好きでいること
コンビニから出ると、むわっとした空気が身体を包み込んで思わず目を細める。絡みつくような熱気が鬱陶しい。今日の晩御飯と明日の朝ご飯が入った袋をプラプラぶら下げて線路沿いの道を歩く。22時。こんな時間にカルボナーラなんか食べたら絶対太る。相殺する気分でサラダを買ったけれど、ぶっちゃけサラダさえ買っておけばデブ化に歯止めがかかる、なんてそんなわけがない。
疲れた。本当はもう歩きたくない。一日中履きっぱなしのパンプスが爪先をしめつけて涙が出そう。帰りたい。帰ってるんだけど。今すぐ、一瞬で帰って、ご飯だけ食べたらお風呂にも入らずメイクも落とさず、早いとこ寝てしまいたい。それでも、起きたら今日の続きの明日がまた来る。明日も6時には起きなきゃ。気が重い。爪先が痛い。涙が出そうだ。
駅から歩いて10分の1DKの我が家には、明かりがついていた。
それだけで泣きたい気分が二乗になる。今日も来たのか。こんなに疲れてるっていうのに。やたらデカいシューズの横にパンプスを脱ぎ捨て、短い廊下を乱暴に歩いて私の夢の園に足を踏み入れるとーーーいた。奴がいた。今日もいた。とか思っちゃう自分が、嫌な彼女だってのは分かってる。
「将太」
短髪のツンツン頭が、お気に入りのソファーからぴょっこり飛び出ている。名前を呼んでも反応しないところから見るに、寝てるなこいつ。寝るなら電気くらい消してくれればいいのに。電気代払うのは私なんだから。それにいるならカーテンくらい閉めてほしい。というかまず来るならメールの一つくらい入れてほしい。
将太に対する不満がぷくぷくと腹の中で煮えてくる。ため息でそれを押し出してテーブルの上にコンビニの袋を置くと、将太の瞼がピクリと動いた。
もはや起きようが寝てようがどっちでも構わない私は、この狭い部屋でやたら存在を主張する長い彼を無視して電子レンジへ向かう。
500Wのボタンを押した時、声がした。
「おかえり」
ただいま将太、なんて、可愛く飛びつく元気もない。
将太は私より三つ年下の大学生。友達の友達の後輩だった。付き合うようになって、もうすぐ三年が立とうとしている。
「来るなら連絡してよね」
カルボナーラを電子レンジから取り出して振り向かずにそう言うと、デカいあくびをしていた将太は「え、別にいいよ」と謎な返答をしてきた。別にいいって、何それ。私は良くないから言ってるんじゃん。
「部屋が汚くたって気にしないよ」
私の怪訝そうな顔を見た将太がニコニコしながら付け足す。………ああ、そういうこと。「(掃除するから)来るなら連絡してよ」って意味だと思ったのね。確かに前はそうだった、そういう意味で言っていた。でも今は、ちょっと違う。事前に来るって言われてても、私はたぶん部屋の掃除なんかしないだろう。ていうかしてる時間がない。汚いと思うなら来なくてもいいよ、とか、意地悪な言葉が浮かぶ。
私は将太に何も答えないで、キッチンからフォークを取り出してカルボナーラの容器をテーブルに置いた。横になっていた将太が身を起こして、「ん、うまそう」と乗り出してくる。
「食べる?」
「いやいい」
ソファーの背もたれにばふっともたれて、「夜にそんなん食べたら太るよ」と笑った。
分かってるよ。袋からサラダを出すと、将太が「智佳らしいなあ」とまた笑う。私の思考回路ぜんぶ、見透かされてるみたいで悔しい。何か返そうと思ったけれど、口を開いたら不機嫌な声しか出てこないような気がしてやめた。
「サラダさえ食べとけばいいって思ったんでしょ」
「……思ってないよ」
「図星?」
「……もー……疲れてんの」
刺々しい言葉が出た。モヤモヤした気持ちがおなかの中にたまっていく。疲れてるのだ。その上落ち込んでるのだ。今日、課長につまらないことで怒鳴られた。同期の子も何人か一緒にいて、後輩すら一人いたのに、私だけが怒られた。そしてその後、課長がその同期や後輩と、怒鳴られたネタなんかよりもっとくだらない、焼き鳥かなにかの話なんかして笑っていた。ーーー分かってる。私がノリが悪いのがいけないのだ。課長が冗談を言っても、気の利いた返しができない女だから、悪いのだ。説教をくらったことに対して、「私ばっかり」「なんで私だけ」なんて、叱られた小学生みたいなことしか思えない奴だから、いけないのだ。
私が、悪いのだ。
それが分かっているから、怒りの矛先を課長にも同期にも後輩にも向けられず、ダイレクトにかえってくる牙が、痛い。
将太が笑う。私の牙なんて何にも気にしていないみたいに笑う。
ーーーイライラする。
「智佳、最近部屋の掃除してる?」
ーーーうるさい。
「コンビニ弁当ばっかりとか、体に悪いよ。お昼もどうせ買ったものでしょ?」
うるさい。うるさい。
「智佳はひとりだと、ほんとにーーー」
「うるさい!!!」
自分でもビックリするくらい大きな声が出た。喉が灼けるように熱い。面食らったような顔して口を閉じた将太に、手にしたフォークを投げつけそうになるのをぐっとこらえて、代わりに近くに転がっていたハンカチを思いっきり投げ捨てた。ティッシュ、髪ゴム、定期入れ、近くにあるものを握りしめて将太に投げる。クッション、ビニール袋、洗濯物のタオル、リモコンーーーだめだ、これは、固いからーーー
リモコンを握りしめて、振り上げようとした手を止めると、まぶたの裏がじんじんして、涙が一粒、頬を転がった。
サイテー。私、ほんと最低だ。私が投げつけたものから防御を計っていた将太が、顔にへばりついたビニール袋を手に持ってぎょっとする。怒ったと思ったらすぐ泣くような、そういう女、私すごく嫌いなのに。私は将太よりも三才も年上で、会社員で、一人暮らしもしてるのに。肩書きだけ大人になっても、毎日スーツとパンプスで東京を歩き回っても、私は小さくて弱くてずるい、サイテーな奴だ。
将太の顔が見られなくて、リモコンを持った手をだらりとぶらさげたまま、私はうつむいてメソメソ泣いた。ぬるくてしょっぱい涙が頬を、鼻の横を、濡らして這っていく。
つまらない。
こんな、繰り返しのような毎日も、くだらない自分のタチも、なにもかもつまらない。
「別れよう……」
絞り出した声は震えていた。
「別れよ、将太……別れようよ、もう……」
ベッドサイドに立てかけられた写真たてには、楽しそうに笑う私と将太。
私たちは、世界一幸せな二人だったのに。
静かな部屋には、エアコンが冷たい空気を送風する音だけが響く。散らかった部屋。脱ぎ散らかしたジャケット。食べかけのカルボナーラ。全部が作り物めいて、全部が私をあざ笑っているように見える。
「……なんで?」
いつもより低い、将太の声がした。将太が怒るところなんて、見るの何年ぶりだろうーーーいや、私は将太が私に怒りをぶつけてきたとなんて、ただの一度もなかったことにふと気がついた。いつも優しい将太。いつも笑ってる将太。
悪いのは私なのだ。
いつだって、私だったのだ。
涙がこぼれる。
「……私が、変わったから……分かるでしょ?将太だって、分かるでしょ、私どんどん将太に冷たくなってる」
「………」
「分かる、でしょ…?」
顔を上げて将太を見ると、思いつめたような顔をして、テーブルの上のカルボナーラを見つめていた。
終わりにしよう。
私がいつしか将太を負担に思うようになって、その罪悪感をさらに胸に持て余すようになった時から、もう、無理だったのだ。
終わりに、しよう。
そう言おうと口を開きかけたちょうどそのとき、将太がパッと私を見て、いつもと同じように、笑った。
笑顔に面食らって、言葉が喉でつっかえたその隙に、将太がソファーから立ち上がり、抵抗する間もなくふわりと私を包み込む。
やめて。
その一言は、出てこなかった。
涙が溢れて、喉も口先もひくひく震えて、言葉になんか、ならなかった。
将太の匂い。
将太の温度。
だめだよ。
そう思うのに、将太の腕に、背中に、首筋に、私はバカみたいに安心して、ぼろぼろぼろぼろ涙が出てくる。
「だめだよ………」
離れなきゃだめだよ。終わりにしなきゃだめだよ。大した彼女らしいこともできないくせに、こんなときだけ甘えるなんて、だめだよ。
「……わたしなんか、早く捨てなきゃだめだよ…」
ぐずぐず上擦った声で告げると、将太が笑ったのが、顔を埋めた肩から伝わってきた。
「捨てないよ」
「……バカ、だってわた、わたし、もう将太の彼女できない」
「できなくてもいいよ。彼女でいてくれれば」
バカ。どうして今、そんなこと言うの。普段は無神経の塊のくせに。愛情表現なんて、気まぐれにしかしてくれないくせに。
でも、だけど。
それでも。
そんなところを、好きになったのだ。
「………うう、」
将太の体温を感じながら、唐突にそんなことを思った。
こんなところが好きだったのだ。私が一番惨めなときにも、笑っていてくれるから、側にいてくれるから、好きになったのだ。
「……離さないでって言ってるよ」
将太が笑みを含んだ声で、私の手を取る。もう片方の手で私は、将太の背中をぎゅっと抱きしめた。
背の高いあなたに抱きしめられると、世界中のどんなものからも守られてるみたいだ。
ごめん。将太、ごめん、こんな私で、ごめん。
ありがとう。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔をあげると、将太は私の顔を見て吹き出して、それから優しく、額にキスをした。
初めまして。初投稿です。ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました!
萌える恋愛小説は書けませんが、暇つぶしのちょっとしたお役に立てれば嬉しいです。