友達以上
椎奈が圭太を知ったのは高校一年生の時だった。そのときはただのクラスメイトとして。二人は偶然同じ保健委員になり、言葉を交わすうちに共通点に気づいていき、高校二年生になる頃には、自他共に認める親友になっていた。
そして高校三年生の秋。どうやら親友と思っていたのは椎奈だけであったと気づかされる出来事が起きる。
それはある日の放課後だった。二人が教室で、前後の机を向かい合わせにくっつけて静かに勉強をしていた頃だった。
突然椎奈は伸びをすると、バンッと勢いよく机を叩いて立ち上がった。向かいにいた圭太は椎奈の行動に少し驚いてから、はあ、とため息を吐いて彼女を見上げる。
「突然立ち上がってなに」
「休憩しよ!」
そう言うと椎奈は机の横にかけてあったバックを持ち上げて自分の膝の上に置き、ごそごそと漁り始める。椎奈がいきなりなにかをし始めるのはいつものことなので、圭太はぼーっとそれを見ていた。やがて椎奈は目的の物を見つけて、顔を輝かせた。
「あった!」
「なにが」
「これ!」
椎奈は先ほど立ち上がったのと同じくらいの勢いで机の上にノートと同じくらいの大きさの紙を置いた。なんだろう、と圭太はその紙をのぞき込む。
それは、今話題の恋愛映画のチラシだった。それも、圭太の記憶に間違えがなければその映画は、椎奈の大好きな小説を原作としたもののはずだ。
圭太の切れ長の目が丸く見開かれ、頬を薄く赤みが差した。それは普通の人が見たら、片思いをしている相手になんらかの期待をしたときの表情だとわかるものだった。もちろん、圭太は自分がそんな表情をしてしまったっことに気づき、すぐにぶっきらぼうな表情になったのだが。
「それがどうしたの」
「一緒にいこう!」
「それは、俺と内海の二人でってこと?」
「もちろん!」
そう言ってにっこりと笑う椎奈。きらきらとした純粋無垢なその笑顔に圭太は一瞬喜んで頷きかけたが、ふっと何かがひっかかり、ぶっきらぼうな表情のまま口を開いた。
「あのさ」
「ん?」
椎奈は丸っこい瞳でじっと圭太を見ながら、小さく首を傾げた。そこに少しの恥じらいがないのを見、圭太は自分の引っかかりが本物であると感じ始めた。
「それは、どういう意味合いで?」
きょとん。
本当にそんな単語が音として聞こえてきそうな表情を、椎奈はしていた。
「どうって……。友達と、気になってる映画を一緒に観に行くのに、意味って必要?」
その瞬間、圭太は文字通りその場にうなだれた。椎奈はびっくりして、え、え、と慌てだす。
つまりは、そういうことなのだ。
山内圭太は、恋をしている。高校一年生の頃、一緒に保健委員をやった内海椎奈に。
内海椎奈は、鈍感である。それこそ、彼女を知る誰もが、彼女のことを鈍感が服を着て動いているようなものだ、と口をそろえて言うくらいには。
その証拠に、高校一年生から三年生の今まで、ずっとそばにいて、素直にモノを言えないなりに頑張ってそれとなくアピールし続けている圭太の気持ちに、椎奈は全くと言っていいほど気づいておらず、ずっと友達だと信じ切っているのだ。最初は圭太をからかっていた周囲も、圭太のアピールがあまりにも無残なことになっているため、今ではからかうことなく時には温かく見守り、時には手助けし、時には相談相手になる、といった具合である。
「えっと……。私何かまずいこと言った……?」
椎奈は椎奈で、自分が鈍感だということは申し訳程度には自覚しているようで、そのせいで度々他人を傷つけてしまうことがあり、それが彼女のコンプレックスでもあった。そのため、今回も自分の発言のせいで圭太を傷つけてしまったのではないか、と不安に思っての問いだった。
「いや、ある意味予想通りだけどさ」
「それはどういう――」
「あのさ」
圭太は椎奈の言葉を遮るように声を出すと、口を閉じてじっと彼女を見た。椎奈はその視線に何故かドキリとしたが、気づかないふりをして圭太を見る。
「俺、二人きりで映画観に行くなら、お互いに好きな奴としかいかないから」
「圭太は私のこと嫌いってこと?」
「さあ? 自分で考えてみなよ」
言いながら、圭太は机の上に広げていたモノを鞄の中に放り込んでいく。そしてチャックを閉めて立ちあがって椎奈のほうを向いたとき、明らかに傷ついた表情をしている彼女と目が合った。傷つけるつもりなんて毛頭なかった圭太は、その表情に一瞬固まってしまう。同時に自分に嫌われると椎奈は傷つくのだ、と言うことがわかり、少し安心してしまう自分に圭太は気づいて、心の中でそんな自分を笑った。そして椎奈の眉間にできたしわにデコピンをする。
「イタッ」
椎奈は突然のデコピンに驚きながらも涙目で圭太を見上げた。その表情に圭太が少しだけ笑うと、椎奈の顔から変な強張りが減った気がした。
「まあ、嫌いな奴にはこんなことしないけど。それじゃまた明日」
圭太の言葉に、安心したのか椎奈はへにゃりと笑う。圭太はその笑顔に顔が赤くなるのを感じて即座に顔をそらした。
「帰るの?」
「うん」
「一緒に――」
「ごめん、今日は嫌だ」
さっき椎奈にあんな表情をさせてしまったばかりだ。鈍感すぎる椎奈も悪いのだが、だからと言ってそんな彼女を傷つけてしまった自分に完全に非がないかと言われるとそんなはずはないと圭太はわかっていた。だからこそ生まれる罪悪感。そしてわかってほしいという欲求から、ついついそう言って圭太は突き放してしまったのだ。
そして圭太は、眉毛を八の字にしてしまった椎奈をおいて教室を出たのだった。
「おはよ……ってうわ、あんたどうしたの」
翌日、机に突っ伏していた椎奈の上から降ってきたのは、友人である高垣彩矢の驚いた声だった。それもそのはず。いつも明るく、賑やかな椎奈が机に突っ伏していることが珍しいのはもちろんのこと、彩矢の挨拶に反応してあげた顔は暗く、目はウサギのように真っ赤になっていたからだ。
「彩矢ちゃーん……どうしよう」
今も泣いていたようで、鼻をすすりながら、椎奈はきゅっと彩矢の制服の袖を掴んで彼女を見上げた。彩矢は仕方ないな、とため息を一つ吐くと、戸惑いながらも優しく椎奈の細い指を袖からはがして、椎奈の前にある自分の机の椅子をひき、背もたれに腕と顎を乗せる形で座った。
「どうしたの」
「私、圭太に嫌われてたのかも」
は? と声が漏れそうだったのを彩矢はすんでのところで飲み込んだ。
彩矢の知る圭太は、三年間延々と片想いをしつつも相手である椎奈があまりにも鈍感すぎて報われない男子だった。自分だったら絶対に三年間も思い続けるだなんてうんざりだ、と彩矢はそんな圭太と椎奈を見てそう思っていた。
「……ごめん、ちょっと意味わかんない。なにしたの」
だからこそ三年間も思い続けてる女子をいきなり嫌いになってしまうなんて、何か大事件が起きたのか。それとも椎奈の勘違いなのか。彩矢は不安になりながらそう訊いたのだ。真っ赤な目に涙を溜めながら、椎奈は小さく口を開いた。
「私、気になる映画があるって言ってたよね」
「好きな恋愛小説の、実写映画だっけ? 先週から公開されてるやつだよね」
数日前、抽選で二枚当たったのだと嬉しそうに報告に来た椎奈を思い出して、彩矢はそう言った。
「うん。でね、その映画を二人で一緒に観に行かないかって、圭太を誘ったの」
「へえ」
その言葉を聞いて、彩矢は内心首を傾げていた。そこまでを聞いたところだと、圭太が大喜びしつつも照れ隠しでぶっきらぼうな表情をするところは想像できるとしても、椎奈を嫌う、なんてことは少しも想像できなかった。しかもこんなにも椎奈が泣いてしまうほど、なんて。
「で、圭太はなんて?」
「映画に誘うのはどう意味だって、訊かれて」
椎奈の言葉を訊いて、彩矢の中で昨日二人になにがあったのか、完全に想像がついた。どうやらこれは、椎奈の勘違いの方向で合っていたようだ。彩矢はそれに安心すると同時に、圭太のことを思って頭を抱えてしまった。
「それで、なんて答えたの」
「友達を映画に誘うのに、意味なんて必要なのって」
「バカ」
彩矢は考えるよりも先に、言葉を吐いていた。おそらく、映画に誘われた意味を問うたとき、圭太は少しの特別を期待していたのだろう。なぜなら今までそう言った誘いには必ず彩矢も含まれていたため、二人きりでどこかへ一緒にいく、という誘いは彩矢が知る限りでは初めてのはずだからだ。なのにその返事が、これだ。
「バカじゃないもん」
「あんたは本当、勉強はできるのに人の気持ちに関してはバカで鈍感よね」
「彩矢ちゃん、ひどい」
「うっさい。で、圭太はなんて?」
椎奈の、彩矢ちゃんひどいは、いつものことなので彩矢はさらりと流すとそう問うた。
「俺は二人で映画観に行くならお互いに好きな奴としか行かないからって」
「で、あんたはその言葉を、自分は圭太に嫌われてるから一緒に行ってくれないんだって解釈したわけね」
「だって、ふつうに考えてそうでしょ? 圭太に確認したら、自分で考えろって言われたし。昨日からずっと一睡もせずに考えてるけど、やっぱりそうとしか思えないし……」
徐々に徐々に椎奈の声は小さくなっていき、終いには再び机に突っ伏してしまった。彩矢はため息を吐きながら、椎奈の肩を揺さぶる。
「しい――」
「私があんまりにも馴れ馴れしいから、今まで嫌いだって言えなかったのかな」
「……」
が、自分の言葉を遮って放たれた言葉に彩矢の手は止まった。突っ伏した腕の隙間からは、すすり泣く声が聞こえてくる。椎奈は普段、なにか問題を起こしても、たいてい次の日になればケロッとしている。それが彼女の悪いところであり、いいところであった。だからここまでメソメソしているのも、また珍しい。彩矢は優しく椎奈の頭を撫でながら、どうしたものかと考えていた。
「あんたにとって、圭太はなに?」
「なにって……友達だよ。ううん、それ以上。親友? みたいな。……一緒にいると落ち着くし、そばにずっといたいし、いてほしい人」
ぽつり、ぽつり、と言葉を呟いていく椎奈。
「じゃあ、私は?」
「彩矢ちゃん? 彩矢ちゃんは、優しくてときどき厳しい、お姉ちゃんみたいな人」
その言葉を聞きながら、彩矢は少しほほえんだ。
「あんたの中で圭太と私、少し違うのはわかる?」
「え?」
椎奈は顔を上げて首を傾げた後、ふるふると横に振った。予想通りの反応に、また少し彩矢は微笑んだ。
「じゃあ、圭太のこと誰かにとられたくない、とか思ったりする?」
「思う、けど……。でもそれは、彩矢ちゃんもだよ?」
「そりゃ、どうも」
そういうことじゃないんだけどね、とやや呆れてため息混じりに彩矢が言うと、やはり訳が分からないようで、椎奈の首は本日何度目か、傾げられた。
「……んじゃさ。圭太に抱きしめられたりとか、キスされたりとかされたら……どう思う?」
あえて彩矢がにやにや笑いながらささやくようにそう言うと、椎奈の顔は一瞬で真っ赤になった。それこそ、リンゴのように。
「そそそそんな! 圭太は友達だよ!? そんなことされるはずない! 断じてない! ……というか、それ以前に嫌われてるのにあり得ないって――」
言いながらまた椎奈の声はしぼんでいき、最後にはまた泣き顔に戻ってしまった。
「忙しい奴ね、あんた」
この鈍感ウブ、と彩矢が言うと、うるさい、と椎奈はふくれっ面になった。
「でも、ね」
「ん?」
彩矢が促すと、あー、とか、うー、とか呻いたあげく、椎奈は両手で顔を隠してしまった。
「ちょっと、言い掛けたんなら言いなさいよ。気になるでしょ」
彩矢の言葉の後も少し呻いてから、椎奈は少しだけ両手の間に隙間を空けて口だけ出した。そこからこぼれたのは、よく耳を澄ませないと聞こえないような、か細い声だった。
「圭太のこと、友達だと思ってるのに、なんでかわからないけど、そんなことされてもたぶん、嫌、じゃ……ない、と思う、の」
彩矢は一瞬目を丸くし、そしてすぐににやにやと笑い出した。それこそ、どこぞの童話の猫に負けないくらい。よほど照れくさかったのか、椎奈はそれを見て膨らませていた真っ赤な頬から息を吐き、ぶー、と唇を尖らせた。それを見て、彩矢はけらけらと笑い、すぐ真横にある廊下側の窓を見て、あ、と声を漏らした。そして立ち上がり、窓から顔を出す。どうしたのだろうという椎奈の疑問は、すぐに解決することになる。
「圭太ー!」
「え、ちょ、え?」
友人の突然の行動に、慌てふためく椎奈。昨日の今日だ。ただでさえ気まずいのに、彩矢からの言葉で、もうどんな顔をして会えばいいのか、今の椎奈にはわからなかった。
「ちょっと、彩矢ちゃ――」
「んだよ、高垣」
「ふぎゃあ!」
突然横から圭太の声が聞こえて、椎奈は思わず叫び、その場から飛び退いていた。そんな椎奈を、圭太はとても不機嫌そうに見た。
「んだよ、人をバケモンみたいに」
「だって! 教室に入ってくるとは思わなかったから!」
「ああ? いつものことだろ」
圭太に言われて、そうだった、と椎奈は思い出した。大体この三人でいるとそこそこ長い時間雑談することになるので、二人とは違うクラスの圭太は教室に入ってくるのだ。
「声もかけずに教室の前素通りするなんて、珍しいじゃない」
「別にたまたま。それより内海」
圭太の視線が彩矢から椎奈へと変わる。椎奈は気まずさと恥ずかしさで、思わず圭太から顔をそらした。圭太の眉間にしわが寄る。
「なに?」
「映画。結局誰と行くわけ?」
「まだ、圭太以外誰も誘ってないけど……」
椎奈の言葉に、不機嫌そうな圭太の表情が少し緩んだのがわかって、彩矢は二人に見えないように小さく笑った。
「"お友達"としてなら、一緒に行ってやってもいいけど」
せっかく二人で行こうと誘ってくれているのだから、椎奈がどういうつもりであれ、あの誘いに素直に乗ればよかったのだと、圭太は後悔していた。
なんせ相手はあの椎奈なのだ。自分以外の人を誘うかもしれない。それが女友達の彩矢ならいいが、他の男友達だったら?
だけどあんな言い方をしておいて、やっぱり一緒に行こう、なんて言えるはずがなかった。だから咄嗟に、"お友達"として、と付けてしまったのだ。
それが咄嗟の照れ隠しだとわかる彩矢は、吹き出しそうになるのをこらえた。だが、言われた当の本人は、そうは受け取らなかった。
「"お友達"としてってなにそれ……」
ぽつりと呟いた椎奈の声は低く、微かにふるえている。俯いていて、その表情は見えない。
「そんなに私と"お友達"でいたくないなら、やめればいいでしょ……!」
静かに、けれどどこか苛立った口調で放たれた言葉。
確かに圭太は、お友達、という関係をやめたいと思ったことは幾度となくあった。だがそれと、今椎奈が放った言葉とでは意味が全く違うと、頭ではわかっていた。
わかってはいたのだが、今までこんな風に苛立った口調で、否定的なことを椎奈から言われたことがなかった圭太は、驚きのあまり頭が真っ白になった。
そして、頭が回転し始めると冷静になるよりも先に、苛立ちをぶつけられたことに対する反射で圭太の口は動いてしまった。
「じゃあ、やめるか」
言ってしまってから、圭太は自分がなにを言ったのか気づいたが、後悔してももう遅い。勢いよく顔を上げた椎奈は、昨日よりも更に傷ついた表情をしており、瞳には今にも溢れ出しそうなくらいの涙が溜まっていた。横から、彩矢の射るような視線も感じる。
「――圭太なんか、大っ嫌い!」
椎奈はそう言い放つと、教室から走り去ってしまった。
「……あんたバカ?」
「俺も今そう思った」
呆れたようにため息混じりに言う彩矢に、圭太もため息を吐きながら答え、俯いた。周りからの好奇の視線が、圭太を貫いていた。
「ほんと、照れ隠ししすぎて遠回しなんだよ、あんた。しかもたまに勢いと反射で考えなしに言うからほんとバカ」
遠慮なく言う彩矢。言い返したいが、本当のことなのでなにも言えず、圭太は開きかけた口を閉じた。
「……どうすんの?」
彩矢に問われるが、圭太自身もどうしたらいいのかわからず、答えられない。代わりに圭太は肩をすくめた。黙ってしまった圭太に、彩矢はまたため息を吐く。
「お互いに好きじゃないと二人きりで映画観に行かないっていうのは、単純に恋人同士じゃないと異性と二人きりで行きたくないってことでしょ」
圭太が顔を上げて彩矢を見た。
「内海から聞いたんだ?」
「まあね。で、こんな意味合いで友達やめたいわけじゃないんでしょ、あんたは」
「……当たり前だ」
「なら、はい、追っかける!」
言いながら、彩矢は圭太の肩を軽くはたいた。
「で、正面切って堂々と自分の気持ち言ってきなよ」
「でも――」
「大丈夫。絶対に振られないから」
そう言って、彩矢はカラカラと笑った。そして、ほら早く、と背中を強く押され、圭太は駆けだした。
思わず言い放ってしまった言葉。それに対する圭太の表情を見たくなくて、椎奈は気がついたら駆けだしていた。自分は何をしているのだろう。渡り廊下を歩きながら椎奈は、教室を出てから何度目かになるため息を吐いた。もうじきSHRが始まる時間だからか、慌てたように走っていく数人の生徒とすれ違う以外は、静かだった。
彩矢の言葉によって、椎奈は自分の気持ちに気づいてしまった。なんでかわからない、なんて彩矢には言ってしまったが、いくら鈍感と呼ばれいていてもこのくらいはわかる。
きっと人は、この感情を恋と呼ぶ。
二枚しか持っていない映画のチケット。なんで自分は彩矢ではなく圭太を映画に誘おうとしたのか。昨日から椎奈の頭の中を回っていた疑問の答えは、つまりそう言うことだったのだ。好きだから、圭太に恋をしているから、自分は少しでも二人でいたいと思ったのだと、あの映画を二人で一緒に観たいと思ったのだ、と気づいたのだ。
「教室、戻ろ」
このままでは、SHRに遅刻してしまう。
おとなしく教室へ戻ろうと回れ右をし、向こうから駆けてくる人物を見つけた瞬間、椎奈は驚きのあまりその場に立ち止まってしまった。そのまま、ばっちり二人の視線は合ってしまい、椎奈は動くことができず、その人物――圭太はそんな彼女へと駆け寄ってきた。
「ちょっと来て」
圭太は息を切らしながらそう言うと椎奈の手首を掴んで近くの空き教室に入った。
「圭太、SHR遅刻するよ?」
「それまでにすませる」
「何を――」
「あのさ」
遮るようにして、圭太が言葉を発した。椎奈は静かに口を閉じ、圭太の顔を見る。さっきあんなことになってしまったのに、まっすぐな瞳から目が離せなくなる。
「俺は内海のこと、恋愛対象として好きだから」
圭太の言葉に、椎奈は一瞬何を言われたかわからずきょとんとしてから、言葉の意味を理解して顔を赤らめて俯いてしまった。二人の間に、どことなく甘い空気が流れ始める。そして椎奈が返事をするために口を開こうとして――同時にSHR開始を知らせるチャイムが鳴った。
「まずい……!」
「え? あ!」
さっき捕まれた手首を再び引っ張られ、椎奈はまた圭太に引きずられるようにして駆けだした。手首が仄かに温かい。その温かさが嬉しくて、椎奈は柔らかく微笑んだ。
「私も、圭太と同じだよ!」
椎奈の手首を掴んでいる圭太の手が、ぴくりと反応した。
「……聞こえなかったから、またあとで聞く」
頑張って大声出したのに、と頬を膨らましかけた椎奈だが、後ろから見える圭太の耳が赤いことに気づいて、思わずくすりと笑ってしまった。