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ヤマトの夜は暗く、静寂に満ちている。
〈サウスレッド荘園〉は、元々ヤマトのほぼ全域を治めていた〈ウェストランデ皇王朝〉の食料庫の一つを担う田園地帯だった土地だ。
その当時であれば、農家で働く人達の家々に明かりが灯っていたのかもしれないが、今の荒れ果てモンスターの闊歩するようになったこの地に住む物好きな〈大地人〉など居ない。
竈で燃える火と〈バグスライト〉の他にスズたちがキャンプしている空き地を照らすのは、樹木が作り出す天蓋の隙間から顔を覗かせる猫の爪のような細い月と、月の光が弱い分だけ鮮明に見える星の光だけだ。
スズは、星を辿って星座の形に繋げようかと考えたが、断念する。
(ウチ、星座なんて知らへんもん)
内心で弁解する。
子供の頃には夜空を見上げた事があったと思う。
鈴名の父親は料亭を営む一家の中で唯一人会社員をしていた。
夕方から家の大人全員が忙しく行き来する家の中に居づらかった鈴名は、退勤する父を駅まで迎えに行くことが多かった。
背の高い建物の少ない京都の川沿いを一緒に帰る道すがら、父は夜空を見上げながら幼い鈴名に星や星座にまつわる物語を話してくれたものだった。
あの時にもっと聞いておくべきだったのだろうか。
鈴名は従姉の鈴代共々、中学に入ると仲居見習いとして家業を手伝わされるようになり、父と会話する機会も随分と減ったように思う。
その父の転勤に付き合って関東へ引っ越しすることで、家業からも仲居見習いからも(時期限定ではあるが)解放されはしたものの、同時期に始めたMMORPG〈エルダー・テイル〉の影響で、やはり夜景を見に外に出る機会が増えることはなかったのだ。
「ぉぉぉぉぉっ」「ぅぉぉぉぉ」「ぉぉぉぅ」
考えに耽っていると、風に乗って呻き声のようなものが聞こえてくる。
土手の向こう、小川に集う〈猛牛蛙〉たちが合唱をしているのだ。
この空き地で物音を立てるのは、竈の火の中で時々弾ける薪くらいなもので、あまりに静かなため、風向きによって蛙たちの奏でる鳴き声が此処まで響いてくる。
もしも秋であれば虫の音に耳を澄ませるところなのだろうが、生憎と今はまだ初夏。
鳥も虫も声を潜め、騒がしいのは蛙の婚活会場くらいなもの、というわけなのだ。
パチリ
また一つ薪が爆ぜる。
火の粉が舞い、炎に照らされて空き地の物陰に追いやられていた闇が、その揺らめきによって姿形を変える。
そんな陰影の作り出す舞踊を見ていたのはスズと仏のザの二人だけだった。
五行娘々が喚び出した〈森の精霊〉は空き地の周りを囲む林の木々と一体化し、警戒に当たっている筈だ。
同じく五行が召喚した〈樹老人〉。
生い茂った葉のような髪と髭、太い枝のような腕、硬い樹皮のような肌、切り口を見るまでもなく年輪を感じさせる穏やかな老爺の顔立ち。
歳を経た樹木と巨人の間に生まれたかのようなこの精霊亜人は、姿を表してからずっと時が止まっているかのように身じろぎ一つしていない。
その腕と地面に打った杭との間に張られたロープに毛布を掛けて作られた即席の天幕で、彼を喚び出した五行と、朝食の下拵えを手伝って消耗したはこべが眠りについていた。
仏のザは、虚空を見つめながら時折竈に薪を継ぎ足していた。
弱火にかけられた大きな寸胴鍋から立ち上る湯気は枝葉の天蓋に遮られ、天に昇ることなく広がって野営地全体を暖め、潤している。
その一番の恩恵を受けているのは鉄板の上に成形されたパンの種たちだろう。
〈冒険者〉の身体が如何にハイスペックとはいえ、オーバーワークを続けていれば疲れもたまるのが道理というもので、流石に五行の負担を軽減しようという話になったのが発端だった。
パンなら発酵食品と言えなくもないので〈醸造職人〉であるはこべが下拵えできるだろうと言うことと、焼いてしまえば多少は保つので昼食代わりにもしてしまおうとの魂胆である。
夕食の準備と並行して行うことになったパン作りだがイーストの持ち合わせがなく、〈醸造職人〉の特技を使い促成でサワー種を起こすところからのスタートになった。
(そもそもの所、〈エルダー・テイル〉におけるパンのレシピに記されていた材料は〈小麦粉〉のみであり、その材料だけでパンが出来ていた以上、イースト菌が存在するのかというレベルで不明なのだ。)
そのサワー種を強力粉と水と少量の砂糖に加え、ひたすらこね続けたはこべ。
愚痴とも呪詛ともつかない文言を吐きながら生地を練る彼女の姿は鬼気迫るものがあり、スズたちにはかける言葉が見つからなかった。
「笑顔のレシピでハピハピハッピー元気と勇気と情熱とトキメキと強さを練れば練るほど色が変わってイ~ッヒッヒキラキラおいしくご奉仕するにゃん」
なんだか最後の方は変な笑いが漏れていたようにも思うが、気にしたら負けなのだろう。
そうやって練ったものを3時間寝かせて成形した後、ようやく彼女は眠りについたのだ。
「今、何時くらいなんやろか・・・・」
ぽつりと呟いた声は、それでも静寂を引き裂くように大きく聞こえ、スズは少し驚く。
「はこべさんが寝てから、大体3時間くらいよ」
そして、即座に返答があったことで、再び驚くことになる。
「お昼もそうやったけど、仏のザはんの体内時計、凄いんやね」
そう褒めると、仏のザは苦笑したのだろうか、困ったような笑顔を浮かべる。垂れ気味の目が細められ、眉が柔らかな曲線を描くその表情は、思わず守りたく成る儚さを持ちながら、同時に見る者に安心感を与える包容力も感じさせる。
(せりPもこの表情にヤられたのかな?)
などと突っ込んだことまで考えてしまいそうになるが、それを振り払っている間に
「実は裏ワザば使ったとよ」
と、今度は茶目っ気のある笑顔を浮かべ、目元を指差す。
スズが注視してみると、仏のザの額にある第三の目にも似た紋様の他に、目尻からコメカミや頬に向けて数条の赤いラインが走っており、 まるで歌舞伎の荒事が施す隈取りのようだ。
「〈刺青模様・力〉」
〈刺青模様〉は、刺青として身体に刻まれた魔力回路に加筆する事で身体能力の一部を強化する、法儀族特有の種族特技群だ。
複数を同時に起動できず、後から起動させたものに上書きされる、いわゆるトグル式の特技であり、その中でも〈力〉は物理攻撃力を増強させる効果を持つ。
「それで時間が計れますのん?」
だが、それを今使う意味が判らないスズは珍紛漢紛。
「はい。こん特技、再使用規制時間が1時間なんよ、これが」
再使用規制時間。
それは、特技を使用した後に再びその特技が使用可能になるまでの待機時間のことだ。
使用した特技のアイコンは、色が暗く染まり、その上には再使用が可能になるまでの時間を表すタイマーが現れ、時を刻み始める。
切り札と言われる、特に効果の高い特技には再使用規制時間が1時間などという物も多く、使い所を見極めるプレイヤー自身の技術が問われるところでもあるのだが、仏のザは再使用規制時間が1時間の〈刺青模様・戦車〉と〈刺青模様・力〉を交互に使い、時計の代わりとしていたのだ。
「凄ぉおすなぁ」
スズは素直に感嘆の声を挙げた。
なお、スズの場合は該当する特技が〈帰還呪文〉と〈アサシネイト〉くらいしか無いため、自分で試すのは躊躇われる。
トグル式の〈刺青模様〉や、いざとなれば再使用規制時間をリセットできる〈アクティベーション〉をも駆使できる法儀族ならではの手法なのだ。
それから野営地には再び沈黙が降りた。
スズは幾度か話しかけようと考えてみたのだが、思いついた言葉は今この時に相応しくないと思え、口には出せなかった。
仏のザもまた何か話しかけようと思ったのだろう、幾度かその唇が開き、しかし音を発する前に閉じていた。
音のない、それでいて気不味い訳でもない穏やかな時間が流れる。
「それにしても、こないして仏のザはんと一緒にはんなりするのって、不思議な気分やわぁ」
どれくらい時間が経ったのだろうか、しばらくしてスズの口から自然に言葉が紡がれた。
「私ち菘さんん二人でなんかばするちこつ、あんまし無かったやからね」
場のコントロールが抜群に上手いせりP、話を一足飛びに進めることのあるナズナ、早口で声も身振りも大きい五行娘々、元気溌剌で明るいはこべ、積極的に主導権を握りに行くスズシロ。
そういったメンバーと共にありながら、派手で大柄な見た目に反して控え目な性格をしている仏のザは、五行やセリPの背後に身を隠すように(無論、彼女の体格では隠れきれる筈もないのだが)していた。
会話のテンポが遅れがちな菘も、大抵はナズナやスズシロの後ろから事態の推移を見ているうちに話が進んでしまうため、〈七草衆〉が解散する以前から、菘と仏のザが他のメンバーを介さずに直接会話するということは殆どなかった。
そう言った二人の気質もあり、春の夜はゆったりと更けていこうとしていた。
ガサリ
月の光さえ届かないブナ林の奥深く。
フォースの剣が振るわれるかのように、爛々と輝く瞳が残光の尾を引いて暗闇を切り裂く。
形の歪な小鼻がヒクヒクと蠢き、貪り喰らっていた〈熊〉の屍肉を丸呑みにすると、一斉にその大きな頭を擡げた。
スズたちの誤算は、瑞々しい空気に包まれて育ちつつあるパンの中種。その生地の中でサワー酵母が乳酸発酵する馥郁たる香りが湯気に乗って林の奥へと漂い、気づかぬ間に招く予定のない客への招待状となってしまったことだった。