七章二十三話目
母の独白にレインはぎょっとする。
(ケルン枢機卿の人生を台無し? 母さんが?)
もう少しで声を上げてしまうところだった。
ケルン枢機卿と言えば、あの四名家と呼ばれる名門のケルン家の人間だろう。
その人物と母の間に昔どんなことがあったかは知らない。
母がそう言うのならきっと何かあったに違いないが、今ここで話題にすべきことでは無いように思える。
しかもその思わせぶりな口ぶりは、父の手前その話題は避けるべきだとレインでさえわかった。
母のアンジェはしまった、という顔をして、手で口を押えている。
「ご、ごめんなさい、源太さん。今のは変な意味ではないのよ?」
アンジェは妹のセイナを抱っこしている。
父の源太は黙り込んだままだ。
そう思ったのはイヴン先生もシェーラ先生も同じだったらしく、診療所の病室に気まずい沈黙が落ちる。
レインは父の様子を伺っている。はらはらして見守っている。
「うー」
アンジェの腕の中のセイナが小さな手を精一杯伸ばして源太の服をつかむ。
「うーうー」
何かを訴えるように源太の服をぐいぐいと引っ張っている。
赤ん坊なりに何かに気付いて父に訴えようとしているのだろうか。
まるで母を疑うなとでも言っているようだった。
ふっと源太が息を吐き出す。
「大丈夫だ、セイナ。父さんは母さんのことを疑っている訳じゃない。だから心配しなくても大丈夫だよ」
源太は手を伸ばし、大きな手でセイナの頭を撫でる。
「うー」
セイナは母の腕の中で満面の笑みを浮かべる。
上機嫌できゃはきゃは笑っている。
母と父もお互いを見つめて笑い合う。
張り詰めていた部屋の空気がほぐれるような気がした。
レインはほっと安堵の息を吐き出す。
(良かった。父さんがあまり気にしてなくて)
レインとしては、こんなことをきっかけに両親の仲が悪くなって欲しくない。
出来ればいつまでも両親とも家族として助け合って暮らし、離婚して欲しくないと思っていた。
「ごめんなさい、源太さん」
母のアンジェがセイナを撫でながら同じ言葉を繰り返す。
「だからそう気にするなって」
父の源太が気遣うように言葉を返す。
「アンジェさんが昔セラフにいたのは知っている。ケルン枢機卿と姉弟のように育ったのも聞いている。アンジェさんと結婚する時におじいさんから大よそのことは聞いたから知っているし、受け入れてもいるつもりだ。それについて今更蒸し返すつもりもない。だからアンジェさんが謝る必要はないんだ」
父はきっぱりと言い放つ。
こういうところは割り切りの良い性格の父だった。
鈴牙国が無くなった時に苦労して逃げてきた影響もあるのだろう。
はらはらして見守っていたレインも、父の言葉に感動してしまう。
「アンジェさんもケルン枢機卿との結婚を蹴って、俺を選んでくれたんだからな。俺も精一杯いい旦那でいないと、ケルン枢機卿に恨まれちまう」
源太は照れくさそうに頬をかく。
「もうっ、源太さんたら。あなたはあたしにとってもったいないほど良い旦那さんよ」
アンジェが妹のセイナが抱きかかえながら、肘で源太をつつく。
「そうだといいんだがな」
レインは父と母とのやり取りを、青い目を丸くして眺めている。
(母さんとケルン枢機卿が結婚? 母さんっていったいどこのお嬢様だったんだろう?)
驚きと同時に、両親の関係を、いいなあ、と思って見とれてしまう。
そこでふと自分のことを考えてしまう。
リタ・ミラの種が育つまでの十年の間、レインはどこでどうやって過ごすのだろうか。
その十年の間には、きっと今よりもずっと多くの人と出会うことになるのだろう。
未来のことに思いを巡らしても、現時点では想像が付かない。
十年と言う月日は、レインにとって途方もない長さに思える。
(僕も誰か好きな人が出来るのかな?)
十年後には、レインは二十七歳。
二十代で結婚した両親の年齢を考えると、そろそろ結婚を考えてもいい歳なのだろう。
その頃には、レインにも一人くらい好きな女性がいるのだろうか。
(僕を好きになってくれる女性がいるのかな?)
そちらの方が問題だった。
たとえレインが好きでも、相手が自分を好きになってくれるとは限らない。
相手の女性が別の男性を好きであったり、付き合っていたりしたら諦めざるを得ない。
もっと言えば、ごく平凡な自分を好きになってくれる女性がいるとは考えられない。
(結婚どころか、付き合う女性さえ一人もいなかったら、悲しいな)