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ぱちり。
目蓋の開く音が聞こえたかと思うくらいに勢い良く鈴名は目を醒ました。
最初にこの世界で目覚めた時と同じ板張りの天井が見え、やっぱり夢オチでは済まないようだと軽く落胆する。
「你早。良く眠れたネ?」
枕元で様子を看てくれていたのだろうか、即座に五行が挨拶をする。
正直、眠りから覚めるのではなく気絶から醒めたのだからこの挨拶は理不尽と言える。
その一方で彼女の口の動きと耳に聴こえてくる言葉の違いは、ここが〈エルダー・テイル〉の世界であることを改めて認識させる。
北米に本社を置き、二十年の歴史を誇る老舗MMORPG〈エルダー・テイル〉はボイスチャットに対応しておりパソコンの前に居ながらにして音声で会話ができるのだが、母国語の違う相手とも会話に不自由が無いよう、高性能の同時通訳機能が搭載されていた。
七年前に語学留学生として台湾からやってきた五行は、その頃のキャラづけの余波で怪しげな似非中国人訛りの混ざった日本語を使うのだが、時折、挨拶などで母国語を交えて話す場合に、このような翻訳が行なわれていたこと鈴名は思い出した。
「おはようさんですぇ、五行ちゃん。ウチら、〈エルダー・テイル〉ん中ぁ入ってしもたんやね?」
上体を起こしながら挨拶を返すと、五行が掛けておいてくれたのだろうか薄手の毛布が肩から滑り落ちる。スマートフォンを操作するかのように中空を見つめながら指をスライドさせていた五行は、眉根を寄せて鈴名の疑問に答える。
「どうやらそうみたい。ついでに言うと、出ることは難しそうネ。実に不可解で不愉快な話アルヨ」
〈エルダー・テイル〉は元々、CGモデリングされた3Dのキャラクターを後方やや俯瞰気味の視点で動かす、ごく一般的なMMORPGだ。
今日から新規パッチが適用されていたとしても、これはいきなりヴァーチャルリアリティが溢れすぎており、あり得ない話しだと思えた。
何より、ヴァーチャルMMOなどと呼ばれるものがもしも実在するとしても各家庭でそれなりの機材を必要とするだろう。
ましてや鈴名はアキバで五指に挙げられる戦闘系ギルド〈西風の旅団〉で事務を束ねる立場にあった。当然ながら新パッチの情報も集めており、〈エルダー・テイル〉がヴァーチャルMMO対応になるなどといった話があれば耳にしていない筈はなかったのだ。
「ところで何と呼べば良いのネ? 外身がスズシロで中身が鈴名だとややこしいヨ」
考え込んでいた鈴名を五行の声が引き戻す。
彼女は昔から、考えても仕方がないことをすっぱりと切り捨て、その場で必要なことに思考のベクトルを向けることが多かった。
思考の切換が早いというよりも、現実的な性格なのだ。現金と言っても良いだろう。
唐突な切り替えに一瞬戸惑う鈴名だったが、その意味するところは判った。
「スズシロ」と呼ばれても鈴名にとっては自分が呼ばれたという感覚が薄く、街中などで声をかけられたとしても気付かない可能性がある。
また「鈴名」と呼ばれるのにも抵抗があった。
プレイヤーの身元が第三者にバレる、いわゆる「身バレ」というのはMMOプレイヤーのみならずインターネットに接している人種にとって忌避される事態だ。
特にロールプレイヤーと呼ばれる、仮想現実の中で現実の自分とは違う自分を演じることを好むプレイヤーにとっては羞恥とさえ言えるだろう。
鈴名は(態とらしい京言葉は別として)自分がそこまで濃いロールプレイヤーだとは想っていなかったが、封印した黒歴史のこともあって身バレには抵抗がある。
特に今はスズシロの身体だ。彼女がどのような活動をしていたのか鈴名は詳しくないのだから、どんな不都合が出てくるか予想できないのだ。トラブルは避けるに限る。
また、鈴名にとって名付け親である祖母と鈴代の関係を考えると……。
「そやねっ。ウチ、最近は友達に『鈴ちゃん』って呼ばれてるんぇ。今は鈴代ちゃんも居てへんし、それで良ろしやろか?」
暗く深い淵に引き摺り込まれそうな気がした鈴名は思考を断ち切って五行に答える。
「フム、『スズ』ネ。それにしても、寝てる時もそうだったけど、目を開けてると本当に鈴代にそっくりな顔をしているヨ」
それに頷くと五行は眼鏡の位置を直しながら、スズの顔をしげしげと観察する。
どうやらゲームのアバターの顔と、プレイヤー本人の顔が混ざったような感じになっているらしく、五行はオフ会などで会ったことがあるのだろう鈴代の顔と比べて似ていると判断したようだ。
それもその筈で、鈴名と鈴代の母親は一卵性の双生児であり、遺伝子上の彼女たちは同年の姉妹ということになる。
その上で生まれてから成人するまで同じ家で同じ物を食べて暮らしていたのだ。
これで似ていない方が不思議というものだろう。
だが、五行は視線をそのまま下ろしながら、続ける。
「その一方で、ここはちっとも似ていないネ。どうやったらこんなに育つのか、ワタシにも教えて欲しいものヨ」
下ろした視線の先には、毛布が滑り落ちたために露わとなった豊満な胸があった。
鈴名の記憶でも〈エルダー・テイル〉がゲームだった頃のスズシロに、こんな大きさの大容量ストレージは搭載されていなかった。
やはり五行はオフ会か何かで鈴代と会っていたのだろうか、遺伝子学上は鈴名の姉に当たる彼女には大平原の小さな胸という不名誉な二つ名がある。
そして、今スズが目にしている大きさ形状そのものは鈴名が入浴などでよく目にするのと同じ形をしているのだ。
はたして、これもプレイヤーの容姿がアバターに影響を与えたのだろうか?
五行は何かを納得したかのように「なるほど、これが持てる者と持たざる者の違いネ」などと独り頷いていた。
ともあれ、その事実を飲み込んだ後、スズは落ちた毛布を引っ掴んで口元まで引き上げ、悲鳴を上げようと口を開く、が・・・・。
「流石に、そう何度も悲鳴を上げられると耳に辛いネ。それにお客も目醒めてしまうヨ」
その反応を予想していたのだろう素早く動いた五行の手に口を塞がれながら、スズは彼女の目線が示す先に転がっているモノを見つける。
それは、羽毛布団を被って仰向けに寝ている黄金鎧の少年だった。
彼は顎に蹴りを喰らってからずっと昏倒しているままのようだ。
自分が気を失う前のことが色々と脳裏によみがえり、あたふたするスズだったが、五行の手はしっかりとその口を塞いでいるため、その内にスズも冷静さを取り戻す。
こと男女関係においてはどうしようもなく初心な彼女ではあるが、基本的には図太いのである。
スズはなんとか衣服で胸を隠そうと毛布の中で悪戦苦闘するのだが、もともと貧乳のスズシロが着ていた衣装は胸元の布地が少ないため、スズの巨乳を隠す役には立たないようだ。
彼女は服で隠すことを一反諦め、毛布をきっちりと身体に巻きつける。
「それにしても、都合よう布団があったもんやわ。ウチが敷布と毛布を使わせてもろてて、この少年は掛布だけってことは一組しか無い言うことやのん? 」
少年は畳の上に直に寝かされていた。
スズは掛け布団をめくって中を確認しようと思ったが、彼が倒れる直前の姿を思い出しそうになって、慌ててその行動を取り止める。
「そもそもこの此処は何やの?」
建物の内装は気を失う前に見たものと殆ど代わりが無く、違いといえば押入れの衾が開いていることくらいだ。
おそらく、五行はそこから布団一式を出してスズと少年にあてがってくれていたのだろう。
そう考えながら部屋を見回していると不思議なことに気がついた。
スズが寝ていた敷布団の上と、寝ている少年の頭の下、両方に枕があるのだ。
「布団が一組。そんで枕は二つ。・・・・そう言うたらさっきこの少年んことぉ『お客』言うてはったよね、五行ちゃん」
くるぅりと五行の方を振り向くと、彼女は密かに背中を向けて退室しようとしていた所だった。
「ナニヲイッテイルノカナ、ワタシニホンゴワカラナイネ~」
「無駄な抵抗はやめときよし。自動翻訳が効いてますえ、あんじょう説明して行きぃやっ!」
スズはその小柄な身体に毛布を巻きつけたまま、九十レベル暗殺者の身体能力でもって逃げる召喚術師に飛び掛ったのだ。
しばらくの後、二人は向かい合って座っていた。
「真不好意思ネ!」
正確には、正座するスズの前で土下座する五行の姿があった。
「まぁ、御蔭さんで乳も仕舞えたからトントンにしとくけど・・・・何で逃げようとしてん?」
対するスズは先ほどまでの毛布を巻きつけた姿ではなく、スクール水着に似たレオタードとセーラーカラーの着いた上着の組み合わせを身につけている。
揉み合っている内にキャットファイトよろしく衣服の剥ぎ取り合戦になった後、再び装備したらサイズがぴったりになっていたのだ。
昨今のゲームには開始時にPCのアバターを設定する際、身長、胸囲、肩幅、腕や脚や胴回りの太さ、女性であれば胸や尻のサイズまで決定できるものが少なくない。
そして、装備を入手し身に着けた時に、その装備の外見がアバターに反映されるものもまた少なくない。
その際に、アバターがどんな体型であろうと、装備のサイズが自動的に体型の方に合わされる、という機能が多くのシステムで採用されている。
つまり、一度装備を解除して再び装備したことでジャストフィット機能が働いたのだろう。
なお、それだけの騒ぎが起きている中で少年は一度目を醒ましたのだが、再び眠りの中に追いやられた。
まったく、彼も最悪のタイミングで目醒めたものである。
「説明するのが面倒だったネ」
五行はといえば、一度謝罪をしてしまえばケロっとしたものだ。
スズとしても、本気で恨んだり怒ったりしている訳でもないので、話を本題に戻すことにする。
「そんで、此処は一体どういう建物やのん?」
「ここは〈ゴジョウ大橋〉の袂にある賃貸型のゾーンでワタシ達が仕事場として契約してる建物ネ」
「五条大橋の袂って、ひょっとして楽園やの? ほしたら、ここは・・・・あぁ、『お茶屋』さんかぁ。道理で布団一組しかない訳やわなぁ」
理解が進むにつれて脱力していくスズの身体。
かつて(と言っても鈴名が短大生だった頃までのことだ)、五条大橋の周辺は〈五条楽園〉という花街であり、古くは〈七条新地〉などとも呼ばれていた京の都における一大風俗街だったのだ。
そこでは〈お茶屋〉と呼ばれる建物が並んでいた。
それは、建物と寝具のみを貸し出すシステムで、酒食は出前を頼み、組合から芸者を派遣してもらう遊び方が一般的だったようだ。
実体験に乏しいスズでさえ、それだけの情報があればスズシロや五行がこの建物でどんな『仕事』をしていたのか想像に難くないが、やはり想像だけで決め付けて良いものでもないだろう。
「仕事、って何してはったんえ?」
ストレートに聞いてみた。
「ワタシは基本的にスズシロの護衛してただけネ。此処はスズシロが『見抜き屋』をやる時に接待所として使ってる場所ヨ・・・・まぁ、今回に限っては美人局に近い話だったケド」
くらっと眩暈がする。
自分が実家を出てからこの従姉の身に何が起こっていたのか想像すらもできなかった。
考えるだに意識が暗い闇に引きずり込まれる気がし、スズは心の底から叫んだ。
「鈴代ちゃん、なにしてんのぉぉぉぉ!?」
2016/4/4:加筆修正しました。