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「み゛ゃっ!」「み゛ゃぁっ!」「う゛み゛ゃぁぁっ!」「み゛ゃぁぁぁぁう゛ぁっ!」
何に対してのものかも判らぬ怒りに吠えながら、巨大な獣が次々に飛びかかってくる。
その目に宿る赤い輝きが残像のように尾を引き、本体の後ろにも彗星のように太い尾が流れる。
月の魔力に狂った野獣〈魔狂狸〉たちが狙う先に居るのは、身の丈ほどもある巨大包丁を盾のように構えた〈武士〉のはこべだ。
「そう言えば、タヌキの鳴き声なんて想像したことも無かったネ」
はこべに群がる獣の数は四体。その叫び声を聞きながら、五行は戦場に似つかわしくない事を考える。
五行のメイン職である〈召喚術師〉は魔法攻撃職の通例として体力も防御力も低い。
そのため彼女はパーティの後方に位置して戦場全体を俯瞰していた。
「拙いネッ!」
それは敵の後方に構える幻術師も同じなのだろう、腹の部分が黒く塗られたローブを翻し、はこべに向かって何やら呪文の詠唱めいた行動をしている。
差し向けた彼女の従者〈羅刹王ビビサナ〉は〈黒狸族の矛槍戦士〉に足止めされる。
仕方なく、次の手を探して目の前に開いた操作パネルをスクロールさせるが、焦りから気ばかりが逸る。
「いたっ!」「いたたたっ!」「あいたたたっ!」「いたいっていってるっちゃ~!」
そうこうしているうちに巨大なタヌキの爪牙にかかったはこべの悲鳴があがる。
薄絹しか纏っていない彼女の白い肌に幾本もの赤い筋が走ったかと思うと、橙色の暖かな輝きに包まれて治っていく。
仏のザがあらかじめ掛けておいた〈施療神官〉の特技〈反応起動回復呪文〉の効果だ。
即座に癒されたとはいえ残る痛みのためか、はこべの目尻には涙の粒が浮かんでいる。
それでもきっちり一撃ずつ反撃の刃を叩き込んでいるのだから、流石と言う他はない。
「斬られた痛みを感じて即座に治されるというのは、まるで拷問のようネ……」
想像するだに余りあるはこべの様子を視界に納めながらも、目指すアイコンを探し宛てた。
しかし時既に遅く、敵の幻術師〈黒狸族の岩隠れ術師〉が呪文を完成させる方が早かった。
虚空から巨大な岩が出現したかと思うと、はこべを目掛けて猛烈な勢いで転がっていく。
はこべもその様子に気付いたようだが四体もの〈魔狂狸〉に囲まれた彼女にはとても避ける余裕は無い。
思わずといった感じに、手に持った包丁を巨岩に叩きつけた。
「〈斬鉄剣〉っちゃ!」
シャキーン!
はこべが振るった包丁の軌跡に沿って巨岩の上を線が走り、ずれるように左右に割れてゆく。
そしてポンッと弾けるような音を立てて白い煙が吹き上がる。
「わーい、ひっかかったぁ! ひっかかったマミー♪」
「おのれクロマミ族ッ!」
悪戯を成功させた〈黒狸族〉の幻術師が小躍りする姿に、うどん粉に塗れた白面を朱く染めるはこべの姿があった。
彼女たちが世界的老舗MMORPG〈エルダー・テイル〉の世界で目覚めてから、瞬く間に十日が過ぎていた。
まず、倉庫から溢れた贈り物箱の仕分けと整理、そして売却して居間を開放するのに三日が経過。
その間に銘々が数少ない知己に念話で連絡を取って情報の収集に当たっていたのだが、やはり成果は芳しくなかった。
なにしろ、〈ミナミの街〉にも〈ナカスの街〉にも、現状を把握しているような〈冒険者〉は殆どいないのだ。
特に酷かったのはスズで、一度は勇気を奮い起こして、面識のない鈴代の知人から情報を引き出そうと念話に挑戦してみたのだが、顔を真っ赤にして諦めていた。
五行が訪ねてみると、その相手の最初の一声が「スズシロちゃん、今どんなパンツ穿いてる?」だったため、即座に念話を断ち切ったのだそうな。
まぁ、スズシロの知り合いであるならば、そんな所だろう。
そんな中でもなんとか、幾つかの重要な情報を入手することができた。
〈ミナミの街〉などのプレイヤータウン周辺ではPKが多発しており、戦闘に不慣れな初心者や人数の少ないソロプレイヤーなどが襲撃されているという話。
また、それとは矛盾するようだが、現実化したこの世界での戦闘はゲームだった頃とは勝手が違うという話。
そして、死んだ〈冒険者〉が〈大神殿〉で復活したという話。
彼女たちは相談の末、しばらく〈キョウの都〉に腰を落ち着けることにしたのだ。
多くの〈冒険者〉が居るプレイヤータウンの方が様々な点で便利ではあるものの、道中で遭遇するかもしれない敵性存在のことや、到着したとしても街中でのトラブルに巻き込まれることを考慮してのことだった。
彼女たちが女性四人だけの所帯であること、そしてプレイヤータウンである〈ミナミの街〉周辺と比べて〈キョウの都〉周辺のモンスターのレベルが初心者向けとは言い難いことが理由にあってのことだ。
この一週間、〈七草衆〉の四人が通って来ているのは、〈キョウの都〉の北東にあるフィールドダンジョン〈タヌキ谷の修練場〉だ。
〈神代〉の寺院跡と滝壷を有するこのフィールドは、中堅レベルの〈冒険者〉向けに用意されたゾーンで、理由は不明だが名前の通りタヌキ系のモンスターばかりが出現する。
主に出没するのは、月の魔力に狂ったと言われる大型の肉食獣〈魔狂狸〉と、タヌキに似た可愛らしい姿の中に凶悪さを秘めた亜人間種族〈黒狸族〉。
〈ミナミの街〉へ行くにせよ、このまま〈キョウの都〉を拠点にするにせよ、戦闘技術を磨いておくに越した事は無いと考え、彼女たちはこの修練場での戦闘訓練に明け暮れた。
敵のレベルは三〇~五〇ほどなので、揃って九〇レベルの〈七草衆〉にとっては四人でも充分に対処できる。
最初は皆、そう考えていた。
最初に音を上げたのは独りで前線を支えていたはこべだった。
確かに、現実の世界で同じ傷を負ったのなら、この程度の痛みでは済まないのだろう。
〈冒険者〉の身体が持つ特性なのか、感じる痛みが少ないということはありがたくもあるが。
それでも痛いものは痛いのだ。
また敵と近接距離で戦うことで、その殺気に晒されるというのは強いストレスになる。
敵を斬れば、その手応えは手に残るし、返り血だって浴びることになる。
まして、はこべは普通に暮らしていれば戦闘などとは無縁な、ごく普通の女子高生なのである。
そして仏のザは、実際に減るHPと目の前で痛がる年少の友人を秤にかけ、無駄に回復呪文を投射していた。
必要ないと理性では判っていても、目の前で痛みを訴える友人を放っておくというのは人情的に難しい話である。
しかし、そうした無駄な回復を行っていたため、はこべが重傷を負った時に再使用規制時間やMP残量の関係で充分なヒールワークができず、敗走することもあった。
彼女の善性が、逆に首を絞めていたのだ。
一方で、スズが直面したのは視界の問題だった。
本来、多くのMMORPGは頭上やや後方からの視点で遊ぶものが多く、自キャラの後ろ姿を下半分に収めた画面の上半分に遠距離の敵が見え易い仕組みになっている。
また、ターゲットした敵にはポイントマーカーが付いたり、肩越し視点に切り変えることができる作品もある。
そして誤射で味方にダメージを与えるようなものは非常に少ない。
しかし、戦闘が現実のものとなり自分の身体を使って戦う場合、目の前に味方がいる状態で、その向こう側にいる敵に狙いをつけることが難しいのだ。
特に、身長の低いスズにとっては尚更のことだ。
当然、味方に当たればダメージも痛みも与えることになる。
そのような中で折れそうだった彼女たちの心を繋いでくれたのは、敵である〈黒狸族〉だった。
〈黒狸族〉は悪の亜人間種族の一種で、体長一メートルほどのタヌキを擬人化してデフォルメしたような姿をしている。
特徴は、その真っ黒な腹で、可愛らしい外見とは裏腹に、文字通りに腹黒い。
卑怯で、悪辣で、悪戯者なのだ。
鞄を引っ繰り返して中身をぶちまける、おやつの林檎を馬糞海栗(何故?)にスり替える、尻に頬ずりする、背後に回って乳を揉みながら「オレごと撃てー!」と叫ぶ。
そして、悪戯が成功すると子供のように大はしゃぎする〈黒狸族〉の姿に、彼女たちは闘志を新たにするのだ。
「おのれクロマミ族ッ!」
それから一週間を経た今日もまた、悪戯に引っ掛かった五行たちは〈黒狸族〉への怒りに心を一つにし、反撃にうつるのだった。
「以火行為炎風、〈戦技召還:ジンウーヤ〉!」
複雑な印を切った五行の頭上に魔法陣が浮かび、そこから日輪を背負った三本足の烏〈金烏鴉〉が出現すると、一息に敵陣後方まで飛んで行き、炎の竜巻を起こして〈黒狸族の岩隠れ術師〉を吹き飛ばす。
「まだまだ行くネ! 以金行為剣雨、〈戦技召還:シュリケンキッド〉!」
霊鳥が姿を消すと、続いて現れたのは金色の忍者装束に身を包んだ少年〈飛剣孩子〉だ。少年はその場で宙に舞い上がり、大量の手裏剣を投擲する。
未だに〈黒狸族の矛槍戦士〉と切り結んでいた〈羅刹王ビビサナ〉の目が輝いてすべての手裏剣が炎に包まれると、はこべの周りに群がる〈魔狂狸〉たちへと降り注ぐ。
飛来する火剣の雨から逃げようとする〈魔狂狸〉だが、その目の前に〈黒狸族の岩隠れ術師〉が落ちて来たため、諸共に巻き込まれてしまう。
辺りに肉の焼ける匂いが広がっていく。
〈黒狸族の岩隠れ術師〉が我に返った時には既に、満面笑顔のはこべが頭上高く愛用の巨大包丁本醸造・鬼殺しを振りかぶっていた。
「マ、マミィィィィィ!」
「大将首獲ったっちゃねっ♪」
〈タヌキ谷の修練場〉にあがる断末魔。それに被せるようにはこべの〈勝ち名乗り〉が響き渡る。
他のタヌキたちが怯んだ隙を縫って駆け出したのは仏のザだ。
はこべの傷を反応機動回復呪文任せにして彼女が向かったのは、先刻から〈羅刹王ビビサナ〉を食い止めていた〈黒狸族の矛槍戦士〉だ。
辿り着いた彼女は、そのまま白木の杖を振り回して亜人の戦士に連撃を加えて行く。
敵の戦士を減らす事は戦士職が受ける攻撃を減らすことに繋がると、この一週間で学んだのだ。
挟み撃ちにするかのように〈羅刹王ビビサナ〉も激しく戟を振るう。
仏のザも浅くはない傷を負うが、徐々に敵を追い詰めることに成功したようだった。
「こ、これは拙いマミ~。こうなればひっさぁつ……」
窮地に陥った〈黒狸族の矛槍戦士〉は、大技を繰り出すべく軽妙なステップで距離を取る。
だが、それこそが彼を引っ掛けるための罠だった。
「〈アサシネイト〉っ!」
〈暗殺者〉の特技〈ハイディングエントリー〉で戦闘の最初から寺院跡に潜み、弩を構えていたスズがそのタイミングを狙っていたのだ。