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序章



 序



 風が吹いていた。

ごうごうと低いうなり声を立てる風は、高い岩山の向こうから吹いてくる。

土に汚れた作業服を着た少年は強い風に帽子を飛ばされないように両手でしっかりと押さえ歩いている。

辺りは夜明け前のため薄暗く、風だけがうなり声を上げ渦巻いている。

帽子の少年は低い潅木の生える砂利道を踏みしめ、前を進む人影の背を目印に歩いている。

「見ろよ、レイン」

 ごつごつした大きな岩の上に、濃い紫のベストを着たレインの主人である少年が立っている。

かつては真っ白だった絹のシャツも歩いてくる途中にあった茂みを越えるために土や泥に薄汚れ、仕立てたばかりの革のブーツも飛び散る土が固まってこびりついている。

ただ少年の銀の髪だけが突風にもまれながらもその輝きを失わず、ようやく雲海の彼方から頭を出した朝日に照らされ輝いている。

「待ってください、ライ様。そんなに急いでもし怪我でもなされたら、僕がアウグレ様に怒られてしまいます」

レインは前を行く主人の少年を早足で追いかける。

大岩の上に立っていた少年は機敏な動作で飛び降り、その影に見えなくなる。

レインは大岩の前に来るとそこに片手を付いて暗い影を覗き込んだ。

その影はまるで仄暗い洞のようになっていた。

大岩が長い風雨で穿たれ、ぽっかりと穴が開いている。

そこは昔からこの北方群島に伝わる昔話に出てくる、妖精が住んでいるかのような場所だった。

日の光さえ届かず、常に岩の陰になっているそこは、昔話に出てくる妖精が住むには格好の場所のようにレインには思えた。

レインはぶるりと身を震わせ、後ろに退いた。

大岩の向こう側、朝日に照らされた荒野を見ると、主人である少年の背中が丘を駆け上るところだった。

「待ってくださいよ、ライ様」

 主人の背を追いかけ、レインはヒースの生い茂る丘を登っていく。

丘を登りきると、その先は垂直に岩が落ちる絶壁になっていた。

高さ100ヤードほどはあろうか。

目もくらむような高さに、谷底に引きずり込まれるかのような風のうなり声を聞いて、レインは生きた心地がしない。

岩の下には雲海が広がり、その向こうには昇ったばかりの太陽が空と大地を明るく照らしている。

レインはできるだけ下を見ないようにそろそろと後ろに下がると、辺りの様子を見回す。

少し離れたところにライの姿を見つけた。

「ライ様」

 レインはライのところまでそろそろと歩いていく。

ライは昇ったばかりの太陽の光を浴び、銀色の髪を黄金色に染め、輝くような紫の瞳で雲海の彼方を見つめている。

ライはレインに気が付くとゆっくりと振り返る。

人懐っこい笑みを浮かべ、小さく手招きした。

「レイン、来てみろよ」

 レインは怪訝な顔をする。

「まさか、また岩の上から突き落とすつもりじゃないでしょうね」

 いつだったかレインはライに岩の上からつき落とされたことがある。

あの時も、同じように岩の下を見てみろと言われたのだった。

「そんなんじゃないって」

 ライは軽く肩をすくめる。

レインはライを疑いの眼差しで見つめていたが、諦めてライの隣に並んだ。

ごうっと強い風が吹き、レインは思わず帽子を押さえ硬く目を瞑る。

「ほら、見てみろよ」

 ライの声に促され、レインは恐る恐るまぶたを開く。

目の前には朝の日に照らされた黄金色の雲海が広がるばかりだ。

断崖に巣を作るという黒い海燕が、強い風に乗るように空を泳いでいる。

目もくらむような崖の下を覗き込んでも、打ち寄せる雲の波が打ち寄せているだけだった。

「特に、いつも通りですが?」

 レインは眉をひそめた。

 確かに朝日は美しく、雲海も輝いているが、どこまでも続く青い空と白い雲海はいつも眺めているものなので、特に感動する気持ちは沸いてこなかった。

ライが何を考えてここに連れてきたのか、レインは図りかねた。

いつもならば夜明けとともに起きて庭仕事をするはずの庭師見習いのレインを叩き起こし、屋敷で朝一番に起きる料理人の暖炉の火も入らないうちに屋敷を飛び出し、ここに連れてきた理由は何なのか。

来る途中いくら聞いても、ライは笑うばかりで何も答えてくれなかった。

 隣に視線を向けるとライが落ちつかないように辺りを見回している。

「ちょっと待ってろ。くそっ、だめだな。こう雲が多いと」

「何か探しているのですか?」

 レインは昇ったばかりの黄金色の太陽に目を細め、尋ねる。

「ちょっとな」

 ライは素っ気なく答える。

何も話す気が無いらしいライを横目に、レインは昇ったばかりの太陽に手を合わせる。

いつも朝一番に唱える祈りの言葉が口から出た。

「天空神ラスティエよ。

太陽の子ナルダよ。

天地をあまねく照らし給え。

我は天空神ラスティエの子にして、

太陽の子ナルダの信徒なり。

今日一日の平穏と幸福をもたらし給え」

 レインが小声で朝日に向かって祈っていると、それを見たライが彼の帽子をはたく。

「何お堅い司祭の真似事なんてしてるんだよ。ほら見てみろ。あの雲の間」

 レインはずり落ちかけた帽子を直し、ライの指差した先に目を向ける。

ちょうど雲が切れ、その隙間から濃紺の海が見えた。

海の青い水面が朝日に照らされ硝子をまぶしたようにきらきらと輝いている。

「今日は地上の海がよく見えますね。ライ様が見せたかったものは、地上の海ですか?」

 レインは感嘆の声で答える。

海抜三千メートルに浮かんでいるローラシア大陸の北西端にある北方群島では、気流の関係で普段は深い霧に覆われることが多い。

だが、春のある晴れた日。

雲が吹き飛ばされる風の強い日。

限られた場所でのみ、稀に遠くまでの景色が見渡せることがあった。

「どうだ、すごいだろ」

 ライは腰に手を当て、胸を張る。

 主人のライがまるで自分の手柄のように言っているのが、レインにはおかしかった。

レインは思わず苦笑いを浮かべる。

ライには悪いがレインは前々からこの場所から海が見えるのを知っていた。

屋敷に仕える庭師であり、自分の師匠である父親に怒られたとき、七曜学校で友達にいじめられたときなどは一人でこの丘にやってきて、黙って雲海や地上の海を眺めたものだった。

 まさかこの場所から地上の海が見えることを知っていたとも言えず、レインは小さく頷いた。

「すごいですね」

 レインは黄金色の雲海と、その下に広がる濃紺の海の美しさに灰色の目を細める。

「すごいだろ。俺は滅多に来ないが、ここはお気に入りの場所のひとつなんだぜ」

 ごうごうと鳴る風に負けないように、ライが声を張り上げる。

「でも、本当にすごいのはこれからだぞ」

 崖下の雲が強い風に徐々に散らされ、地上の青い海が広がっていく。

ライの指さした先、雲が途切れ現れた光景にレインは息をのんだ。

雲の間、自分の眼下に茶色の大地が垣間見えたのだ。

レインは何度も瞬きし、強い風で目に塵が入ったのかと思い、手で目をこすった。

それでも茶色の大地は消えてなくならず、太陽の光を受けて明るい橙色へと変わっていく。

「そんな、どうして」

 無意識のうちにレインはつぶやいた。

ライが声を立てて笑う。

「聖典には、“数多くの大地が海に没し、幾つかの大地が空に昇った”とあるだろ? その、数多く、が問題なんだよな。でも、全部とは言っていない。するといくらかの大地は地上に残っているってことだよな? 聖典も嘘は付いてない。つまり、そういうことだ」

 ライは紫色の目を細め、雲海の彼方を眺める。

「どうして」

 風の音にかき消えるようにレインは同じ言葉を繰り返す。

ライは困ったように銀髪の頭をかいた。

「残念ながらそれは俺にもわからない。ただな、あの口うるさい家庭教師のグレンタ先生が言っていたことが嘘だってことはわかったな。“地上の大陸はすべて海に没し、地上には人の住む土地は残っていない”とさ」

 レインはライの話を聞いていなかった。

 ただ夢中で地上の黒い大地を見下ろしていた。

風が耳元でごうごうとうなり、地上の陸地は見る間に雲の間に隠れてしまう。

 明け方の空に橙色の空が細く流れていく。

レインはその美しい風景を惜しむかのように、小さな溜息をついた。

「なあ、レイン」

 ライは岩の上に座り、東の空から登る朝日を眺めている。

「俺は大人になったら、あの雲の彼方、“空の座”に行くんだ」

 レインはライの隣に腰を下ろし、首を傾げる。

「“空の座”と言うと、聖典にあるあのどんな願いも叶う、天空神ラスティエの創ったとされる楽園のことですか?」

「そうだ」

 ライは短く答える。レインは聖典の一節を思い出す。

「小鳥や動物は穏やかに群れ集い、

草木は優しげに揺れる。

そこは寒さもなく、

飢えもなく、

人々は心豊かに日々を送ることが出来る

とある、“空の座”のことですか?」

 レインは重ねて尋ねる。

「そうだ」

ライは短く答える。

ライの朝焼けの空のように澄んだ紫の瞳は、登ったばかりの朝日をとらえている。

風に吹かれ、ライの銀色の髪が太陽の赤い光を弾く。

「俺はいつか“空の座”へ行く。空を渡る船を操って、天の頂へとたどり着いてみせる」

 聖典にある“空の座”は、神々の住まう天の頂にあるという。

“空の座”は天空神のおわす聖地であり、いまだかつて誰もたどり着いたことのない場所だった。

物知り顔の助祭などは、“空の座”は人々が死んだ後に行く天国にあり、この世の場所ではないと話していた。

 レインはぼんやりと眼下を見下ろし考える。

 果たして、“空の座”など本当にあるのだろうか? と。

 毎日の生活で精一杯のレインにとって、そのような幻想など一度も考えたことが無い。

 いくら信心深いレインでも、楽園がこの地上にあることなど信じられなかった。

流れる雲の隙間から、地上の陸地がもう一度見えないものかと目をこらしたが無駄だった。

厚い雲海に遮られ、地上の海さえもうほとんど見えなかった。

「“空の座”へ行くときは、お前も一緒だぞ、レイン!」

 熱っぽく夢を語るライに名前を呼ばれ、レインは顔を上げる。

「レインは俺なんかよりよっぽど頭が良いから。海図を読む航海士にはうってつけだな。俺はもちろん船長だ! 妹のアンナと、屋敷のちび共も船に乗せてやらないと後で文句を言われるからな。それから親父に、お袋に」

 レインは朝日に輝くライの横顔を眺める。

いくら突拍子もないことを言い出すライでも、天船が幾らするか知らないわけではないだろう。

天船がとてつもなく値段が高く、小さな地方領の財政が傾くぐらいの値がするのを、レインは知っていた。

いくらライが北方群島の辺境伯を継いで、道楽で空船を買ったところで、“空の座”を目指すことなどとても出来ない。

ライの夢が半ば実現不可能ということは幼いレインにも予想が付いた。

しかし、ライの夢を一刀のもとに切り捨てるのも忍びなく、レインは結局黙っていた。

 不意に眩しい光がレインの顔を照らした。

そこで初めてレインは高く青い空を振り仰ぐ。

見ると黄金色の太陽が、雲海の彼方から昇ってくるところだった。

雲海の彼方に昇る朝日の光を受けて、上空の雲が黄金色に輝いている。

強い風にあおられ流れる雲は、刻々と形を一時も留まっていない。

 ――確かに神々しい風景だ。

 レインは昇ってきたばかりの太陽の眩しさに目を細め、帽子のつばを引き寄せる。

 だが今レインの心の大半を占めていたのは、一瞬だけ垣間見えた地上の風景であり、なだらかに続く茶色の大地だった。

――もし、地上にもここと同じように春が巡ってくるならば。

 レインは地上が緑に芽吹く風景を思い浮かべる。

氷が溶け、小鳥がさえずる頃になれば、平野一面緑に染まって見えるのだろうか。

地上にもここと同じように人々が住んでいるのならば、畑を耕し、種をまき、農作業に勤しんでいるのだろうか。

もし地上にもここと同じ植物があれば、同じように土地を治める領主がいれば、レインと同じ庭師見習いが、木々の手入れをしているのだろうか。

 レインは地上のことをあれこれと思い浮かべる。

「いつか、行ってみたいですね」

 レインは地上のことを考えながら、ぼんやりとつぶやく。

 空船があれば、“空の座”に行くことはかなわなくても、地上には行けるかもしれない。

「そうだろ、そうだろ」

 レインのつぶやきに、ライが喜々として答える。

 雲と海の境に浮かぶ空の大陸で、二人の少年は似て非なる夢を抱いて朝日を眺めていた。

 どのくらいそうしていただろう。

 太陽が高く昇り、暖かな光をヒースの生い茂る崖の上に投げかけている。

白い雲海が静かに打ち寄せ、崖の下のレインの足元にひたひたと波紋が広がっている。

 黄金色の太陽は徐々に高い位置に遠ざかり、荒野に伸びる二人の影が短くなっていく。

 ライはよっと掛け声を上げ、勢いよく立ち上がる。

「そろそろ帰らないとなあ。屋敷の使用人達が起き出す頃だ」

 ライが崖の向こう、ごつごつした岩の方に歩いていくのに気付き、レインは慌てる。

「ま、待って下さいよ、ライ様」

 レインは慌てて立ち上がる。

 作業着についた枯れ草を払う暇も惜しく、去っていくライの背中ばかりに気を取られていた。

 追いかけようとヒースの間にある石の上に一歩踏み出したときだった。

 強い風がうなりを上げ、レインのすぐ側を崖に向かって吹き抜けていく。

 レインの足が一瞬だけ地上を離れ、体が中を泳ぐ。

 あっと、叫ぶ間もなく、レインの足は岩だらけの崖から離れ、空中に放り出された。

「レイン!」

 ライが必死な顔で手を伸ばしてくるのが見える。

 レインも同じように手を伸ばしたが、その指先は空しく宙をかいた。

 耳元ではごうごうと風が通り過ぎる音がする。

 風が蛇のようにうねり、レインの体を舞い落ちる枯葉のようにもてあそぶ。

 レインは頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。

 崖の上の岩場が遠ざかり、レインは白い雲海の中に落ちていく。

 レインは青い目を見開き、絶望的な顔をした崖の上のライを見上げる。

「レイン、レイン!」

 ライの悲痛な叫び声が聞こえる。

 ――ライ様。

 レインは唇を微かに動かしたが、声にならなかった。

 ライの姿は急速に遠ざかっていく。

 空を飛ぶ黒い海燕も。

崖の茶色い岩肌も。

高く青い空も。

目の前をものすごい速さで通り過ぎていく。

 やがてレインの視界は白い雲海にすっぽりと覆われ、何も見えなくなった。


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