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「うーみー!!」
傾斜の急な登り坂を駆けて隧道を抜ける。緩やかに弧を描く道を一つ曲がった所で山の稜線が途切れ、雲ひとつ無い青空が視界に飛び込んでくる。
隧道内の暗さに馴染んでいた目がその眩しさに慣れるまでゆったりとした歩調で進んでいると、峠を越えた瞬間に鼻孔をくすぐる潮の香りと鮮やかなターコイズブルーがその存在を突きつけてきた。
現実世界の同じ場所であればそれは、宮津湾と阿蘇海となるであろう大きな湾を、二分するように横たわる長大な砂州。
その名を天橋立と言い、日本三景の一つとしても知られる天然の名所だ。
青い海を半紙に見立てて一筆振るったような白い砂上に緑色の松並木が映え、見事なコントラストを描いている。
このセルデシアでは〈ヘヴンブリッジ〉と呼ばれるその絶景を、スズたち四人は峠から見下ろしていた。
特に顕著なのははこべで、狼牙族の特徴である幻尾と幻耳をフルオープンにして喜びを表していた。
「ふふ。海水で鼻ん奥まで洗うてしまいたい気持ちやもんねぇ」
「嗚呼、隧道に充満する彼の臭いはキツかったネ」
「仕方なか。はこべちゃんは狼さんやから、特にやね」
隘路狭路を選んでの戦闘を続けた結果、彼女たちに最もダメージを与えたのは、やはりと言うべきか、敵たる不死の魔物の臭いだった。
その中でも特に厳しかったのが〈動く死体〉のものであったと言うのは至極当然の話だろう。
ボタボタと腐肉を滴らせながら歩み寄ってくるゾンビの姿は生物災害を主題とした某作品を例に出すまでもなく恐怖と嫌悪をもたらすものだが、その姿以上に周囲に撒き散らす腐臭は多くの〈冒険者〉を苦しめるものだ。
戦闘が現実のものになってからというもの、臭いに耐えかねて戦闘を行えなくなり生産職に転向した〈冒険者〉の原因ランキングで、鼬種の最後屁、肉食獣の口臭を押し退けて堂々の一位をキープし続けていることからもそれは明らかだ。
それを、休憩を挟みながらとはいえ狭い空間で何時間も耐え続けて来たのだ。
一行の中で唯一の獣人種族であるはこべなどは、全身のみならず鼻腔の奥にまで腐肉の臭いが染み付いて取れないような気にすらなっていたところだ。尻尾が千切れそうなくらいに振り回してしまうのも仕方の無い所ではあるだろう。
実際には〈冒険者〉の身体や装備に備わった復元力によって、染み付いた臭いは徐々に消えていっているのだがそれはそれ。
峠から見渡せる絶景と香りに心が浮かぶのははこべ一人では無く、四人全員に共通する気持ちだったのだから。
「けど、こっちにまでアンデッドが溢れとらんで、良かったっちゃ」
充分に潮の香りを満喫しはしゃぎまわって気が晴れたはこべが振り返って放つ言葉を受け、眼前に見える海から視線を更に降ろせば、かつては市街地だったのだろう緑に侵食され尽くした廃墟の街並みが広がっている。
何者かに召喚・支配されている場合と違い、〈魔出づる廃港〉から溢れ出たような野良アンデッドには物陰に潜んで獲物を待ち受けるというような戦術性が無いため、多くのアンデッドがフィールド境界を越しているのであれば、その姿が見える筈。
「見える範囲には居ぃひんし、とりあえずは一安心ですぇ」
「街道や荒野っち違って、市街地だから見えん所に居んしゃあかもしれんばってん」
「阿、此処は此処で独立したフィールドダンジョンみたいなものだからネ。安堵するのは良いケド、油断は禁物ヨ」
四人は気を引き締めて峠を降りていったのだった。
「案ずるより産むが易しとは此の事ネ」
掌をくるりと返すように、〈魔法の鞄〉から保存食を取り出しながら五行が軽口を叩く。
峠を越えて以降、スズ達の進行を阻むものは無かった。
市街地跡に入ってからもしばらく探索したものの、モンスターの気配が無かったため、丁度良い廃ビルを見つけた四人はこれ幸いと休息を取ることにした。
その三階建のビルはおそらく消防署かそれに類する物だったのだろう。頑丈な鉄筋コンクリートで一階部分はほぼ丸ごと駐車スペースと倉庫になっていた。
ここまでの道中で散々〈魔導車両〉に悩まされてきたため、警戒しながら市街地跡にやってきたスズたちだったが、このエリアの路上に残っていた自動車がすっかり朽ち果ててしまっていた事で、ひとまず胸をなでおろしたのだ。
アンデッドの蔓延る道中では満足に休息も取れなかったため、シュートで直接一階に降りられる二階の一室を占拠した途端、一行が弛緩してしまったのも仕方のないことだろう。
「はこべちゃんも何かお腹に入れときよし」
「むーりー。食欲無いっちゃー」
市街地後に入ってからも〈察気〉〈心眼〉〈ウルフズアルファクション〉と不意打ちに備えて感覚を研ぎ澄ませ続けていたはこべの心的疲労は大きく、適度な大きさの瓦礫を見つけて座り込んでしまっていた。
そのはこべと交替するように窓際を押さえたスズは右手に弩弓を左手にサンドウィッチを構えて眼下の道路を注視している。〈狩人〉のサブ職業から得られた視力は、こんな環境でも有効に働いてくれる。
「無理でん、何かお腹に入れんと保たなかとよ?」
そのスズに代わってはこべを嗜めたのは、食事の支度を五行に任せて地図を確認していた仏のザだ。
「仏、進捗はどうネ?」
呼び出した〈火の精霊〉の掌に鍋を乗せて携帯食を加熱していた五行が振り返る。
「おーかた九割九分を倒破しよるよ。残りは直線距離で二キロメートルほどやね」
「直線距離でって事は、真っ直ぐ行けそうには無いってことヨネ」
「想定できるルートは三つ。北からか南からか海からか、やね」
澱みなく答える仏のザは、その問いを予想していたのだろう。
彼女たちが目的とする月への連絡施設は砂州の中央付近にあるため、そこに直線距離で行くには内海を渡るしかない。それは、船や飛行能力を持つ騎獣のような海を渡るための備えを持たない彼女たちには難易度の高いルートと言えるだろう。
残るは、このまま市街地跡を突っ切り砂州の北側から侵入するルートと、内海の海岸線に沿って砂州の南側から侵入するルートだ。
「南からか北からか、どちらにしても最後は砂州を駆け抜ける事になるネ。さぁ、とっとと食べるヨ」
「はーーーーい」
火にかけていた鍋の中身を椀に移してはこべに手渡し、五行は長考に入る。
仏のザはそれを邪魔する事なく、木匙を口に運ぶはこべを見守る。
暫し静かな時が流れていた。
それを遮ったのはギィン! という金属音だ。
「やられたわ。偵察機ですぇ!」
音を立てたのはスズの弩弓から放たれた太矢を突き立てられた金属製のカブトムシだった。
バレーボールほどの大きさをした身体を金属の外骨格で覆い、薄い羽でホバリングしていたその昆虫は〈時計仕掛の兜虫〉。
路面を注視していたスズは、この虫が向かいの廃墟の屋根の上に浮遊していることに気づくのが遅れたのだ。
慌ただしく戦闘の準備が始まる。
はこべが粥を喉に流し込み、仏のザは鍋や地図を片付ける。
「敵増援・・・・えぇぇぇと、たくさんっ!」
窓から外を見ていたスズの声が上擦る。
偵察機への攻撃を切欠に、何処に潜んでいたのか無数の機械生命体が市街地跡に出現していた。
廃墟の陰から道を塞ぐように巨体を滑り出させる〈時計仕掛の蝸牛〉、屋根から屋根へと飛び移る〈時計仕掛の猩々〉、街路には隊列を組んだ〈時計仕掛の禽竜〉。
海の方に目を移せば、海面を割って空に舞い上がる〈時計仕掛の飛行魟〉に、砂浜へ這い上がってくる〈時計仕掛の宿借〉。
そして市街地跡の空には〈時計仕掛の兜虫〉。
これが生物であれば統一性のない、と言いたくなるような雑多な種類の、しかし機械であるが故に機能的なその組み合わせはまさに一個の軍隊と言えるだろう。
こと此処に至ってようやく彼女たちも、何故この廃街にアンデッドの姿が無かったのか、その理由に気づくことになったのだった。
◆
スズ達が廃ビルで時計仕掛に取り囲まれていた頃。彼女たちが避けたアンデッド溢れる平原では、傍目には無謀と思える戦いに一人の男が挑んでいた。もっとも、その戦いを見るを無謀と思う者など此の場には居ないのだが。
シャン。
杖を地面に突く。杖の頭部に作られた輪形に通された八個の遊環が涼やかな音を立てる。
その音から錫杖と呼ばれる杖を支えにして、宙に浮かせた身体を一回転。
剣先を象った黒い脚絆に包まれた足先が〈骸骨の騎士〉の頭蓋を蹴り飛ばし、彼方で蠢いていた〈血塗れの死体〉の一団を弾き飛ばす。
シャン。
結袈裟を揺らして地に降り立った男は、その躯体とは逆に宙に浮いた錫杖をくるりと返して背後に突き出せば、その背中に喰らいつこうと飛びかかって来た〈腐食屍鬼〉の喉元に石突がめり込み頚椎の砕ける音が響く。
力なく地面に落ちる〈腐食屍鬼〉を一瞥もすることなく身を翻し首を失った〈骸骨の騎士〉の胴体を横薙ぎに。腰に縛り付けた獅子の毛皮が流れるようにその動きを追随する。
シャン。
視線を巡らせれば、先般弾き飛ばされたゾンビ達が猛然と駆け寄ってくる。その動きに周囲の屍たちも追随し、戦場は際限なく広がってゆく。
男は被った檜笠の下、影に溶け込んで詳細のわからない顔立ちの中で口の端が捲れ上がる。口角が持ち上がる。
それが意味するのは自信と愉悦。
この男は戦いを、己の力を振るうことを愉しんでいるのだ。
「『・・・・』」
首から下げられた円盤。太極印のような、双子の胎児が絡み合うような、白と黒に塗り分けられたそれが抗議するかのように明滅する。
「カラカラカラ。そう怒るでない。折角〈破戒〉などという面白い現身を得たのだ。行程を楽しまねば罰が当たってしまうぞ?」
シャン。
修験者の装束に似た白衣に漆黒の肌を包み、呵々大笑しながら屍の群れを蹂躙していく男の姿は鬼神もかくや。
戦況の拡大により目的地への到達は遅れるだろうが、その分だけ楽しみの時は増す。
そう思うと、男の笑みは深まる一方だった。




