな……」
「いくら聖剣といえども本来の力を発揮していなければ当然でしょう」
「オレはまだまだだったってことかよ。……殺せ」
全裸のまま大の字に寝そべるアキラ。好きにしろというつもりらしい。
その姿を見てリヴァイアサンは大きくため息。その風でアキラの濡れた身体が乾くほどのため息だ。
「女の子ならもっと恥じらいを持ちなさい」
「あん?」
「その可愛らしいフサフサの耳と尻尾に免じて命は取らないわ。どうせダンジョンマスターはコアを破壊しなければ死なないのだし」
アキラは最近、〈狼化〉のスキルを使って狼の耳と尻尾を出したままにしていることが多かった。強化された聴覚と嗅覚で自分のダンジョンの様子を探るのが楽しかったのだ。
「よく知ってんな。あんたもダンジョンマスターなのか?」
起き上がり、裸に直接マントを羽織るアキラ。体育着はこの存在に見せるのは恥ずかしかった。
「いえ、ダンジョンマスターなのは夫よ」
「あんた人妻かよ」
「夫に感謝しなさい。結婚前だったらこの山ごとダンジョンコアを破壊したかもしれないわ」
「冗談、じゃなさそうだな」
リヴァイアサンならそれすらも簡単にできるだろうとなんとなくわかり、アキラは今は戦うことすら許されない力の差を実感する。
「アキラに声をかけたのは、その鯉のことよ」
「こいつか? もう死んだんじゃねえのか?」
リヴァイアサンが現れてからピクリとも動かない巨大鯉を指差すアキラ。
「まったく。死んだフリで誤魔化せるとでも思っているのかしら?」
ビクン! と跳ね、器用にその尾で立ち上がる。
そしてなにか鳴き声を上げる巨大鯉。
「喋った? なに言ってるかわかんねえけど」
「この鯉はね、龍になる試験を受けようとしていたのよ」
「龍に? ……ああ、鯉が滝を登るってあれか。この滝を登るのか?」
アキラの言葉が通じているのか、魚体を曲げるようにして何度も頷く巨大鯉。
「試験官が産休で仕方なく、水妖の長でもある私がそれを見届けようとここに来たのだけれど、その前にアキラに捕まってしまったようね」
「んだ、そんな理由か。いいぜ、こいつは返す」
「いいのかしら?」
「ああ。あんたのおかげでオレの未熟さにも気がついたしな。聖剣もまだ強くなるんだろ、それがわかっただけでもジューブンだぜ」
今のアキラは鯉の血よりも聖剣の“本来の力”で頭が一杯だ。
すぐにでもダンジョンマスターの館で検索したかった。
「よかったわね。ほら、さっさと始めなさい。失敗したら……丸揚げにできるようなサイズの鍋あったかしら?」
リヴァイアサンに促され、巨大鯉は慌てて滝壺に飛び込んで滝登りのチャレンジを始める。
ゆっくりとながらも巨体をくねらせて滝を登っていくかに見えたが、中ほどで動きが完全に止まってしまった。
「サボるんじゃねえ! もっと尾ビレ動かせっ!」
「応援しているのかしら?」
「ああ。オレの攻撃のダメージのせいで試験に落ちたなんてなったら、寝覚めがワリィからな。おら、気合い入れろ! それでもタマついてんのか!」
罵声と紙一重のアキラの応援を受けながらわずかにまた巨大鯉が進み始めるが、すぐに進めなくなり、やがて滝壺へと落下してしまった。
激しい水しぶきが上がる。
「落第ね。忙しい私の時間を消費させてこの様とはいい度胸ね」
「ま、待て! もう一回やりゃ今度こそ登れるだろ?」
「今の様子では何度やっても登れないわね。鯉が龍になるには滝を登りきってそれを認めた試験官が力を授けなければいけない。私はその子を龍にするつもりはないわ」
「そんな……」
責任を感じてしまい、アキラの表情が曇った。
頭の上のオオカミミミもぺたーんと落ち込んだのを見て、リヴァイアサンも気の毒に思ったのか別の案をアキラに授ける。
「滝登りの試験以外で龍に成るとすれば……そうね。その子をアキラの眷属になさい。鍛えていけばいずれドラゴンに進化するかもしれないわね」
「本当か!?」
「確実に成れるとは言えないわ。レベルアップさせるのも大変でしょう」
「それでも可能性はあんだろ。いいぜ、やってやらぁ! こい!」
水面に顔だけ出して様子を伺っていた巨大鯉は、アキラとリヴァイアサンを交互に見やってから、ゆっくりとアキラの方へと泳いできた。
頷いて、眷属契約の儀式を行うアキラ。
儀式を見届けた後、リヴァイアサンはアキラに礼を言う。
「ありがとう。不甲斐ない子が世話になるわね」
「ふん。見てろよ、すっげえドラゴンにしてやんからな!」
「面白い子ね。縁があればまた会いましょう」
リヴァイアサンの輪郭が急にぼやけたと思うと、急にその姿は水となってバシャっと滝壺に落ちていった。
「なんだ? 本体じゃなかったのか? あれで?」
リヴァイアサンが写しだったと知って驚くアキラ。
それに答えるように眷属となった巨大鯉が水面に顔を上げて頷く。
「ってことは本物はもっともっと強いってことだよな。くうぅ、面白くなってきやがったぜ!」
水しぶきで濡れた顔をマントで拭いながらアキラは笑うのだ。




